天皇 陛下 カツラ。 皇太子はカツラ?尿袋と病気の真相

天皇皇后両陛下のご日程:令和元年(10月~12月)

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天皇や皇帝、王に対して用いられる「陛下」という敬称。 いったいどういう意味があるのか考えてみたことはありますか?(写真:BrendanHunter/iStock) 新しい元号も発表され、天皇陛下の譲位がいよいよ4月30日に迫ってきました。 譲位された後、天皇陛下は上皇、皇后陛下は上皇后になられます(「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の第3条と第4条による)。 敬称は、今後も両陛下ともに「陛下」のままとされています。 この天皇や皇帝、王に対して用いられる「陛下」という敬称ですが、そもそもいったいどういう意味があるのでしょうか。 国家の最高地位者に対し、「下」という文字が使われるのはいったいどういうことなのでしょうか。 なぜ「下」なのか 「陛下」は紀元前3世紀、秦の始皇帝の時代から使われ始めました。 日本でも律令制の確立とともに8世紀には、天皇に「陛下」の敬称を用いることが定められます。 「陛」は「きざはし」と訓読みし、皇帝の住む宮殿へ通じる階段を意味します。 ただし皇帝はその階段の上にいるはずですから、「陛下」ではなく、「陛上」となると考えると自然ですが、いったいなぜ、「下」なのでしょうか。 これには理由があります。 当時、人々は皇帝に直接、話しかけることはできませんでした。 皇帝の侍従を通じて奏上することができたのです。 この侍従は宮殿の階段の下に控えていました。 そのため、「階下の者を通じて、奏上致します」という意味で、「陛下」と呼びかけたのです。 最初、「陛下」というのは、皇帝に奏上する際に使われる枕詞のようなものでしたが、次第にそれ自体が皇帝を表す尊称として使われるようになります。 しかし、中国では、「陛下(ピーシャ)」よりも「皇上(ホアンシャン)」の敬称のほうが頻繁に用いられました。 皇太子をはじめ皇帝の子や皇族は「殿下」と呼ばれます。 「殿下」の「殿」は宮殿のことです。 「宮殿の下に控える侍従の者を通じて申し上げます」という意味で使われ、「陛下」よりも一段格下の尊称として使われます。 さらに、重臣に対しては、「閣下」の尊称が使われます。 「殿下」よりも一段格下です。 「閣」は楼閣を意味します。 現在では、大統領や首相、大使などに対しても用いられます。 ちなみに、聖職者に対する尊称もあります。 ローマ教皇や正教会の総主教などキリスト教における最高位の聖職者には、「聖下(せいか)」が用いられます。 仏教の高位聖職者には、「猊下(げいか)」が用いられます。 猊とは「獅子」のことです。 仏典では、ブッダを「人中の獅子」としており、ブッダや高徳な人の座るところを獅子座と呼びました。 チベット仏教のダライ・ラマ法王にも「猊下」の尊称が使われます。 「聖下」と「猊下」には、どちらが格上・格下かの区別はありません。 呼び方が異なるというだけのものです。 このように、最高地位者に対し、「下」という文字を使うのは「下にいる侍従を通じて、申し上げる」という意味が一様にあるからです。 朝鮮王が「陛下」ではなく、「殿下」と呼ばれたワケ 皇帝や王などの最高地位者には、「陛下」の敬称が用いられますが、例外がありました。 かつての朝鮮王です。 朝鮮王は「陛下(ペハ)」ではなく、一段格下の「殿下(チョナ)」と呼ばれました。 朝鮮はそのほとんどの歴史において中国の属国であり、独立した国家ではありませんでした。 その王は中国皇帝の配下であり、「陛下」と呼ばれる一国の主権者ではなかったのです。 古代中国には、郡国制という地方制度がありました。 これは地方に諸侯王を配し、彼らに地方政治を委任するという制度です。 漢王朝の時代に起きた「呉楚七国の乱」という反乱を聞いたことがあると思います。 呉や楚などの七国は「国」と称されるものの、「国家」ではなく、漢王朝の一部としての地方に過ぎません。 諸侯王は「王」と称されるものの、いわゆる「国王」ではなく、漢王朝の地方知事の役割を背負っていました。 また、中国はこうした主従関係を周辺諸国(地域)にまで拡大し、その君主や首長に王や侯などの爵位を与え(冊封)、藩属国として中国の影響下に置きました。 これにより、さまざまな程度の差はありながらも、中国は周辺を従属させます。 この中国中心の統治システム・国際秩序を冊封体制と呼びます。 中国には、こうした郡国制や冊封体制のような伝統もあり、「国」や「王」が多用されることがありますが、それは近代で使われる主権国家の国や国王とは意味が異なります。 李氏朝鮮3代目の太宗が明王朝によって朝鮮王に冊封されますが、これも「郡国」的な意味における諸侯王という扱いにすぎません。 そのため、朝鮮の王は「陛下」ではなく、「殿下」と呼ばれます。 その世継ぎも「太子(テジャ)」ではなく、一段格下の「世子(セジャ)」と呼ばれます。 この他、朝鮮王に「万歳(マンセー)」は使われませんでした。 「万歳」は中国皇帝にのみ使われるもので、朝鮮王には「千歳(チョンセー)」が使われました。 明確な序列関係があったのです。 かつて、ソウルの西部には、迎恩門と呼ばれる、中国の勅使を迎えるための門がありました。 朝鮮王は中国の勅使がやって来る時、自らこの門にまで出向き、三跪九叩頭の礼で迎えました。 三跪九叩頭の礼とは、臣下が皇帝に対して行う最敬礼です。 皇帝の内官(宦官)が甲高い声で「跪(ホイ)!」と号令をかけると、土下座し、「一叩頭(イーコートゥ)再叩頭(ツァイコートゥ)三叩頭(サンコートゥ)」という号令の度に頭を地に打ち付け、「起(チー)」で立ち上がります。 そして、また「跪(ホイ)!」で、土下座して同じ行動をします。 この土下座のような動きが計3回繰り返されます。 中国の朝鮮支配は長く続きましたが、1894年の日清戦争で、日本が清王朝と戦い、勝利します。 翌年、下関条約により、清が朝鮮の独立を承認します。 1897年、独立した朝鮮は「大韓帝国」と国号を名乗りました。 「韓」は王を意味する雅語で、古代において、三韓にも使われていました。 朝鮮王は皇帝となり、「殿下」ではなく、「陛下」と呼ばれるようになりました。 当時、朝鮮の人々はこれを非常に喜び、中国への隷属の象徴であった迎恩門を取り壊し(屈辱を忘れないために、2本の迎恩門柱礎だけを残し)、新しい門を同じ場所に建てました。 これがソウル西部の西大門広場に今も残る「独立門」です。 天皇を「日王」と呼ぶ韓国 話が前後しますが、明治維新を遂げた日本の新政府は1868年、国交と通商を求める国書を朝鮮に送りました。 しかし、朝鮮はこの国書の受け取りを拒否します。 国書の中に、「皇」や「勅」の文字が入っていたからです。 「皇」や「勅」を使うことができるのは中国皇帝のみであり、こうした国書は日本の中国皇帝に対する挑戦であり、容認できるものではない、と朝鮮は考えたのです。 これは、華夷秩序という儒教に基づく考え方で、中華に周辺国が臣従することにより、国際秩序(前述の冊封体制)を維持すべきとするものです。 朝鮮はこうした考え方を歴史的に有しており、天皇を「皇」の字のある「天皇」とは決して呼ばず、「倭王」と呼んでいました。 近代以降は「日王」と呼びました。 中国皇帝に服属する朝鮮王が中国皇帝と対等な「天皇」を認めてしまうと、朝鮮は日本よりも下位に置かれてしまうことになるため、「天皇」を頑なに拒み続けたのです。 それが今日でも続いています。 文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が2月7日、ブルームバーグのインタビューで、従軍慰安婦問題で、天皇が謝罪すべきと発言しました。 日本のメディアでは、文議長の発言を「天皇」と訳し変えて伝えていますが、文議長は実際には、「天皇」とは言っておらず、「王」と韓国語で言い表しています。 李明博(イ・ミョンバク)元大統領は2012年、天皇陛下を指して「日王」と呼び、「日王が韓国に来たければ、独立運動家に謝罪せよ」と発言したこともありました。 朝鮮は自らの王を「陛下」ではなく、「殿下」と呼び、華夷秩序の従属に縛られてきました。 しかし、下関条約後、朝鮮は大韓帝国として独立し、朝鮮王は皇帝となります。 朝鮮は華夷秩序から脱却するという歴史的悲願を達成したのです。 韓国が天皇陛下を「日王」などと呼ぶことは、かつて民衆を苦しめた華夷秩序の考え方に後戻りすることになることともいえます。 呼称に込めれた意味と歴史的背景、ニュースで見聞きした際、ぜひそんなことにも思いを巡らせてみるといいかもしれません。 外部サイト.

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かつらはいつから?若い頃から現在までの髪型の変化 天皇陛下がかつらを着用しているとしたら、一体いつから被っていたのでしょうか? ここでは 若い頃から現在までの髪型の変化を見ていきたいと思います! 学生時代の髪型 1960年に上皇・上皇后のもとに第一子、長男として生まれた天皇陛下。 1歳の頃からすでに現在の面影があります。 髪型はこの頃から七三分けですね。 子供の頃は身体は活発でしたが、あまり器用なタイプではなかったと言われています。 しかし、粘り強く頑張る性格で何事にも辛抱強く取り組んだそうです。 そんな陛下の高校時代は、七三ならぬ九一ヘアでした。 大学時代も七三ヘアです。 整髪料をつけているのか、かなりキッチリ決まっていますね。 毛質はストレートでもう量は多めに見えます。 20代の髪型 続いては20代です。 こちらは23歳の頃にイギリスのオックスフォード大学に留学した時。 もみあげまでフッサフサです。 こちらは28歳の頃、雑誌の表紙として使われた写真です。 こめかみ付近の生え際もしっかり見えますし、地毛でしょう。 20代時点では、かつらは使用していないように見えますね。 30代の髪型 続いては30代です。 33歳に、雅子さまとご成婚した天皇陛下。 こちらの画像はレゴの人形のような被り物感がありますが、パレードということでキッチリ固めてあるのでしょう。 続いて38歳の頃です。 雅子さまと石川県ふれあい昆虫館へ訪れた時に、頭にチョウチョが止まった微笑ましい絵です。 こうしてみると、若い頃に比べて髪のボリュームがかなり減ってきていることが分かります。 分け目の毛量も寂しくなってきていますね。 40代の髪型 続いては40代です。 42歳の頃は、分け目あたりがペッタンコになっています。 整髪料のせいなのかもしれませんが、分け目やトップのボリュームがないですね。 ただ、髪を流しているので横から見るとボリュームがあるように見えます。 続いては47歳、天皇陛下(現在の上皇)74歳の誕生日の時の画像です。 こちらはトップともみあげの部分が段になっていて、ちょっとかつらっぽく見えます。 イメージとしてはこんな感じでしょうか。 白で示した部分が浮いているような感じがします。 段になっている下側の部分は地毛に見えますね。 50代の髪型 続いては50代。 53歳の頃は、かなり怪しさが増しています。 整髪料でキッチリ固めているからなのか、一部かつらをピンで止めているからなのか、風の影響を受けている箇所とそうでない箇所があります。 分け目も直線で、おでこの浮き具合もちょっと不自然ですね。 最後は59歳。 誕生日の前に記者会見をした時の画像です。 やはり全体的に不自然な感じがしますね。 ピッチリと揃いすぎているせいか、地毛っぽく見せません。 もしかしたら、カポッと 被るタイプのかつらなのかもしれません…! 噂は2007年頃から 天皇陛下のかつら疑惑はいつから噂になり始めたのでしょうか? ネットの声を調べてみると、 2007〜2008年頃から疑惑が深まっていました。 髪の毛の段や、ガチガチに固めている様子から 「なんか…かつらっぽい?」と思う方が急増したようです。 若い頃は毛量も多くてフサフサだったのですが、年齢を重ねるうちにガチガチに固めるようになられました。 今のトレンドを考えてもがっちり固めるのは不自然ですし、 かつらがずれないためなのかもしれませんね。 大場隆吉(おおば・たかよし)• 生年月日:1951年? 出身地:神奈川県• 出身校:慶應義塾大学 「ヘアドレッシングOHBA」というサロンを構えている大場隆吉さん。 また、日本でいちはやく 頭皮ケアに注目した専門家の一人で、国内では数少ない スカルプケア専門店を展開しています。 頭皮診断の実績は10万件を超え、多くの講演活動や雑誌・メディア等にも出演されているスゴイお店なんです。 そして「OHBA」は創業1882年、大場隆吉さんで4代目という歴史あるサロン。 また、大場さんは父親の栄一さん、祖父の秀吉さんと親子三代にわたり、 「天皇の理髪師」として天皇陛下の御理髪掛(ごりはつがかり)を担当されてきました。 大場隆吉さん自身は2007年に御理髪掛に任命されました。 天皇陛下のヘアカットの様子とは 天皇陛下のヘアカットは、専属の御理髪掛として大場隆吉が東宮御所へ出向いて行なっています。 陛下の御理髪は月1回、午後8時ごろから約1時間ほどで行われるそうです。 東宮御所内にある 陛下専用の御理髪室には収納式シャンプー台などが設けられており、基本的には陛下と大場さん2人斬りの空間です。 (イメージ図) ヘアカットの間は、部屋の中にはジャズやクラシックなどの音楽が流れ、陛下はご公務や研究のために新聞や資料を静かに読まれているそうです。 2人きりの空間という無防備な状態だからこそ、親子三代続いていて信頼のある理容師さんにお願いしているのでしょうね。 ちなみに、陛下の眉毛については雅子さまがカットされているらしいですよ! 陛下は頭皮が硬い=薄毛になりやすい? 天皇陛下の専用の理容師・大場隆吉さんによると、天皇陛下の髪型はこんな特徴があるそうです。 頭皮は非常に硬い• 髪の毛は柔らかい 前髪を横に流す独特の髪型は、髪の毛が柔らかいことからあのようなスタイルになっているようです。 頭皮については、2012年ころは登頂部の凝りがひどかったそうですが、大場さんがマッサージを続けているうちに段々と凝りがほぐれてきたそうです。 そのおかげか、一時は細くなりかけていた髪がしっかりとするようになり、抜け毛も減ってきたんだとか。 頭皮の状態はストレスや生活習慣でも変化するものです。

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令和の「皇室外交」はトランプ米大統領の来日でスタート 皇室は、最強の外交資産だ。 「私は通常、外国の大使には会わないが日本は例外である。 日本の皇室を尊敬しているからだ」(サウジアラビアの王族)。 *** 本のタイトル(『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』)を見て、よくある日本礼賛本と思われる方もいるかもしれない。 しかし本書は、戦後の日本が国際社会で存在感を高める中で、皇室の国際的活動がいかに大きな貢献をしてきたかを見事にまとめた、他に例を見ない力作である。 皇室を外交資産たらしめているものは何か。 筆者はそれを「長い歴史と伝統の蓄積」と「それに立脚した先の天皇皇后両陛下を中心とした皇族の人間力」としている。 長年、サウジアラビアの駐米大使を務めたバンダル・ビン・スルタン王子は帰国後、国家安全保障会議の事務局長という重職についた。 面会が極めて難しいことで知られたが、当時の中村滋(しげる)駐サウジ大使は2度私邸で会い、イランとの水面下の交渉などの重要情報を得た。 その際、事務局長は「通常、外国の大使には会わないが日本は例外である。 なぜなら日本の皇室を尊敬しているからだ」と述べたという。 皇室は戦後日本の統合の象徴として日本国民から支持を得ていると国際社会でみなされている。 その存在感の大きさは、実際に外交の場にいれば理解できる。 そして、皇室の国際的活動は、個別の外交課題を一つずつ具体的に解決していくものではないが、そのための空気を醸成する役割を果たす。 昨年7月から今年2月までフランスで開かれた日本文化を伝えるイベント「ジャポニスム2018」は、総動員数300万人を超える大成功を収め、アンケートでは96%の人が「日本により親近感を感じるようになった」と答えた。 しかし、両国の交流は、突然深まったわけではない。 大きな契機となったのは、1994年の先の天皇皇后両陛下のフランスご訪問であった。 日本からの初めての国賓だったということもあり、シャンゼリゼ通りには両国の国旗が掲げられ、大ニュースとして新聞、テレビで連日報じられた(海外から見ると日本の国家元首は天皇なので、総理大臣が訪問しても国賓扱いにならず、両国国旗掲揚もない)。 私は当時駐フランス大使として両陛下をお迎えした。 そもそもフランス人は日本の文化、経済を高く評価しているが、この時の歓迎ぶりは、皇室への敬意と高い好感を表したものでもあった。 その後97年には、紀宮さまが国賓並みの待遇で招かれた。 これは3年前の両陛下のご訪問の成功を受けてのもの。 そして、それが「ジャポニスム2018」の成功へとつながっている。 皇室の国際的活動はすぐに結果が出るものではないけれども、国際交流に広く深い影響を及ぼすと考えるべきなのである。 サウジアラビア王子の心遣い 皇室が「なぜ世界で尊敬されるのか」、さらに知るためには実際に本書を読んでもらうしかないが、本書のもう一つの魅力は、皇室の国際的活動に関する知られざるエピソードを、いくつも掘り起こしていることだ。 1953年のエリザベス女王の戴冠式には当時の明仁皇太子が出席した。 第2次大戦終結後まもなくということもあり、日本に向ける英国社会のまなざしは厳しく、式で用意されたのは末席だった。 ところが、それを見かねて最前列の自分の席の近くに呼び寄せたのが、後にサウジの国王となるファイサル王子だった。 その18年後の71年、ファイサル国王は国賓として日本に招かれるが、これは戴冠式での恩義にも関係していると筆者はみる。 1921年に当時皇太子だった昭和天皇が、パリでスペイン国王アルフォンソ13世と昼食会を持っていたという話も初耳だった。 80年に来日したフアン・カルロス1世に、昭和天皇が「私はあなたのおじいさんにごちそうになったことがあります」と囁いた言葉をきっかけに、吉川元偉(もとひで)スペイン大使の執念で、詳細が明らかになる。 これはスペインの公的な対外政策史の中でも引用され、両国関係の緊密化に寄与した。 新天皇についてのエピソードでは、雅子皇后とのご成婚にも尽力した山下和夫東宮侍従長が登場する。 山下氏はモロッコ大使を経験した経歴を生かし、1991年に徳仁皇太子のモロッコ訪問を実現させる。 ご成婚後、最初の外国訪問もアラブ諸国だったが、新天皇とアラブ諸国との縁は、皇太子時代のモロッコ訪問から始まったと言ってもよい。 本書には多くの外交官が登場する。 ほとんど私が存じ上げている人たちだが、深い取材により、外交官が皇室の国際的な活動をしっかりと支えていることが書かれてある。 外務省のOBとしては誇らしい限りだ。 こうした皇室の活動を知ってもらうためにも、一人でも多くの方に本書を読んでもらいたい。 そして、その皇室の活動がどうすれば今後も変わらず続けられるのか、多くの国民に考えてもらう機会になればと思う。

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