内田 樹 ツイッター。 内田樹(@levinassien)

内田樹氏が皮肉「内閣は筋を通し、黒川氏の辞表を受理せず検事総長に据えるべき」/芸能/デイリースポーツ online

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やまもといちろうです。 それなりに本を読むほうで、最近は世界史に改めて手を出してから移動中の読書量がハンパなく増えた割に、日々の生活での実益があんまりなくなってしまいました。 ところで、フランス思想で一定方面に著名な 京都精華大学の客員教授・内田樹せんせが先日上梓された『日本の反知性主義』が、あまりにも酷いという言説がありまして。 まずは山形浩生せんせの書評に、東京大学准教授の池内恵せんせが呼応する形で罵倒芸が繰り広げられており、これはなんだと思うわけです。 池内さんといえば、わが国のアラブ研究家の中でも気鋭の論客の一人であり、先日のISIL(というかイスラム国というか)の問題においても、非常に重要な示唆となる内容を踏まえた知識を披露しておられまして、何冊か本を読む中では信頼できる知識人の一人なのではないかなと思います。 山形さんも在野の中では翻訳からネット論考まで幅広く活躍してこられた一人であり、最近ではピケティ本の翻訳や関連書籍なども担当しておられるという点で、どちらも日本の第一線級の人材です。 かたや、内田樹せんせも国内の論壇方面では様々な分野に言及して多くの日本人に刺激を与えてきた人物の一人で、信奉者も数多く、一定の影響力を持っておられる知識人とされています。 全部ではないけどそれなりに内田せんせの文章を読んできた私としても、好き嫌いはともかく、抑えておくという感じのポジションであることは間違いありません。 以前から、池内さんは内田さんの議論を理路整然と馬鹿にしているので興味を持って見てきたのですが、今回はもっと具体的に、本質的なことが指摘されています。 以前の論考は、思想家内田樹の「思想」は実は思想でもなんでもない思いつきに過ぎず、その話を聞きにいってありがたがって記事に掲載しているメディアも馬鹿なんじゃねという内容だったのが、今回の『日本の反知性主義』ではさらに踏み込んで論難している姿が印象的です。 個人的には、この内田せんせと思想家(レーニン研究)で京都精華大学の白井聡さんの共著である『日本戦後史論』があまりにも微妙だったため、この『日本の反知性主義』は見送っていたんですが、ここまで酷評されているということは何か面白いものがあるに違いないということで、買ってみたんですよ。 根拠に基づいた議論が分かっていない!? 拝読して感じたことは、まあ山形浩生さんが言い尽くしていたので繰り返しここに書くのも気が引けるのですが、私としては内田せんせは「エビデンス・ベースド」、つまりデータなどの根拠に基づいた議論についてはあまりきちん分かっていないんだろうなあというところがすべてだと思います。 簡単に言えば、内田せんせは現代のデータも用いた議論についていけてない。 ある意味で、内田せんせというのは鋭利な知性であり直感で物事を感じ、そこから論じ抜いて人々に新たな思考の地平線を見せる、というのが「芸」であります。 これはこれで、それ一本でやってきたようにも見える内田せんせの凄さであり、伝統芸能なんですけれども、さすがにこのご時勢、リベラルとは何かとか、貧困や高齢化社会という先の見えない問題に取り組むべき時期において、感覚や感情に基づいた捏ね繰り回した論説は、説得力を失ってきていると言うことなんだと思うんですよ。 「反知性主義」という言葉の定義や、すでに空洞化した概念だというレトリックはもちろん考えるにしても、現場で政策を論じたり、具体的な問題について取り組んでいる一線級の人たちにとっては、内田せんせの論ずるような「べき論」「である論」というのはノイズが多すぎて、自分の立場や仕事に置き換えたとき役に立たないか、ピンとこなくなっているのだろうと感じるわけです。 大上段に言うならば、池内せんせがFACEBOOKに文字通り書かれていたような「なんでまともに議論もできない『大学教授』が量産されたかというと」というパラグラフがすべてを表しているように、内田樹的なるものはおおよそ日本社会が右肩上がりで、豊かで問題を時間が解決してくれた時代の産物であることが良く理解できます。 内田樹的なるものが無用かどうかは見る者読む者が判断すればよいとしても、少なくとも社会時評やその底流にある思想を解き明かそうというところです。 一定層にはジャストフィットも…… しかしながら、内田せんせが著書で「数学における『予想』の存在が示すのは、平たくいえば、人間には『まだわからないはずのことが先駆的にわかる』能力が備わっているということである」と記したとき、読者は「ああ、この内田さんという人は数学がまったく分からないのに数学を論じるタイプの馬鹿なんだな」と思ってしまうだろうということです。 上記の池内せんせの内田樹批判も、おおよそ「知らない分野を分かったフリして論ずるな内田」成分と「論じることもまともにできない内田を崇め奉る大学もメディアも読者もいい加減にしろ」成分とが混ざっているように思うわけです。 おそらくは、その根底には内田せんせにおいては拭い去れない時代感(たいした研究者でなくとも大学が新設されポストが増えていったのでそれらしい肩書きをもらえていた右肩上がりの時代)から、いまの日本人や日本社会が抱え背負う苦労を見下した論難の仕方が、一定のマゾい読者や反権力的思考の持ち主にはジャストフィットして産業として成り立っている、ということなんじゃないかと。 内田せんせから学ぶべきことは、間違いなく「ああ、あれだけ俊英な視点を持っていた人でも、時代に取り残されるとこんな感じになっちゃうんだな。 私もそうならないようにまじめに日々勉強しよう」ということなんじゃないかと思いました。

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内田樹の思想

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内田樹(うちだたつる)って知ってる?ひょっとしたら、今最も「影響力」のある思想家かもしれない。 神戸女学院大学の教授をしてて、現在は退職して「凱風館」という道場をかまえている。 思想家であり、合気道を修める武道家でもある。 合気道を習えるみたい。 内田樹の思想は好き嫌いが別れると思う。 というより、受けつける人は受けつけるし、受けつけない人はまったく受けつけない種類のものだ。 内田樹は25歳のときからずっと合気道に打ち込んでいて、身体感覚に根ざした発想で話を展開する。 切り口や扱うトピックを変えながら、身体に染み込ませるように同じことを繰り返し言う。 彼の本は、まるで道場に通って武道の練習をしているかのような読み心地なのだ。 内田樹を批判する人も多いが、そういう人の気持ちはわかる。 内田樹は「科学的」とされる論の進め方をしていない。 科学にとって大事なのは「反証可能性」で、理系だったら同じ実験をして同じ結果がでるか、再現性を確認できるかが何より大事だし、文系だったら引用されてる文献やデータにあたって反論したり違う解釈をすることが可能だということが重要になる。 でも内田樹の思想は、そういった「科学的」な手法で捉えにくい部分、身体性とか感覚とか常識を扱っている。 誰でもアクセスできるデータではなく、自身の経験と身体性を担保にして語るやり方だから、まあ宗教に近いと言えばそうなのかもしれない。 論に破綻や隙があるという以前に、真っ当に批判が成り立つ手順を書く側が踏んでいない。 でも、学会に提出するわけでもないし、何かを主張するときに必ずしも「科学的」な手順に従わなければならないという決まりはない。 レギュレーションを求めすぎると何も言えなくなったりするし、ただ自分の経験から思うことを言って、あとは受け手に任せるというやり方だってありだ。 ただ、内田樹が批判を浴びるのは、彼の思想が扱っている射程があまりにも広いからだろう。 経験や身体性の延長で、教育や政治や国際関係まで、かなり踏み込んで説得力のある形で(少なくとも、多くの賛同者を集めるほどには)上手く語れてしまうのだ。 特定の人からすれば我慢ならないと思うし、内田樹だって場合によっては的外れなことを言ってしまうこともあると思う。 (「時には間違ったことを言ってしまう」こと自体も、内田樹自身の思想の射程におさまってしまったりするのだが) 別に、僕も政治的な部分では必ずしも内田樹の意見に賛同しない。 ただ、内田樹の思想は、彼に影響を受けた人や影響を受けて行動する人が多くいるという意味で非常にパフォーマンスが高い。 「それは学問的じゃない!」と叫んだり、揚げ足取りに躍起になったりする人は多いが、そういうことしてもあまり生産的ではない。 内田樹がこれほどまでの人気を集める理由はわかるような気がする。 彼の考え方は現代に疲れた僕たちの琴線に心地よく触れるのだ。 「あまり無視しないようにしよう」とか「我慢するのは身体に悪い」とか「人には礼儀正しく」みたいな「当たり前」のことを言ってるだけなんだけど、そこがすごいところで、あらゆる話題を扱いながら、内田樹の語り口調で内田樹の解答を導き出している。 常識的で「当たり前」のことを言っているのに、アクロバティックで切れ味がある。 内田樹らしい文章を以下に引用する。 内田百閒先生に教えて頂いたことですが、同じものを食べ続けていると「味が決まる」ということがあります。 百閒先生は、ある時期、昼食にそばを食されることを習慣とされていた。 同じ蕎麦屋から毎日同じもり蕎麦を取る。 別にうまい品ではない。 でも、毎日食べていると「味が決まってくる」。 食物を待望する胃袋と嚥下される食物の質量が過不足なくジャストフィットすると、たかがもり蕎麦がいかなる天下の珍味も及ばぬ、極上の滋味と感じられる。 たまたま出先で自分ときを迎えたりすると、もういつもの蕎麦が食べたくて我慢できない。 先方が気を利かしたつもりで「鰻丼」など取ると、百閒先生はこれを固辞されたそうです。 快楽はある種の反復性のうちに存ずる。 これを洞見と言わずして、何と言いましょう。 「同じものばかり求めるファンは怠慢だ」という人がいますけど、それは筋違いですよ。 ファンほど快楽の追求に貪欲な存在はありませんから。 それこそが「正しいファン」のあり方なんです。 …やはり「だいたい同じで、ちょっとだけ違う」ということだと思います。 トピックは違っても、切り口はいつもと同じ、というものを読者は求めていると思います。 少なくとも、ぼくが本を読むときはそうですね。 ぼくは村上春樹と橋本治と矢作俊彦と村上龍と高橋源一郎のものは新刊が出ると本屋に走って行って買いますけど、みんなほんとうに律儀に「いつもと同じ」ことを書いているんですよね。 だから大好きです。 (疲れすぎて眠れぬ夜のために) これは内田樹が誰かのファンになるということについて語った文章だが、当の内田樹自身が最もここで書いたようなファンの受け手になっていると思う。 彼の思想は毎日同じものを食べるような思想なのだ。 読んでいると、「ああ内田樹だなあ」と感じる。 説明するのは難しいので、一度彼の書いたものを読んでみればいいと思う。 ()ブログに書いたものを再編集して書籍をつくることが多く、主要な論は大方ウェブでも見られると思う。 1999年からやってる超古参のブロガーなんだよね。 尊敬します。 僕は内田樹の本を単著として出版されたものなら9割方読んでるが、彼のファンが多いという事実は、喜ぶべきことだと思ってる。 それだけ「気分の良い人」が多いということでもある。 考えは今の時流にマッチしているし、重要な示唆を多く与えてくれる。 ただ、それでも何か「違う」と感じる部分もなくはない。 内田樹的な考え方が重要だと感じながらも、それと僕が感じているリアリティとが相容れない部分もあって、その二つが退っ引きならなくぶつかったとき、「内田樹の思想」はどれだけ使い出があるのか、というのは結構面白い問題だと思う。 僕は90年代生まれだけど、内田樹の考え方のすべてが若い人のリアリティに即しているとは思えない。 もちろん、いくら女子大で教鞭をとってたって、もう60過ぎなんだから当たり前だ。 だから、わりと若い人の視点から、内田樹のパフォーマンスを点検して、その限界と使いやすい部分を示すという試みは、ひょっとしたら生産的なものになり得るかもしれない。 内田樹の語り口はあまりにも明解なんだけど、あえて内田樹の「解説書」を作ってみるとか面白いかもね。 そうだな。 タイトルは「 もしブラック企業の幹部社員が内田樹の『こんな日本でよかったね』を読んだら」みたいな感じでどうでしょうか。

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「内田樹」のYahoo!検索(リアルタイム)

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安倍首相が国会で民主党政権の時代を「悪夢」と評したことについて批判を受けた。 それについて「私には言論の自由がある」という反論をした。 どうもこの人は(この人に限らず)「言論の自由」という概念を勘違いして使用している人が多いように思われる。 「言論の自由」について私の原則的な立場はいまから10年以上前に書いた以下の文章に尽くされている。 2008年6月に書いたもので、若干「それ何の話?」というような昔のことにも言及しているけれど、その辺はスルーして欲しい。 言論の自由についての私見 9年前にインターネットにホームページというものを開設したときに、一つ自分にルールを課した。 それは必ず固有名で発信し、自分の発言については責任を引き受けるということである。 実利的な理由もあった。 私も学者である以上、万が一他の誰もまだ述べていないようなオリジナルな学術的知見を発見する可能性は絶無ではない。 その場合、当該学術情報についてのプライオリティは私に属する。 むろん、文学研究のような浮世離れした世界では、そのようなプライオリティが現実的な利益(特許権とか)をもたらすことはほとんどない。 しかし、「このアイディアを最初に思いついた人」として人に知られるのは(そのアイディアの被引用回数が増えると)なかなか愉快なことである。 だから、何かアイディアを思いついたら「固有名のタグ」をつけておくことにしたのである(書き留めておかないと翌日には忘れてしまい、自分の論文にさえ使うことができないというより実利的な理由もあったが)。 紙媒体に寄稿したテクストも、ブログのテクストも、だから私の場合、原則は同じである。 「自分の書いたことについては、その責任を引き受ける」、「自分が書いたことがもたらす利得については、それを占有するにやぶさかではない」。 わかりやすい理屈だと思う。 ところが、この「わかりやすい話」がインターネット上ではなぜか通用しない。 現在ネット上で発言している人の大部分は匿名の書き手だからである。 率直に申し上げて、私は彼らが匿名を貫く理由がうまく理解できないのである。 どうして、自分の書いたものに責任を取ろうとしないのか?どうして、自分の書いたことがもたらす利得を確保しようとしないのか? この二つの問いのうちでは、第二の問いの方が答えやすそうだから、こちらから先に手を付けよう。 どうして、自分の書いたことがもたらす利得を確保しようとしないのか? 理由はわりと簡単である。 それは書かれたテクストが書き手に利得をもたらす可能性がきわめて低いからである。 ノーベル賞級の科学的発見をした人がインターネットに匿名で自分の仮説を公開するということは考えにくい(今のところ一人もいない)。 知的所有権のもたらす利益が大きいであることが予測される場合、人はふつう匿名を選択しない。 だから、匿名者が知的所有権(いやな言葉だが)を主張しないのは、合理的に推論すれば、自分が発信しているメッセージが知的に無価値であるということを彼ら自身が知っているからである。 「これを書いたのは誰だろう?ぜひ、この人の書き物を本にしたい」とか「この人のアイディアでビジネスを始めたい」とか「この人にしかるべきポストをオッファーしたい」ということがありうると思っていれば、誰でも自分が何者であるかを明らかにする。 それをしないのは、自分の書き物には学術的先見性であれ芸術的独創性であれ、知的価値のあるものは含まれていないという評価を本人自身が下しているからである。 にもかかわらず毎日数百万、数千万の人々が匿名での発信を続けている。 だとすると、「知的に無価値なこと」を書くことによっても、やはり彼らは何らかの「利得」を手に入れていると考えなければならない。 人は何の利益もないことをこれほど懸命にはやらない。 この場合に彼らが得ている「利得」はさしあたり「知的所有権」とか「知的価値」というような言葉で実定的に計量できるものではない。 では、彼らは何を手に入れているのだろう。 おそらく、彼らは「他者の逸失利得」を自分の「売り上げ」に計上しているのである。 そう考えてはじめてネット上の匿名の発言の相当数が「批判する言葉」であることの説明がつく。 彼らの目から見て「不当な利益を占有している」と思われる他者が、その社会的地位や威信やポピュラリティを失うことを「自己利益の達成」とみなす奇習を身体化してなければ、こういうことは起こらない。 自分自身には直接的利益をもたらさないけれど、他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶという言論のありようを言う適切な日本語がある。 「呪い」というのがそれである。 匿名の発言の多くが「呪い」の語を発しているということが知れると、「なぜ彼らは自分の書いたものの責任を取ろうとしないのか?」という問いにも自動的に答えが出る。 それは発した言葉が発信者に戻ってくると、それは発信者自身をしばしば致命的に傷つけ、損なうからである。 「呪いを発信する人」として知られることは、現代のような近代社会においても、その人の社会的信用を損ない、友人や家族からの信頼を傷つけるに十分である(言葉遣いが激しい場合には刑法上の罪に問われることもある)。 だから、mixiのように、発信者が誰であるかを(小さな内輪の集団内では)特定可能である場合には、公共的には匿名性が担保されていても、「呪い」の言葉はほとんど見ることができない。 呪いの発信者として名が知られるということは、現代社会においても致命的だということを彼らは知っているのである。 呪いの言葉は触れるすべてのものを侵す。 だから、発信者は自分が吐き出した「毒液」から身を避けなければならない。 匿名は毒から身をかわすための「シールド」である。 彼らは単に刑法上の罪を問われることを恐れてそうしているだけではない、自分がそのように危険な言葉の発信者であるという事実を自分自身に対してさえ隠蔽したいのである。 しかし、匿名での罵倒中傷によって人を傷つけ、それによって他者がこうむる社会的な損失や心理的な傷をおのれの「得点」にカウントするというこの「呪い」の習慣は、今の私たちの社会では「言論の自由」の名において擁護されている。 私は「呪いの言葉」も「言論の自由」という大義において擁護されるべきかどうかという原理的な問題について考えてみたいと思う。 議論の第一の前提は私たちの社会は言論の自由が抑圧されている社会ではないということである。 むろん、「日本には言論の自由が存在しない」と主張する人もいる。 ある高名な社会学者が最近そう書いていた。 けれども現にこの人に潤沢に提供されている発言機会を勘定に入れると、その主張に同意することは私にはできない。 少なくとも私の場合に限って言えば、これまで言論の自由を具体的に侵された経験を持たない。 さまざまな機会に、私は政治家や官僚や財界人や知識人を批判してきた。 学生の頃などは、さらに勢いに乗って、革命による現政権の転覆の喫緊であることなどを書いたけれど、そのときも誰からも「そのようなことは書くな」という圧力を受けたことがない。 私が操觚の人となったのちでも、「そのようなことを書いてもらっては困る」ということを言ってきたのは新聞社二社だけである。 これらの新聞社はつね日頃から「言論の自由」をたいへん声高に主張しているところであった。 彼らもまたさきの知識人と同じく「日本には言論の自由が存在しない」と信じており、「言論の自由が存在しない」という原事実をその寄稿者にまず経験させるべきだと考えたのかも知れない。 冗談で言っているのではない。 「言論の自由は存在しない」ということを平然と言える人間は、まさにその自らの発言に呪縛されるからである。 その自己呪縛のメカニズムについては、またのちに論じる。 もう一度繰り返すが、私たちの社会は言論の自由が抑圧されている社会ではない。 そうではなくて、「言論の自由」という概念が誤解されている社会なのだと私は思っている。 私たちは「言論の自由」という概念をどう誤解しているのか。 それを解明するために、まず言論の自由についての予備的な確認から始めよう。 私の立てる第一命題は次のようなものである。 あらゆる言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り口にされる権利がある。 これが「言論の自由」の根本原理と私の信じるものである。 およそ人間の脳裏に生じたすべての言葉は、それが人間の脳裏に生じたという一事を以て、何らかの人間的真理を表示している。 そして、どのようなものであれ(それが人間の底知れぬ邪悪さや愚かさについての真理であっても)、人間にかかわる真理は沈黙に勝る。 私はそう信じている。 「言論の自由」にかかわるすべての推論はここから出発する。 そんなことわかりきったことじゃないかと言う人がいるだろう。 そうだろうか。 それほどわかりきったことだろうか。 私はそうでもないと思う。 具体的な例を取り上げてみよう。 少し前にヨーロッパに歴史修正主義という思潮が登場した。 その中の一人にフランスの歴史学者ロベール・フォーリソンという人がいて、ナチスのユダヤ人強制収容所にはガス室はなかった、ユダヤ人たちは伝染病で死んだという説をなしたことがあった(この説を真に受けた日本人が『マルコポーロ』という雑誌にそのことを書いて、イスラエル大使館とユダヤ人人権団体の抗議で雑誌そのものが廃刊になったことがあったことをご記憶の方もいるだろう)。 当然のようにヨーロッパのメディアはこの説に烈しい攻撃を加えた。 このときアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは、「言論の自由」を擁護する立場から、人は誰であれ言いたいことを言う権利があり、とりわけ、その意見が人々の神経を逆なでするようなものの場合は、一層擁護されねばならないと書いた。 「議論の余地なく自明のことは、表現の自由の擁護は自分が賛同する意見にのみ限定されるべきではなく、すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解においてこそ、もっとも力強く擁護されるべきであるということである。 XII チョムスキー自身はフォーリソンの説にはまったく同意できないと書いている。 説くところには同意できないけれど、私は自分が同意できない科学的理説を公開する権利を擁護したい。 チョムスキーはそう述べた。 美しい言葉だ。 けれども、私はこのチョムスキーの擁護論に軽々には同意することができない。 それはフォーリソンが誰に向かって、何を成し遂げようとしてその言葉を語っているのかということをチョムスキーが問わなかったからである。 ことの真偽はともあれ、それによって傷つく人がどれほどいようと、汚される価値がどれほどあろうと、誰にでも言いたいことを言う権利はあるという言葉に私は同意しない。 私たちは無人の荒野で、空に向かって語っているわけではないからだ。 すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。 私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。 だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされまい。 発語は本質的に懇請である。 私はそう思っている。 聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない。 そして、もし、その言葉がチョムスキーの言うように「すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解」であるならば、それだけ一層、それを提示するときに、受信者に対する敬意がなくてはすまされないと私は思う。 言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。 というのは、 受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。 メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出されるとき、「その正否真偽を審問する場」の威信を認めなければならない。 そこで真として受け容れられることを望み、そこで偽として退けられることを望まない、という基本的な構えを放棄するようなメッセージは「言論の自由」の請求権を放棄しているのと同じことである。 「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う。 この世界に私の意見に同意する人間が一人もいなくても、私はそれによって少しも傷つかない。 私の語ることの真理性は、それに同意する人間が一人もいなくても、少しも揺るがない」という人間には「言論の自由」を請求する権利がない。 私はそう考える。 「私は誰の承認も得なくても、つねに正しい」と言う人が「言論の自由」を求めるのは、「すべての貨幣は幻想であり、無価値である」と主張する人間が、その主張を記した自著の印税を求めるのと同じく背理的である。 というのは、「言論の自由」とはまさに「他者に承認される機会を求めること」に他ならないからである。 「言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名する人間だけに請求権がある。 自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間には「言論の自由」を請求する権利がない。 なぜなら、彼の言葉は他者たちの場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。 もし、言論の正否真偽を審問する場の成立に先立って、すでに真理である言葉が存在しうるなら、「自由な言論の場」に存在理由はない。 言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。 発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論のゆきかう場」そのものであるという同意のことである。 言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信用供与抜きに「言論の自由」はありえない。 むろん、つねに正しく言論の価値を査定する「場」が存在するというのは、ある種の「空語」である。 自由な言論の場では、すべての真なる命題は必ず顕彰され、すべての偽なる命題は必ず退けられると信じるほど私は楽観的な人間ではない。 しかし、現実的に楽観的でありえないということと、原理的に楽観的であらねばならないというのは次元の違う話である。 私は「言論の自由が確保されていれば、言論の価値が正しく査定される可能性はそうでない場合よりはるかに高い」ということを信じる。 そして、この信念はそのような「場」に対する敬意として表現されるほかない。 私が言葉を差し出す相手がいる。 それが誰であるか私は知らない。 どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど情緒的に成熟しているのか、私は知らない。 けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。 その原理は言語や親族や貨幣のような制度が起動する場合と変わらない。 まず他者への贈与があり、それから、運動が始まる。 「場の審判力」への無償の信認からしか言論の自由な往還は始まらない。 もし、言論が自由に行き交うこの場の「価値判定力」を信じなかったら、私たちは何を信じればよいのか。 「場の審判力」を信じられない人間は、「私の言うことは正しい」ということを前件にして言葉を語り出すことしかできない。 「お前たちが私の言うことを否定しようと、反対しようと、それによって私の言うことの真理性は少しも揺るがない」と言わなければならない。 しかし、もしそうだとしたら、彼には「自由な言論が行き交う場」に言葉を差し出さなければならないいかなる必然性があるのだろうか。 せいぜい、洗脳、宣伝、教化のために功利的に利用することしかできまい。 むろん、その場合には、彼の言葉に対するすべての疑問や異議申し立ては「真理」の名において退けられる。 だが、そのような言論のありようを「言論の自由」のみごとな実現であると思う人間は一人もいない。 言論の自由とは、まさにその「場の審判力」に対する信認のことだからである。 言論において私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。 私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。 そのような「場」はレディメイドのものとして、制度的にごろりとそこにある、というものではない。 それは私たちが身銭を切って、額に汗して、創り出さなければならないものである。 だからこそ、「日本には言論の自由がない」と書いた社会学者の言葉に私はつよい違和感を覚えたのである。 「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の正否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な「誓い」の言葉を通じてしか実現しない。 そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、そのような場を「存在させるか、させないか」という遂行的なレベルに出来するのである。 「場への信認」は私が今現に言葉を差し出している当の相手の知性と倫理性に対する敬意を通じて、今この場で構築される他ないのである。 「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではない。 そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発する当のその瞬間に私たちが「身銭を切って」成就しつつあるものなのである。 むろん、私の差し出したメッセージが「偽」の判定を受けて退けられる可能性はつねにある。 だから、私は私の主張が相当数の人にとって「耐え難いもの」であると思われる場合には(例えば私が今主張していることは「理解し難い」ことの一つである)、できる限り論理的に、情理を尽くして、理解を得られるように言葉を選ぶことにしている。 正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。 なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着しない)。 正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。 誤解されないように急いで付け加えるが、この付託は現に他者たちが過たず真偽正否の判定を下すという事実に基礎づけられているのではない。 そうではなくて、この付託によって、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができるという事実に基礎づけられているのである。 信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。 そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency 礼儀正しさ)と呼んでいるのである。 それは「呪い」の対極にあるところのものである。 私たちは今のところ言論の自由をゆたかに享受している。 けれども、この事態を「言論の自由など存在しないと言い放つ自由」や「呪いの言葉を吐く自由」に矮小化する人々が「言論の自由」の基盤を休みなく掘り崩してるということについては十分に警戒的でなければならないと私は思っている。 (2019-02-14 09:03)•

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