令 和 天皇 誕生 日 祝日。 令和の天皇誕生日は2月23日に。2019年は天皇誕生日なし。12月23日は平成の日として今後祝日化されるか?!

今年の天皇誕生日はいつ?歴代天皇の誕生日は祝日になるの?|@DIME アットダイム

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の主要祭儀一覧 ・ 祭() 例祭(先帝以前三代の例祭) (天長節祭) 春季・春季 ・ 例祭(先后の例祭) ・ 例祭(先帝以前三代の例祭) 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 御神楽 例祭(先帝以前三代の例祭) 節折・大祓 : :第2 : : :日 : : : : :第3月曜日 : :第3月曜日 :日 :第2月曜日 : : その他 - - 天皇誕生日は、制定の(祝日法、23年法律第178号)第2条によれば、「天皇の誕生日を祝う。 」ことを趣旨としている。 天皇誕生日は、慣例により日本の(ナショナル・デー)とされる。 昭和23年()までは、 天長節(てんちょうせつ)と呼ばれていた(の誕生日が、祝日法施行が7月20日であるため)。 天皇誕生日の日付は、昭和63年()までは昭和天皇(第124代天皇)の誕生日である「4月29日」、元年()から平成30年()までは(第125代天皇、)の誕生日であるであった。 天皇誕生日に際しては以下の行事を行う。 の住居である内のでは、祝賀の儀、宴会の儀、茶会の儀、が行われる。 を始め、各地のでは天長祭が行なわれる。 では、基地・一般港湾等に停泊しているにおいてが行われる。 外国駐在の日本等のではとしてレセプションが行われる(当日ではない)。 一方で、 皇后誕生日(こうごうたんじょうび)は (ちきゅうせつ)と呼ばれるが(後述、天長地久から対比となっている)、前から国民の祝日にはなっていない。 他の国家における誕生日と同様、在位中の天皇の誕生日に合わせて移動する(国家では初代ないしの誕生日だけが祝日指定になっている事が多い)。 歴史 [ ] 古代・中世 [ ] 天長節の名は古く、は皇帝の誕生日を天長節と祝った事に由来する。 中国暦17年(元年、)に「千秋節」と改められたが、19年後の7年(元年、)に「天長節」と改められた。 「天長」はの「天長地久」より採られている。 日本では時代の6年()()に天長節の儀が執り行なわれ、臣下は天皇の好物のを献上して宴を賜った。 十月十三日是朕生日毎至此辰威慶兼集宜令諸寺僧尼毎年是日転経行道海内諸国竝宜断屠内外百官賜酺宴一日仍名此日為天長節庶使廻斯功徳虔奉先慈以此慶情普被天下 と勅が下された)、と宝亀10年()の記録にも見られるなどは既に執り行なわれており、の記録として『』に記述がある。 近代・現代 [ ] 元年()に太政官布告で「九月二十二日ハ聖上ノ御誕辰相当ニ付毎年此辰ヲ以テ群臣ニ酺宴ヲ賜ヒ天長節御執行相成天下ノ刑戮被差停候偏ニ衆庶ト御慶福ヲ共ニ被遊候思召ニ候間於庶民モ一同嘉節ヲ奉祝候様被仰出候事」と布達され、()に天長節を国家の祝日として祝した。 明治2年()は各国公使をへ呼び寄せて酒饌を賜い、明治3年()は諸官員、非職員、などが拝賀し、は禁中で、以下は各官省で酺宴(ほえん)を賜い、諸軍艦でが撃たれた。 天長節の儀礼が整ったのは明治5年()で、同年の天長節の勅語で 茲ニ朕カ誕辰ニ方リ群臣ヲ会同シ酺宴ヲ張リ舞楽ヲ奏セシム汝群臣朕カ偕ニ楽シムノ意ヲ体シ其ノ能ク歓ヲ尽セヨ と宣した。 ついで奏任官以上の総代としてが、華族総代として従一位がそれぞれ奉答した。 明治6年()の採用後はへ変更し、の太政官布告で国家の祝日と規定された。 後年、即位した天皇の誕生日にあわせて 天長節(てんちょうせつ)が定められた。 23年()までは、、など太政官布告や勅令で具体的な日付が規定された。 戦前は(現在の、)・(現在の、)・(現在の、)ともにの一つとして、盛大に奉祝された。 に崩御・践祚となった明治45年・元年()は、11月3日(明治天皇誕生日)に予定していた天長節を(大正天皇誕生日)へ変更する、新たな休日法(休日ニ関スル件)の施行がになり、天長節のない年となった。 大正天皇の誕生日は盛暑期で各種式典の斎行が困難であることから、翌年以降は2か月後の を天長節祝日として本来の誕生日を避けた。 休日としても大正2年()に休日ニ関スル件が改正され、天長節祝日が制定された。 8月31日は行事を催さないが休日であり、天皇誕生日による休日が年2回となった。 後の昭和23年(1948年)は祝日法が制定され、昭和24年()以降は 天皇誕生日(てんのうたんじょうび)として国民の祝日と定められて現在に至る。 祝日法制定に先立って行われた「希望する祝日」の政府のは、「新年の元日」に次いで「天皇陛下のお生まれになった日」が第2位であった。 ・に及びの規定により、退位してとなった明仁からへが行われた平成31年 ・元年()は、今上天皇誕生日 - 譲位日 - 上皇誕生日の時系列になるため、1912年以来2回目、現行の祝日法では初めての天皇誕生日のない年となった。 (令和2年)、徳仁の即位後初の天皇誕生日の皇居での一般参賀は、の影響により、中止された。 近代・現代史上での歴代天皇の天長節・天皇誕生日 [ ] 歴代天皇の天長節・天皇誕生日 時期 在位天皇 誕生日 法定の祝日 根拠法 4年() - 6年() () 旧暦9月22日(天長節) 明治6年太政官布告第258号による改正前の明治元年布告第679号 明治6年(1873年) - 11月3日(天長節) 明治6年太政官布告第258号 明治6年(1873年)10月14日 - 明治45年() (大正元年勅令第19号)による廃止前の明治6年第344号 明治45年(1912年)7月30日 - 元年(1912年) 大正元年(1912年)9月4日 - 大正2年() 8月31日(天長節) 大正元年勅令第十九号中改正ノ件(大正2年勅令第259号)による改正前の(大正元年勅令第19号) 大正2年(1913年)7月16日 - 大正15年() 8月31日(天長節) (天長節祝日) 大正元年勅令第十九号休日ニ関スル件改正ノ件(昭和2年勅令第25号)による全部改正前の休日ニ関スル件(大正元年勅令第19号) 大正15年(1926年)12月25日 - 2年() 昭和2年(1927年)3月4日 - 昭和23年() 4月29日(天長節) (昭和23年法律第178号)附則第2項による廃止前の休日ニ関スル件(昭和2年勅令第25号) 昭和23年(1948年)7月20日 - 昭和64年() 4月29日(天皇誕生日) 国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成元年法律第5号)による改正前の国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号) 昭和64年(1989年)1月7日 - 元年(1989年) 平成元年(1989年)2月17日 - 平成31年(2019年) 12月23日(天皇誕生日) 附則第10条(平成29年法律第63号)による改正前の国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号) 元年(2019年) - 2月23日(天皇誕生日) 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号) 天皇誕生日(天長節)による休日は、昭和23年(1948年)7月19日以前は、などのやで、昭和23年(1948年)7月20日以降はで日が規定される。 天皇誕生日はで自動的に移動・変更されず、法を改正して新たに天皇誕生日を規定する法令が施行される必要がある。 平成31年/令和元年(2019年)のように新帝誕生日(2月23日) - 譲位日(4月30日・5月1日) - 先帝誕生日(12月23日)の時系列になる場合は、必然的に天皇誕生日による休日がない年となり、他にも、明治45年/大正元年(1912年)のように先帝崩御日(7月30日) - 新帝誕生日(8月31日) - 新法施行(9月4日) - 先帝誕生日(11月3日)の時系列になる場合でも、天皇誕生日による休日がない年となる。 一世一元の制制定以降の4代天皇の崩御または退位後の誕生日の扱い [ ] 休日ニ関スル件、国民の祝日に関する法律ともに天皇の誕生日は先帝(譲位)・新帝に伴い移動する。 休日ニ関スル件は天長節に代わり先帝崩御日がとなっていた。 国民の祝日に関する法律は原則として先帝誕生日は休日にならず、先帝祭に相当する休日も設けていない。 明治時代以降、先帝誕生日が休日になった事例が2回ある。 明治天皇の誕生日:11月3日 明治天皇の誕生日は崩御後に平日とされたが、崩御から15年後の2年()にとして休日とされた。 休日ニ関スル件時代に、国民のへのを受けて設けられた唯一の休日である。 以前は、下で旧陸海軍の大元帥とされた天皇によるが行われ、第一階ないし第三階第二十七の者ならびに勲一等および、、ならびに大日本帝国駐剳各国、らが宮中に召されてでが催され、天皇が親臨してを賜り、、大使、公使の首席が奉答の辞を述べて聖寿の無疆を祝した。 は明治節に関係なく、大日本帝国憲法の改正手続を経て昭和21年()11月3日にが公布されて、国民の祝日「 」となった。 当時の首相は憲法制定を、当初は公布で()施行としたが、間に合わずに(明治節)公布で施行とし、意図的にそれまでのに日程を合わせた。 大正天皇の誕生日:8月31日 大正天皇の誕生日である と、その 誕生日(天長節)が盛暑期であることを理由とした10月31日の天長節祝日は、(昭和2年)以後に明治天皇や昭和天皇のように再び休日とされなかった。 大正期限定の天長節祝日は、のちの休日増加の端緒となり、昭和期は明治節を制定して休日減少を回避した。 昭和天皇の誕生日:4月29日 昭和天皇の誕生日であるは、元年()の崩御直後に改正で「 」として国民の祝日とされた。 平成19年()からは「 」と名称が変更され、現在に至る。 なお、同時に「みどりの日」はに変更された。 上皇明仁の誕生日:12月23日 平成時代(1989年1月8日 - 2019年4月30日)において祝日であった第125代天皇明仁の誕生日たるは、 退位後の元年()より祝日ではなくなった。 これは 上皇明仁の誕生日を祝日にすることが、当代の天皇徳仁との間で「二重権威」を生じさせるとの懸念を払拭するため、の附則で定められたものである。 歌 [ ] ウィキソースに の原文があります。 「天長節」(作詞 、作曲 ):26年()「祝日大祭日唱歌」として制定された。 脚注 [ ] [].

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2月23日が天皇誕生日になるのはいつから?12月23日は祝日でなくなる?

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束帯を着用した皇太子徳仁親王(当時)、1990年(2年)11月12日の父上皇のにて (昭和35年)16時15分 、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女・3人の子女の内、第1子)として、の・にて誕生する。 同日は(令和2年)以降、となる。 は「 浩宮」 ひろのみや 、は「 徳仁」 なるひと と、命名された。 誕生時から即位までの身位を付した呼称は、「 浩宮徳仁」(ひろのみや なるひと しんのう)、敬称は「 殿下」(でんか)。 1989年(64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父であるの崩御により、父の皇太子明仁親王(当時)の(第125代天皇即位)に伴い(第1位であるたる第1皇男子、)となり、1991年(平成3年)にはが執り行われた。 皇太子となって以降、即位までは、の用いる正式表記では、「皇太子」および敬称を冠し「 皇太子徳仁」(こうたいしなるひとしんのうでんか)、含む政府機関では単に「 皇太子殿下」(こうたいしでんか)の呼称が用いられた。 天皇即位以前(皇孫~皇太子時代)、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで22回、自身は皇太子として海外訪問の期間または病気療養の期間、父帝から委任を受けを務めた。 2016年(平成28年)1月28日には、時代の国事行為臨時代行として初のに対するを行った。 2019年(平成31年)4月30日午後12時の父親である第125代天皇の退位 に伴い、元年(2019年)午前0時 に、となった父帝・明仁より、およびに基づき、第126代天皇に即位する ()。 皇室男子として珍しく、(主に交通史、流通史)を専門とする。 また演奏、、を趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している。 来歴 [ ] 母: 皇孫時代 [ ] 1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、の・にて誕生する。 身長47センチメートル、体重2540グラム。 旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、に際してはが発行され、皇居内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、それまでの皇室の慣例によらない、初のの親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。 同年2月29日ににおいて祖父帝のが「 浩宮 徳仁(ひろのみや なるひと)」と命名した。 「浩宮」の称号はのうちの『』第32章にある「 浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天 徳に達する者」を典拠とする。 「 肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、 浩浩たる其の天。 苟くも固に聡明聖知にして天 徳に達する者ならざれば、其れ孰か能くこれを知らん。 」 —『中庸』第32章 それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親である皇太子同妃による育児・子育ても、国民の関心の的となった。 中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて皇太子同妃が14日間の公務訪米の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。 1964年(昭和39年)4月13日、に入園する。 同年11月1日には着袴の儀を行う。 両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。 ただし、のが、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。 徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた。 両親の下で、弟・、妹・とともに育つ徳仁親王の様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。 1966年(昭和41年)4月8日、に入学する。 この頃から参与の指導でを始める(大学生の時にに転向)。 時代は、正規の授業のほか、「『 将来の天皇』としての素養を身につけさせる」という目的の下で、東宮御所におけるご進講の形で「歴代天皇の」や、といった皇室史に関わる、、など日本の古典文学から、、、などを幅広く学習した。 「」の一環と考えられる。 では音楽部に所属しを担当した。 在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。 1982年(昭和57年)3月に学習院大学を卒業した()。 その後、同大学人文科学研究科博士前期課程に進学。 それまでの多くの皇族が、を中心としたを専攻したのに対して、徳仁親王は、の交通史・流通史という・に近い分野を専攻した。 1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、 ()に留学して、の水運史について研究。 1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科のをした(人文科学修士)。 この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めてに就いた。 皇太子時代 [ ] 1989年(昭和64年)1月7日、祖父のを受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇にした。 また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。 のなどを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日にが執り行われた。 また同日、皇太子の印とされる「」を父帝から親授された。 1993年(平成5年)1月19日、においての相手に(当時:北米局北米二課職員)を内定。 同年6月9日にが執り行われた。 小和田雅子との成婚までの経緯 [ ] 詳細は「」を参照 1986年(昭和61年)10月18日、で催されたの娘王女歓迎の茶会に、条約局長だったとともに招かれた、恆の長女でI種試験に合格して間もないと初対面を果たす。 1987年(昭和62年)4月25日には、が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った。 こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・は銀行員であったが、四大公害病の筆頭であるを引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の保証部門として新設されたに派遣されその後、社長に就任したことやの被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。 しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。 宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元であり当時宮内庁参事であったの「江頭氏は再建のためからチッソに入った。 再建できなければ被害者への補償も不可能になった。 水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。 前宮内庁長官のは後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。 そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている。 また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる。 小和田雅子が英国留学から帰国した後に、宮内庁長官の依頼を受けた 、元外務次官が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。 同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。 小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も『温かくお迎えする』とおっしゃって下さっている 」旨を伝えた。 そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。 12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。 翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。 翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。 同年4月12日の(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。 その他の有力候補には天皇の学友で元のの長女がおり、1988年(昭和63年)秋ののダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。 その後最も有力といわれた妃の候補にはでの長女(の大姪)がおり、数回見合いをして電話やのやり取りを重ね、前年には旧皇族のも当人も了承し内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった。 同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK()が中継放送した「」の平均視聴率は30. そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79. また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されてとなった。 また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。 皇太子妃雅子との成婚以降 [ ] 成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で長女のが誕生した。 皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。 また、の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるから名誉法学博士号を授与されている。 そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史のを続けている。 国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席したの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。 2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「」)。 同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。 同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。 2007年(平成19年)3月27日、定期でにが発見された。 同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープのによる切除手術を東京都ので受けた。 同年11月1日、「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。 日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である。 2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日したが団長を務める総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『』を学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場に行啓し2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で台覧して言葉を交わしており、彭麗媛の夫ののと同様に「による皇室の政治的利用」と批判されることになった。 2013年(平成25年)3月6日、米国ので開かれた「水と災害に関する特別会合」で、で基調講演を行った。 同会合は、()など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である。 2016年(平成28年)1月28日、父帝・が(当時)とともに戦没者慰霊を目的とした訪問のために不在であったことから、でがからへ交代したことに伴う閣僚のを国事行為臨時代行の形で執り行った。 2017年(平成29年)6月16日、公布、同年12月1日開催の(議長:内閣総理大臣)及び開催のの定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、徳仁親王がに、第126代天皇に即位する日程が確定された。 天皇時代 [ ] 2019年(平成31年)4月30日午後12時、に従って第125代天皇明仁が退位し、2019年(元年)午前0時、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。 先帝・明仁は同日、となった。 第120代以来およそ202年ぶり、かつ、となった以降初めて、先帝からのに伴い即位した天皇となった。 また、59歳(数え60歳)での即位は、第49代の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目に高齢での即位である。 により、2019年5月1日は「天皇の即位の日」、同年10月22日は「が行われる日」とされ、共に同年限りで扱いのとなる。 代わって、弟・が皇嗣(第1位)となった。 即位の日、天皇は赤坂御所から皇居宮殿に向かい、即位の礼最初の儀式である「」に臨んだ。 これには、資格を有する成年の男性皇族、弟のと叔父の、その他三権の長(内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官)や政府閣僚()らが参列した。 その後に、をはじめ、皇嗣妃となったら、成年のらも参列に加わって行われた「」において、天皇として初めて「おことば」を述べた。 5月4日には新天皇の即位を奉祝する一般参賀が皇居で行われ、「おことば」を述べた。 「」も参照 5月9日、(常会)は、即位に祝意を示す「賀詞」をで議決した。 5月15日、も同様の「賀詞」を全会一致で決議し 、も、衆議院では条件付きで、参議院では異論なしに賛成した。 5月9日、離任する駐日大使のと即位後初の外国賓客の引見を行い 、国際親善の公務を開始した。 5月10日、は、(金貨幣およびバイカラー・クラッド貨幣)を発行することを発表した。 5月25日から28日の日程で、の及び夫人()が、令和時代初の国賓として訪日した。 天皇は5月1日の即位後初の国賓として接遇した。 5月27日に、天皇とトランプ米国大統領、皇后とメラニア・トランプ大統領夫人が15分ほどの会見を行い、主に父帝の退位と自身の即位、日米の交流、26日の大統領夫妻の観戦など日本文化の3つが話題になった。 一方、皇后雅子とメラニア大統領夫人との間では、子供のや、大統領夫人が取り組んでいる青少年育成活動に関することなどが話題に上り、外国滞在と(職員)としての勤務経験を有する皇后雅子は、通訳を介さず会話した。 会見では贈り物の「御贈進品」の交換も行われた。 天皇・皇后は大統領に濃い青色の円すい形の飾り鉢を、メラニア夫人へは金細工を施した飾り箱を、それぞれ贈呈した。 大統領夫妻からは天皇が趣味で演奏するが、皇后雅子にはハーバード大学で伐採した樹木で創作されたが、それぞれ贈呈された。 贈呈されたビオラについて、皇后が「陛下、今夜お弾きになられたら」と話すと、天皇が笑顔を見せる場面もあった。 また同日に皇居宮殿で行われた、「アメリカ合衆国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐」にて「おことば」を述べた。 2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式であるが執り行われた。 同年、にて開催された「」に際し、皇后雅子とともに二重橋に姿を見せ、「おことば」を述べた。 同年、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」(しゅくがおんれつのぎ)が執り行われた。 同年及びに、一世一度のである(だいじょうさい)の中心儀式・「大嘗宮の儀」(だいじょうきゅうのぎ)を実施。 同年、天皇と皇后は皇居・宮中三殿の賢所で、に伴う一連の国事行為「」と、一世一度の重要祭祀「大嘗祭」を終え、皇祖神のに感謝を込めて神楽を演奏する「賢所御神楽の儀」に臨んだ。 同年5月から続いていた即位関連儀式の締めくくりとして行われ、皇嗣夫妻をはじめとする皇族も参列した。 儀式では神楽の演奏の前に、16時半ごろ、黄櫨染御袍に身を包んだ天皇が賢所にて、のうち剣と璽(勾玉=まがたま)を捧げ持つ侍従らと共にゆっくりと回廊を進み、拝礼した。 続いて、の装束を着用した皇后も拝礼。 参列の皇族も賢所の前で拝礼した。 これに先立ち、天皇・皇后は同日午前、即位の礼と大嘗祭を終了したことを奉告する「親謁の儀」で宮中三殿に拝礼した。 同年5月1日、天皇が皇位継承の証として三種の神器の一部を引き継ぐ「剣璽等承継の儀」から始まった一連の即位関連儀式はこれで全て終了した。 祝賀御列の儀に集まった観衆 即位後の1年間で、両親の上皇夫妻から公務を引き継ぎ、皇后同伴での日本各地への行幸啓(式典等含む)をした。 2019年(令和元年)は、「第70回」(:)、「2019開会式」(:)、「」(:)、「第39回」(:)、「第34回・第19回」(:)、「第74回」(:)、「第60回」(:)、「更生保護制度施行70周年記念全国大会」(:)、2020年(令和2年)は、「国立障害者リハビリテーションセンター及び国立職業リハビリテーションセンター創立40周年記念式典」(:)への臨席にて、「おことば」を述べた(「地球科学・リモートセンシング国際シンポジウム2019開会式」のみ、英語による)。 2019年(令和元年)、同年10月発生のなどの被災地を見舞うため、皇后同伴でとを日帰りで訪問した。 現地の負担を考慮し、両県間などの移動はヘリコプターを利用。 天皇・皇后の被災地訪問は同年5月の徳仁即位後、初の機会となった。 天皇夫妻は同日、特別機でに到着後、ヘリコプターに乗り換え、10人が犠牲となった宮城県に移動。 阿武隈川(あぶくまがわ)の支流が氾濫し、流木や土砂が残る地区を視察した。 仮設住宅の集会所では、被災者に声をかけ、災害対応に尽力した関係者もねぎらった。 では、決壊した安達太良川(あだたらがわ)堤防の復旧状況を視察した後、台風19号の発災後に避難所として使用されていた保健・福祉施設を訪問し、被災者を気遣う言葉をかけた。 (令和2年)、即位後初の正月を迎え、重要な年始のである、の儀に臨む。 その後、とともに新年祝賀の儀に臨む。 、退位後初めて公の場に姿を見せる両親の上皇・上皇后とともに新年一般参賀に臨む。 、の儀に臨む。 にの儀、にの儀に他のらとともに臨む。 同年、皇后雅子と長女の同伴で(東京都)を訪れ、大相撲初場所14日目の取組を観戦した。 徳仁と雅子の大相撲観戦は2017年(平成29年)5月以来で、天皇即位後初のとなる。 愛子内親王は2007年(平成19年)9月以来の観戦となった。 同年、での御即位記念特別展「令和の御代を迎えて」を皇后雅子同伴で鑑賞。 同年、即位後初ので60歳(還暦)を迎える。 同日実施予定の皇居での天皇誕生日一般参賀は、の影響のため中止となる。 その2日前の、での記者会見に臨む。 同年、宮内庁は、天皇即位に伴う事業への寄付について、政府が創設した「子供の未来応援基金」と、国やボランティア団体の調整役などを担うNPO法人(特定非営利活動法人)「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」に、それぞれ5千万円ずつ行うことを発表した。 寄付金は天皇の私的な「お手元金」から拠出され、それぞれ子供の問題関連事業と、被災者支援関連事業に充てられるという。 宮内庁の池田憲治次長は同日の定例会見で「天皇、皇后両陛下は、と、時に数多く発生したを契機に役割が高まっているボランティアによる被災者支援に対する国民の理解が深まることを願われている」と述べた。 ではが寄付をする場合、の議決が必要と規定、寄付額が年間1800万円を超える場合に適用される。 同年3月の(常会)本会議で、天皇がまでの間、社会福祉事業へ1億円以内の寄付をすることを可能とする議決案を可決した。 父明仁の即位の際にも、児童福祉と障害者支援の2団体に5千万円ずつ計1億円が寄付された。 4月10日、天皇夫妻は住居の赤坂御所に政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の副座長を招き、同氏による進講として約1時間半にわたり国内外の感染状況などについて説明を受けた(3名全員着用)。 当初は4月6日に予定されていたが、の発令に際し、延期されていた。 天皇は冒頭、関係者らに感謝を示した上で、「私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています」と述べた。 天皇夫妻はメモを取りながら、「どうすれば医療崩壊を防げるか」などについて積極的に質問し、「国民が一丸となって乗り越えなければならないですね」などと話した。 新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大を巡っては、天皇夫妻は同年3月、長女のの卒業に際して公表した文書でも「我が国の国民、そして世界の多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と憂慮していた。 天皇は同年4月14日午後、マスク姿で皇居に入り、との2つの品種の稲の苗となる種もみをまく農作業をした。 天皇による皇居でのは、が従事者の苦労を感じるために始めた。 天皇の代替わりのあった昨年の(平成31年)4月は父上皇(当時天皇)が種まきをし、天皇が田植えと収穫をした。 この米は、天皇が田植えや収穫をした後で、などで使用することを検討している。 年譜 [ ]• 1960年(昭和35年)2月23日16時15分 、東京都千代田区の、にて誕生。 父の皇太子明仁親王と母の同妃美智子(いずれも当時)の間の2男1女のうち、第1皇男子(第1子)。 1964年(昭和39年)• 4月13日、に入園。 10月29日、着袴の儀。 1966年(昭和41年)4月8日、に入学。 1972年(昭和47年)4月8日、に入学。 1975年(昭和50年)4月7日、に入学。 1980年(昭和55年)• 2月23日(成年:20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)。 11月30日、を親受。 1982年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学を卒業(文学士)。 1983年(昭和58年)10月15日、マートン・カレッジに入学。 1988年(昭和63年)、学習院大学大学院を修了(人文科学修士)。 1989年(昭和64年)1月7日(28歳)、祖父崩御、及びに基づき父の(当時)が第125代天皇にしたことに伴い、(第1位、)となる。 1991年(平成3年)2月23日(31歳)、(宮殿正殿・松の間)。 を親授される(宮殿表御座所・鳳凰の間)。 1993年(平成5年)• 1月19日(32歳)、妃に当時北米局北米二課職員であった小和田雅子が内定。 4月12日、(東京都・小和田邸)• 6月9日、(・)• 2019年(元年)• (59歳)、及び(2017年、平成29年法律第63号)に基づきし、第126代天皇に即位()。 同日、日本政府は徳仁に対し、、及びを譲与した。 剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀。 同年(59歳)、。 同年(59歳)、「」。 同年(59歳)、祝賀御列の儀。 同年・(59歳)、(大嘗宮の儀)。 皇子女 [ ] との間に、1女(1人)がいる。 (、第125代天皇)の皇孫にあたる。 委任を行った天皇 委任年月日 委任の理由 委任の期間 委任された事項 解除 終了 年月日 解除 終了 の理由 1987年 昭和62年 10月 03日 病気療養中 皇太子明仁親王外国旅行 当分の間 全般 1987年 昭和62年 10月10日 皇太子明仁親王帰国 1991年 平成 03年 09月26日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1991年 平成 03年 10月 06日 帰国 1992年 平成 04年 10月23日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1992年 平成 04年 10月28日 帰国 1993年 平成 05年 08月 06日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1993年 平成 05年 08月 09日 帰国 1993年 平成 05年 09月 03日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1993年 平成 05年 09月19日 帰国 1994年 平成 06年 06月10日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1994年 平成 06年 06月26日 帰国 1994年 平成 06年 10月 02日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1994年 平成 06年 10月14日 帰国 1997年 平成 09年 05月30日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1997年 平成 09年 06月13日 帰国 1998年 平成10年 05月23日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1998年 平成10年 06月 05日 帰国 2000年 平成12年 05月20日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2000年 平成12年 06月 01日 帰国 2002年 平成14年 07月 06日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2002年 平成14年 07月20日 帰国 2003年 平成15年 01月16日 病気療養 当分の間 全般 2003年 平成15年 02月18日 病気快復の状況に鑑み 2005年 平成17年 05月 07日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2005年 平成17年 05月14日 帰国 2005年 平成17年 06月27日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2005年 平成17年 06月28日 帰国 2006年 平成18年 06月 08日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2006年 平成18年 06月15日 帰国 2007年 平成19年 05月21日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2007年 平成19年 05月30日 帰国 2009年 平成21年 07月 03日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2009年 平成21年 07月17日 帰国 2011年 平成23年 11月 07日 病気療養 当分の間 全般 2011年 平成23年 12月 06日 病気快復の状況に鑑み 2012年 平成24年 02月17日 病気療養 当分の間 全般 2012年 平成24年 04月10日 病気快復の状況に鑑み 2012年 平成24年 05月16日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2012年 平成24年 05月20日 帰国 2013年 平成25年 11月30日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2013年 平成25年 12月 06日 帰国 2016年 平成28年 01月26日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2016年 平成28年 01月30日 帰国• 「委任年月日」は、官報に掲載された代行開始期日。 明仁(上皇、第125代天皇)の訪問国は、「」を参照。 発言 [ ]• 「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」• 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」• 「のに行ってあれやこれや買うような方では困る」• 「誰とでも気軽に話が出来る人。 人と会った時でも話し合える環境を自然に作り出せる女性。 話す時は控えめではあっても、必要な時は自分の意見をしっかり言える女性」• 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対して。 「人の心情、悩み、苦しみを推し量って、思いやれる人が良い」• 以上、1986年(昭和61年)、誕生日記者会見でお妃の理想像を聞かれて。 「すぐ手の届くところに中世が存在する」• 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ 1264年創について。 「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」• 留学して半年後、昭和58年12月の記者懇談で、英国の女子学生について。 「寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」• 1985年(昭和60年)10月オックスフォード大での留学を終えての感想。 「心から祝福いたします。 さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」• 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。 二人の結婚は私も強く勧めたところです。 私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」• 以上、1989年(平成元年)9月21日、記者会見にて、の婚約についての質問に対して。 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。 皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」• 1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて。 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」• 1992年(平成4年)11月後半に交際中の小和田雅子(当時)にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した。 「としての雅子のやを否定するような動きがあったこともです」• 2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。 いわゆる。 「が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。 親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」• 2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、についての質問に対して。 「昨年9月のの誕生を心から喜ばしく思います。 御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」• 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」• 2009年(平成21年)2月20日、誕生日に際する記者会見にて、第125代天皇とその皇后のこれまでの歩みについての質問に対して。 「の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀も含めての意味で使われた言葉です。 私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」• 2010年(平成22年)2月、誕生日に際する記者会見にて「誡太子書」に言及して。 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者やの方々など多くの方にお会いしたいと思っています」• 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連持続可能な開発会議」に言及して。 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。 同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。 私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」• 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。 陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」• 同記者会見にて、御所での第125代天皇と皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王との懇談についての質問に対して• 「以来、これから私が担うこととなる重責について、改めて思いを巡らせる機会も増えてきましたが、その度に、両陛下のこれまでの御苦労と御努力に感謝と尊敬の念を覚えます。 また、両陛下から、様々な機会に、多くのお話を伺わせていただいていることも、今後公務に取り組んでいく際の大きな道標となるものであり、大変有り難いことと思っております。 これからのことを思うと、とても厳粛な気持ちになりますが、引き続き自己研鑽に努めながら、過去ののなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います。 また、以前も述べたとおり、私が長年携わってきました「水」問題についても、そのことを切り口に、豊かさや防災など、国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。 日本の変化に富む豊かな国土は、同時に、、例えばや、などの影響を受けやすいことから、「」問題への取組で得られた知見も、これからの務めの中で、国民生活の安定と発展を願い、また、防災・減災の重要性を考えていく上で、大切にいかしていきたいと思います。 の将来像についての御質問については、男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、また、女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題です。 ただ、制度に関わる事項については、私からこの場で言及することは控えたいと思います。 皇室の在り方に関しては、国民と心を共にし、苦楽を共にする皇室、ということが基本であり、これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。 過去の天皇が歩んでこられた道と、とのの規定に思いを致し、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けることが大切であるとの考えは、今も変わっておりません。 同時に、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。 私も、過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。 2019年(平成31年)2月21日、皇太子として迎える最後の誕生日(59歳)に際する記者会見にて(場所:東宮御所)、「(自身が)新天皇として即位するまで残り2か月余りとなり、皇太子としての歩みを振り返るとともに、即位を控えた現在の心境や、新たな時代に臨む決意及び皇室全体で皇族の減少や高齢化が進んでいることを踏まえつつ、どのような皇室の将来像を描こうとしているのか」という質問に対して• 「及びの定めるところにより、ここにしました。 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。 顧みれば、にはにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。 上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代ののなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。 2019年(令和元年)5月1日、「即位後朝見の儀の天皇陛下のおことば」• 「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。 ここに『』を行い、即位を内外に宣明いたします。 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。 国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。 2019年(令和元年)10月22日、「即位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば」• 「上皇陛下の御退位を受け、昨年5月に即位して以来、国民の幸せを願いながら日々の務めを果たし、今日まで過ごしてきました。 即位関係の諸行事を無事に終えることができ、安堵するとともに、国内外の多くの方々とお会いし、折々に温かい祝福を頂く機会も多かったこの1年は、私にとっても皇后にとっても誠に感慨深いものでした。 その一方で、昨年も台風や大雨により、多くの尊い命が失われたことに心が痛みます。 寒さも厳しい折、住まいを失い、いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じております。 本年は、災害がない1年となることを祈ります。 新しい年が、日本と世界の人々にとって幸せな年となることを心より願いつつ、務めを果たしていきたいと考えています。 2020年(令和2年)1月1日、天皇陛下のご感想(新年に当たり)• 「御指摘のように、近年は特に変化の激しい時代です。 例として挙げられたAI()が数年前には今のように話題になっていなかったことや、今では当たり前に使われ、我々の生活を大きく変えているの普及、その一方で、各地で大きな被害をもたらす気候変動による自然災害の脅威が更に深刻になっていることなど、平成の初期と比べても、人々の生活環境は異なってきていると思います。 このような変化の激しい時代にあって、社会の変化や時代の移り変わりに応じた形でそれに対応した務めを考え、行動していくことは大切なことであり、その時代の皇室の役割でもあると考えております。 そのためにも、多くの人々と触れ合い、直接話を聞く機会を大切にしていきたいと考えています。 同時に、先に述べましたとおり、常に国民を思い、国民に寄り添い、象徴としてあるべき姿を模索しながら務めを果たし、今後の活動の方向性についても考えていきたいと思っております。 「即位の年齢については、歴代天皇の中では、より高齢で即位された天皇もおられますが、還暦を迎えるのに当たっては、もう還暦ではなく、まだ還暦という思いでおります。 2020年(令和2年)2月21日、自身の還暦(60歳)のかつ即位後初の誕生日(:2月23日)に際しての赤坂御所での記者会見での発言抜粋。 「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。 今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。 2020年(令和2年)4月10日、尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講時 人物 [ ] 逸話 [ ]• 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。 しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。 時代、をマスターする時にも、倒れて涙を見せても自分の力で立ち上がり自転車を起こしていた。 しかし、4歳の時、「なぜ自分にはがないのか」と寂しそうに尋ねた。 7歳の時には自分の立場を自覚し、一人で歓迎の人達に向かって挨拶をした。 「男の子は泣くものではありません」としつけられていたが、弟のが誕生しベビーベッドで泣いていたとき「アーヤは赤ちゃんだから泣いてもいいんだよね」と言ってかばった。 は、とを中心に幅広く、特に日本各地のとのはしばしば国民の目をひく。 登山に関しては、登山専門誌『』や『』などに、幾度かも寄稿している。 このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般のの原則に従い、上皇を「父」、上皇后を「母」と呼んだ。 登山のほかにはとを好む。 普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。 2007年(平成19年)は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。 は、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のなどで演奏することもある。 元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。 皇太子になる前には、歌手ののコンサートに赴いたこともある。 1986年(昭和61年)10月19日、でのコンサートに行き話題となる。 出迎えた柏原がレコードと写真集をプレゼントした。 そのお礼に彼女にオレンジ色のバラを贈っている。 (父皇太子明仁親王邸である)東宮御所に咲く(エリザベス女王が皇太子妃美智子に送ったバラ)「」であった。 カラオケで柏原の曲「」を歌うこともあった。 小学生の頃はのファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。 を贔屓にしており、観戦した第4戦で末次が満塁本塁打を放った際には大いに喜んだ。 また、のファンでもあった。 1988年(昭和63年)ののでは開会式後のを務めた この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の2009年(平成21年)夏の甲子園のでは開会式に親覧し、お言葉を読み上げた。 に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。 の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。 この直前にはクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンを訪問中であり、外国訪問を継続する予定であったが、訪問先ののの勧めで急遽予定を切り上げ、帰国した。 で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。 その後、2010年(平成22年)までに、被災地訪問を12回行い 、15周年の追悼式典には療養中の妃雅子を伴って夫妻で臨席した。 研究者として [ ]• (交通史、流通史)を専門としたきっかけは、「幼少時、母親の皇太子妃美智子(当時)と共に御用地を散策中にを見つけたことだ」という。 のちに「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」について大変興味があった。 ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえの中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。 私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。 」と回想している。 第5回世界水フォーラムでの開会式では、トルコ語で最後の呼びかけを行い会場は割れるような拍手に沸いた。 一方、基調講演では、弥生時代の「唐子・鍵遺跡」の環濠集落や、徳川家康が治水上の安全を根本的に向上させるために実施した「利根川の東遷」の事例を引いて水問題を歴史の視点から語った。 「殿下は水と人との関係を、開催国の歴史と日本の伝統を踏まえて具体的な事例を示して講演されるので、開催国と日本の間に「伝統の継承」という美しい橋を架ける」とは評している。 外国滞在・訪問 [ ]• 1984年(昭和59年)への留学中、出席のため訪英していた首相(当時)に、英女王の夫は「浩宮殿下は完全にロイヤル・ファミリーの一員となっています」と伝えた。 2007年(平成19年)の 訪問においては、到着翌日に日本人抑留者の慰霊碑に供花した。 「(による)抑留者のうち1万4,000人がモンゴルに移送され、約2,000人が死亡していることに思いを寄せたため」という。 このことに感謝した日本モンゴル協会の人々は、「大きなの旗を振って皇太子の車列を迎え、見送った」という。 2017年(平成29年)の訪問のときには、同国首都市民のに応じた。 公務(国内) [ ]• 1986年(昭和61年)における全国高校相撲選手権大会で、原稿なしで堂々たるスピーチをしたことで大きな拍手が沸き起こった。 「お言葉」を読み上げる以上の熱意を観衆が感じたためと思われる。 からの子ども達による記者「豆記者」の受け入れを、平成時代になってからは皇太子徳仁親王と同妃雅子(いずれも当時)が引き継いでおり、毎年8月に東宮御所で会見し、一人一人に声をかけ会話を重ねたという。 皇族として [ ]• 家とは、家族ぐるみで親しく交際していた。 は自身とも年齢が近く、徳仁親王にとっては兄のような存在で、結婚後も二人の心の支えとなった。 夫妻は結婚当日、赤坂御用地で家族揃って成婚祝賀パレードを終えた二人を迎えた。 憲仁親王は「皇太子夫妻の待望の第1子であったの誕生をことのほか喜び、出産時の見舞いに先に妃たちだけが行くことになったのを非常に悔しがった」という。 皇太子夫妻が憲仁親王と最後に会えたのは、憲仁親王がする1週間前に愛子内親王を連れて高円宮邸を訪問した時だった。 2006年(平成18年)9月6日、がで、(今上天皇にとっての甥である)第3子のを出産した際は、弟のからの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。 妃殿下のが無事に終わることを祈っています。 両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。 で公務中だった両親の天皇皇后の(同月9日)と見舞い(同月10日)の後、自らは11日に妃雅子と愛子内親王を伴って一家で見舞いに訪れた。 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が、)(自身の祖父母にあたる)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが 、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で宮内庁長官(当時)に「天皇皇后両陛下への参内(訪問)の回数が増えていないこと」を指摘された。 姻族 [ ] 2000年(平成12年)11月19日、の実妹であるの結婚披露宴()に親覧した。 2004年(平成16年)11月19日、祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って東京都のに見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子の祖父であるが死去した際には雅子に同行、東京都のの葬儀に親覧している。 栄典 [ ] ・ ()団員としての紋章 勲章 [ ] 日本 [ ]• - :2019年(令和元年)5月1日• - :1980年(昭和55年)11月30日• - :2019年(令和元年)5月1日• - :2019年(令和元年)5月1日• - 外国 [ ]• : オーストリア共和国勲章 - 1999年• : アール・ハリーファ勲章• : -• : レオポルド勲章 -• : エレファント勲章 - (2004年)• : 救い主勲章 -• : () - (2000年)• : イタリア共和国功労勲章 -• :ナッサウ家金獅子勲章 -• : ラム・クラウン勲章 - (2012年)• : クラウン勲章 - (1991年)• : - (2001年)• : - (2002年)• : (1993年)• : 勲功勲章• : () - (2008年)• : () - (2007年)• トンガ王冠勲章 - (2008年)• 戴冠メダル(2008年)• 戴冠メダル(2015年)• : ザーイド勲章(1995年) - 名誉博士 [ ]• () 名誉職 [ ]• 名誉副総裁• 「水と衛生に関する諮問委員会」名誉総裁• きじ章 - (1989年)• 「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」名誉総裁 著作・論文・講演集など [ ] 特記のない書籍等は、「徳仁親王」名義。 「の一考察-を中心にして」、『交通史研究』第8号、交通史学会、1982年• H PRINCE NARUHITO THE THAMES AS HIGHWAY (交通路としてのテムズ川)、、1989年• 「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」、先生退任記念論集刊行委員会編『中世日本の諸相・下巻』、、1989年、• 「」、『地学雜誌』 第100巻 第1号 p. 3-18、公益社団法人東京地学学会、1991年, :• 『 -英国の二年間-』総務部広報課〈学習院教養新書〉1993年• 「皇太子さまが綴られた野の花,山の花への思い 山の花随想」、『』1997年6月号(通号600)• 「」、『学習院大学史料館紀要』第10号、、1999年• (木村真美子共著)「」「『西園寺家車図』諸本の研究—附、宮内庁書陵部所蔵九条本『西園寺家車図』翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第11号、学習院大学史料館、2001年3月• 「関銭-兵庫関 兵庫北関代官職請文」、『東大寺文書を読む』堀池春峰監修・綾村宏:編、、2001年5月、• (木村真美子共著)「」、『学習院大学史料館紀要』第12号、学習院大学史料館、2003年, :• (木村真美子共著)「『九条家車図』の成立をめぐって : 附、学習院大学史料館所蔵飛鳥井本『九条家車図』解題および翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第14号、学習院大学史料館、2007年, :• (木村真美子共著)「」、『学習院大学史料館紀要』第15号、学習院大学史料館、2009年, :• 「」、『学習院大学史料館紀要』第16号、学習院大学史料館、2010年• 「水災害とその歴史」、『東日本大震災復興を期して-知の交響(ハーモニー)』、編、、2012年、• 「」『地学雑誌』 2014年 123巻 4号 p. 389-400、- 2009年日本アジア協会総会で行なった講演の日本語訳。 『水運史から世界の水へ』NHK出版、2019年、 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• マスメディアの皇室関連報道や政府系機関などでは主に、地位・称号である「天皇」に敬称「陛下」を付した「 天皇陛下」(てんのうへいか)の呼称が用いられる。 この他、過去歴代天皇と区別するための、在位中の天皇に対する呼称である「 (きんじょうてんのう)」の呼称が用いられることもある。 と第1皇女子・愛子内親王の一家3人で同居している。 「浩宮」はであり、名は「徳仁」のみ。 第1条:「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。 」及び同第8条:「皇嗣たる皇子を皇太子という。 (後略)」と規定されており、徳仁の第1皇女子であるは男系女子の皇族であり、皇位継承権を有さないため。 なお当初は、同年の即位礼正殿の儀を終えた同日に実施する日程であったが、(台風19号)の発生とその被災からの復旧支援に政府が注力して取組をするために、延期された。 この日の記者会見では、「天皇陛下には、重要な儀式・儀礼の際には(だいくんいきっかしょうけいしょく)及び(とうかだいじゅしょう)を、の親授式には文化勲章を、佩用(はいよう)していただく必要があります。 この度、これらの勲章を陛下にお持ちいただくことになりましたので、御報告いたします。 」と発表した。 打者は第一試合に出場した茨城県代表・(対戦相手は長崎県代表・)の1番打者であった(元)である。 出典 [ ]• 第二十三条第一項「天皇、、及びの敬称は、陛下とする。 松本敦「」『学習院大学大学院日本語日本文学』第10巻、学習院大学大学院、2014年、 52-67頁、 、 2020年4月22日閲覧。 『大辞林』第三版 「今上天皇」• 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第3号「天皇皇后両陛下の御在所が定められた件」• 日本語. 2016年1月28日. 2016年1月28日閲覧。 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第1号「天皇陛下御退位等に関する件」• 明仁が4月30日午後12時(=5月1日午前0時)を以って退位し、同時に徳仁が即位した為、空位は生じていない。 MSN産経 2008年3月11日• MSN産経 2009年5月10日• 浜尾実『殿下とともに』角川出版 1993年• 河原敏明『美智子妃』 1991年 講談社文庫、P. 160。 1993年(平成5年)に、留学記『』(学習院教養新書)を出版している。 1993年1月24日号• 毎日新聞 1993年6月10日• 毎日新聞 1993年1月18日• 読売新聞 1993年1月7日夕刊• 朝日新聞 1993年1月20日• 『』1993年1月26日• 、時事通信、2007年11月1日 [ ]• (2009年11月21日)【花田紀凱の週刊誌ウォッチング】(236)• (2009年12月15日)『特例会見、中国では「次の最高指導者」周知の意図』• YOMIURI ONLINE 2013年3月7日• Reuters Japan 2016年1月28日閲覧• www8. cao. 2019年4月30日閲覧。 2019年10月7日. 2020年5月4日閲覧。 産経新聞 2019年5月9日 「」• 2019年5月11日. 2019年5月14日閲覧。 2019年5月9日. 2019年5月14日閲覧。 財務省 2019年5月10日 「」• 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『宮さまとの思い出』、2003年、初版第一刷、272-284頁。 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。 [ ]• 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。 1299. 2012年6月13日閲覧。 , Prince Naruhito, having no Luxembourgish decoration, has worn the of Grand Cordon of the Order of Leopold• 2012年6月13日閲覧。 Official Gazette of the Republic of the Philippines. 2012年6月13日閲覧。 presidencia. 2012年6月13日閲覧。 Getty Images 2010年6月19日. 2016年12月2日閲覧。 2015年7月5日時点のよりアーカイブ。 2016年12月2日閲覧。 Ito, Kazuya 2015年7月4日. The Asahi Shimbun. の2015年7月5日時点におけるアーカイブ。 2016年12月2日閲覧。 reinanzaka-sc. oo7. pdf• 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 関連項目 [ ] ウィキソースには次の原文があります。 第2代• 第3代• 第4代• 第5代• 第6代• 第7代• 第8代• 第9代• 第10代• 第11代• 第12代• 第13代• 第14代• 第15代• 第16代• 第17代• 第18代• 第19代• 第20代• 第21代• 第22代• 第23代• 第24代• 第25代• 第26代 (507? - 531? 第27代 (531? - 535? 第28代 (535? - 539? 第29代 (539? - 571? 第30代 (572? - 585? 第31代 (585? - 587? 第32代 (587? - 592? 第33代 (592 - 628)• 第34代 (629 - 641)• 第36代 (645 - 654)• 第37代 (655 - 661)• 第38代 (661 - 671)• 第39代 (671? - 672? 第40代 (673 - 686)• 第42代 (697 - 707)• 第50代 (781 - 806)• 第55代 (850 - 858)• 第58代 (884 - 887)• 第62代 (946 - 967)• 第68代 (1016 - 1036)• 第70代 (1045 - 1068)• 第73代 (1086 - 1107)• 第81代 (1180 - 1185)• 第110代 (1643 - 1654)• 第116代 (1747 - 1762)• 第118代 (1770 - 1779)• 第120代 (1817 - 1846)• 第121代 (1846 - 1866) 明治以降• 第122代 (1867 - 1912)• 第123代 (1912 - 1926)• 第124代 (1926 - 1989)• 第126代 (2019 - 在位)• 大正の初年まではを天皇歴代に含め、これを「第15代神功皇后」として仲哀天皇と応神天皇の間に置いていた。 赤背景は(8人10代の女性天皇)。 」は当該年に異説があることを示す。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の。 第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 第38代天智天皇の在位年は6年半に及んだ即位前のを含む。 第41代持統天皇の在位年は3年半に及んだ即位前の称制を含む。 第57代陽成天皇の譲位は事実上の廃位。 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。 第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ鎌倉時代末期 (1318—31年)、建武の新政期 (1333—36年)、吉野時代 (1336—39年)の3期にまたがるが、それぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。 なお今日では便宜上光厳天皇を北朝の最初の天皇とみなしているが、実際に南北両朝が並立するようになるのは、次の光明天皇が擁立されたのち後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に拠った時点 (1336年)からである。 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。 北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇としてに含めている()。 後小松天皇の在位は、始めの10年間を北朝の天皇のそれとみなし、南北朝合一 (1392年)後の20年間を天皇歴代の第100代とみなしている()。

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令和の天皇誕生日は2月23日に。2019年は天皇誕生日なし。12月23日は平成の日として今後祝日化されるか?!

令 和 天皇 誕生 日 祝日

「スポーツの日」について 令和2年(2020年)以降、「体育の日」は 「スポーツの日」になります。 国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成30年法律第57号)が平成30年6月20日に公布され、国民の祝日である「体育の日」の名称が 「スポーツの日」に改められ、 その意義は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」とされました。 (施行日:令和2年1月1日) 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の特例について 令和2年(2020年)に限り、 「海の日」は 7月23日に、 「スポーツの日」は 7月24日に、 「山の日」は 8月10日になります。 平成三十二年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法及び 平成三十一年ラグビーワールドカップ大会特別措置法の一部を改正する法律(平成30年法律第55号)が平成30年6月20日に公布され、 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の円滑な準備及び運営に資するため、同法第一条により、「国民の祝日に関する法律」の特例が設けられました。 (施行日:平成30年6月20日) 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号) 第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。 第2条 「国民の祝日」を次のように定める。 元日 1月1日 年のはじめを祝う。 成人の日 1月の第2月曜日 おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。 建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。 天皇誕生日 2月23日 天皇の誕生日を祝う。 春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。 昭和の日 4月29日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。 憲法記念日 5月3日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。 みどりの日 5月4日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。 こどもの日 5月5日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。 海の日 7月の第3月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。 山の日 8月11日 山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。 敬老の日 9月の第3月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。 秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。 スポーツの日 10月の第2月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。 文化の日 11月3日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。 勤労感謝の日 11月23日 勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。 第3条 「国民の祝日」は、休日とする。 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。 )は、休日とする。 附則 (省略) 令和2年(2020年)及び令和3年(2021年)の「国民の祝日」 令和2年(2020年)及び令和3年(2021年)の「国民の祝日」は、現在制定されている国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の規定によれば、以下のとおりとなります。 〇令和2年(2020年)の国民の祝日・休日 名称 日付 備考 元日 1月1日 成人の日 1月13日 建国記念の日 2月11日 天皇誕生日 2月23日 休日 2月24日 祝日法第3条第2項による休日 春分の日 3月20日 昭和の日 4月29日 憲法記念日 5月3日 みどりの日 5月4日 こどもの日 5月5日 休日 5月6日 祝日法第3条第2項による休日 海の日 7月23日 スポーツの日 7月24日 山の日 8月10日 敬老の日 9月21日 秋分の日 9月22日 文化の日 11月3日 勤労感謝の日 11月23日 〇令和3年(2021年)の国民の祝日・休日 名称 日付 備考 元日 1月1日 成人の日 1月11日 建国記念の日 2月11日 天皇誕生日 2月23日 春分の日 3月20日 昭和の日 4月29日 憲法記念日 5月3日 みどりの日 5月4日 こどもの日 5月5日 海の日 7月19日 山の日 8月11日 敬老の日 9月20日 秋分の日 9月23日 スポーツの日 10月11日 文化の日 11月3日 勤労感謝の日 11月23日•

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