ソ連 アフガニスタン 侵攻。 アフガニスタンの歴史1 ソ連の侵攻

アフガン侵攻1979

ソ連 アフガニスタン 侵攻

「一九七九年一二月、ソ連軍はアフガニスタンへの侵攻を開始した。 特殊部隊がカブールの主要目標を占拠し、宮殿を急襲してアミンを殺害した。 だが、ソ連の意図は控えめだった。 主要な都市や道路を確保し、政権を安定させ、軍隊や警察を訓練し、六か月から一年以内に撤退するつもりだったのだ。 ところが予想に反して、侵攻は血なまぐさい戦争に発展し、抜け出すのに九年もの歳月を要したのである。 ソ連軍はロシア、ウクライナ、ベラルーシ、中央アジア、カフカス、バルト三国など、ソ連のあらゆる地域出身の兵士で構成されていたが、みな同じソ連の国民であるという意識を持っていた。 しかし戦争末期、撤退が近づく頃になると、その意識も薄れていく。 ソ連が解体しはじめると、以前の同志が自分とはまったく異なる、ときに敵対的な国に住んでいることに気がついたのだ。 そして、アフガン帰還兵の多くは通常の市民生活に戻るまでに何年もかかることになる。 結局、戻れなかった者もいる。 そして、自分たちが戦った同じ戦争の記憶から解放される者は誰一人としていなかった。 」 「プロローグ」より 一九七九年十二月に始まったソ連によるアフガニスタン侵攻は、たび重なる反乱に直面した共産党政権を支援するためのものだった。 当初、ソ連軍の任務はアフガン軍を支援し、部隊の訓練・強化を行うという限定的なものだったが、やがて、米国やパキスタンの支援を受けたムジャヒディン イスラム戦士 との全面的な戦争に巻き込まれていく。 撤退までの九年間に約一万五〇〇〇人の兵士が戦死し、無数のアフガン人犠牲者を出し、双方に大きな傷を残した。 元モスクワ駐在英国大使の著者は、主にロシア側の詳細な資料に基づいて、アフガン侵攻について従来広く信じられてきた説 領土拡大主義による侵略だった、この戦争がソ連の解体につながった、など を否定する。 当初、ソ連政府はあくまでも軍事介入を避けようとしていた。 また、政府の失策や戦略的誤りによって兵士たちが困難な状況に置かれたのは確かだが、ソ連軍はけっして戦争に負けたわけではないし、撤退も整然と計画的に行われたという。 軍事介入に至る歴史的背景から説き起こし、ソ連・アフガン双方の複雑な国内事情や、兵士たちが経験した戦闘の緊迫感とその後の厭戦気分まで、紛争の全貌を詳細に描く。 冷戦期の神話を覆すアフガン戦史の決定版。 ロドリク・ブレースウェート Rodric Braithwaite 元外交官。 1932年ロンドン生まれ。 1950〜52年英国軍諜報部員としてウィーンに駐在。 52〜55年ケンブリッジでフランス語とロシア語を学ぶ。 55〜92年英国外務省勤務。 この間、ジャカルタ、ワルシャワ、ローマ、ブリュッセル、ワシントンなどに駐在。 引退後は、ドイツ銀行上級顧問、王立音楽院長などを務める。 著書にAcross the Moscow River 2002 、邦訳書に『モスクワ攻防1941』 白水社、2008年 がある。 訳者:河野 純治 こうの じゅんじ 翻訳家。 1962年生まれ。 明治大学法学部卒業。 主な訳書に『ピュリツァー賞受賞写真全記録」 日経ナショナルジオグラフィック社 、『アルジャジーラ 報道の戦争』『ムンクを追え! 』『絶対帰還。 』『趙紫陽極秘回想録』 以上、光文社 、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』 柏書房 などがある。 一九七九年から一九八九年にかけてのソビエト社会主義連邦によるアフガニスタン侵攻をソ連側から描いた渾身の作品だ。 アフガニスタンの歴史から解き、当時の状況の中で、どうしてソ連が軍事介入に踏み切る道を選んだのか、その過程と、その後の経過と、侵攻の終焉を描いている。 アフガニスタンからの撤兵の二年後に、ソ連が崩壊したことを考えると、この侵攻の意味を知ることは、歴史の上からも興味深い。 この本が優れているのは、歴史の決定者たちの行動だけでなく、当時のアフガニスタンの当事者たち、アフガニスタンの共産党政権とそれを支えるソ連軍、反対勢力と民衆、双方に関わる兵士たち、その三者三様の立場を立体的に描き出している点だ。 あの当時、ソ連のアフガン侵攻について、我々日本人が受け取った多くの印象は、アメリカ側からの恣意的な情報をもとにして組み立てられていた新聞とテレビ報道しかなかった。 当時の報道が、いかに一面的だったのか、この本を読んで改めて思う。 「ソ連軍が、おもちゃに偽装した対人地雷をばらまき、罪もない市民を虐殺している」 当時の私自身が記憶している報道さえもが、アメリカ=パキスタンが意図的に流布した捏造だったこともこの本で知った。 ソ連が選択した結果の悲惨さ、戦場での兵士や民衆が体験する共通した心理にも触れられていた。 戦場は、60年以上も続く平和な世界に生きる我々日本人の想像が及ばない世界だと言うことも、この本から伝わってくる。 イギリス、ソ連、アメリカ。 世界の大国の侵攻を三度はねのけて戦ったアフガニスタンの人びとの気迫に驚きもする。 同時に、部族対立や宗教対立を現在に至るまで克服することができない、彼らの今後の国家運営の大変さも想像できる。 本に記録されている中でもっとも印象に残った人物は、アフマド・シャー・マスード(Ahmed Shah Massoud、1953年9月2日 - 2001年9月9日)だろう。 南西部を支配する反政府勢力の中核として、ソ連軍の度重なる攻撃を撃退し、ついに追い出すまで戦い続けた軍人であると同時に、敵味方が心服するような人間として記録されている。 交戦相手だったソ連軍の将軍の中にさえ、彼に対して敬意を払う人もいた。 また、ソ連のアフガン撤退後は、敵対していたソ連の方が、彼を支援していたとは驚きだ。 全般的に抑制的な筆致で描かれていて、訳文もよい。 アフガン情勢の原点を知る優れた一冊。 ベトナム戦争が終わって4年後、今度はソ連がアフガニスタンに侵攻した、9年後に撤退するまでにアメリカと同じ道を辿っていった。 イギリス人の元外交官が、ロシア側の資料を集め、ソビエト軍と共産主義に反発する、イスラム教徒の反政府軍の戦いを公平に興味深く描いている。 ソビエトは最初、民衆の支持を失った共産主義政権を自らが倒し、自分の意のままになる共産主義の傀儡政権を造り、政権の安定後速やかに撤退する予定だった、結果は、今に続く米英中心の多国籍軍とタリバンの戦闘に繋がっている。 延べ60万人を超えるソ連兵がアフガンに入り15051人が死んだ、しかし公的には、ソ連は住民に建設や教育の国際援助をしているのだから戦死でなくソ連国内では、戦闘の報道はなかった。 国に帰った兵士は戦闘を話すことを禁じられていた、また一番のお土産は日本の電気製品であったこで、たびたび日本の電気製品の話が出てくる。 戦闘の様子は、個々の兵士の話で、良く描かれている、ソ連は自国との補給路を繋ぐことに腐心し、反政府側支配地区に攻め入ってもすぐに撤退を繰り返す、イスラム戦士達は、勇敢であり奇襲や待ち伏せで粘り強く戦うが、武器は旧式で各部族同士の連帯感は無い、両者とも最期まで、負けないが勝てない状態である。 一番の被害者は、農民である、作戦中ソ連兵は、1発の銃弾が飛んでくると周りの住宅を焼き払い容赦なく女子供を殺した、何十万のアフガン人が死んだ。 訳文は良くこなれているので残虐な場面が多く重い内容ながら最後まで早く読めた。 良書です、御一読を。

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アフガニスタンにアメリカが侵攻する理由は?

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それはもう、ランボーの活躍が有ったから・・・・なんてね。 世間知らずのピーナッツ畑の親父の代わりに、ハリウッドスターが大統領に就任したから。 ソ連に取っては悪夢でしたが。 東西冷戦でのパワーバランスを理解してない、カーター大統領が、同じ世間知らずの学者馬鹿ブレジンスキーの妄想に付き合って、アフガニスタンを見捨てた為、空白地帯を埋める為、ソ連は仕方なくアフガニスタンへ侵攻しました。 カーターはデタント!デタント! を合い言葉に、軍縮を進めCIAも切って行ったので、ソ連は対米国の経費が楽になっていたので気楽に侵攻しました。 ところが、ドナルド・レーガンが大統領になった事で、状況が激変。 レーガンはご存じパックスアメリカーナを合い言葉に、軍事力を拡大。 退役した、バトルシップまで復帰させてトマホークの発射台に仕立てて、ソ連を軍拡に誘い出しました。 日本列島まで不沈空母!と言わしめて。 実際 横須賀を第七艦隊CV-41空母ミッドウェーの母港にしましたから。 そのため、ソ連はすでに70年台経済破綻していたにも関わらず、レーガンの軍拡競争に付き合わなければならなくなり、アフガニスタンにかまってられなくなったのよ。

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ソ連ってなんでアフガニスタンに侵攻したんでしたっけ?石油とか...

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1979年、ソ連の政権が社会主義を掲げる親ソ派政権を支援するためににソ連軍を侵攻させたこと。 ソ連軍に対しイスラーム原理主義系のゲリラ組織は激しく抵抗、ソ連軍の駐留は10年に及んで泥沼化し、失敗した。 ソ連のアフガニスタン侵攻にアメリカなど西側諸国が反発し、70年代のが終わってといわれる対立に戻った。 これを機にソ連の権威が大きく揺らいで、ソ連崩壊の基点となった。 共産政権の維持。 アフガニスタンのアミン軍事政権が独裁化し、ソ連系の共産主義者排除を図ったことへの危機感をもった。 ソ連が直接介入に踏み切った口実は、1978年に締結した両国の善隣友好条約であり、またかつて(1968年)に介入したときに打ち出したであった。 イスラーム民族運動の抑圧。 同年、隣国イランでが勃発、イスラーム民族運動が活発になっており、イスラーム政権が成立すると、他のソ連邦内のイスラーム系諸民族にソ連からの離脱運動が強まる恐れがあった。 影響 アメリカ(大統領)は、ソ連の武力侵攻を批判し、経済制裁を発動するとともにアフガニスタンの反政府勢力に武器を提供した。 またアメリカは、西側諸国に対し1980年の モスクワ=オリンピックのボイコットを呼びかけ、などが同調した。 は調印されていたが、アメリカ議会が批准を否決し、実施されなかった。 次の政権はソ連を「悪の帝国」と述べて対決路線を復活させ、SDI構想を発表、米ソは「」期に入った。 アフガニスタン内戦 1979年12月、ソ連軍10万の大部隊がアフガニスタンに侵攻した。 当初は隣接する中央アジアのソビエト連邦構成国であるトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンなどが主力として投入された。 大義名分は共産主義政権を守ることであったが、その戦う相手は民族的にも近く、またソ連兵のなかにもイスラーム教徒が多かったから、初めから戦闘意欲は強くなく、次々とゲリラ側に寝返った。 そのため1982年ごろからはロシア兵が直接投入されるようになった。 アフガニスタン民衆はゲリラ戦で抵抗、政府およびソ連軍は点と線だけの支配しかできなかった。 ゲリラ兵は「ムジャヘディン(聖戦士)」と呼ばれ、当初は政府=ソ連軍の武器を奪って戦った。 1984年にアメリカ議会が武器援助法を可決してから、アメリカ製の武器が反政府ゲリラ側に支給されるようになった。 アメリカはアフガニスタンではイスラーム教徒ゲリラに武器を与え、ソ連軍と戦わせた。 やがてその中から反米に走るイスラーム過激派が成長するという皮肉な結果になっていく。 難民発生とアメリカによるゲリラ支援 この内戦中にアフガニスタンの全農村の約半分が廃墟と化し、200万人ちかくが死亡したと見られている。 全土で600万人、北西辺境州(パキスタン隣接地域)だけで270万人にのぼる難民が発生した。 ソ連の国力を消耗させるために、アフガン住民を「生かさず殺さず」戦争を継続させる戦略は誰の目にも明らかだった。 ペシャワール郊外には「ゲリラの訓練所」が設けられ、中国から大量に買いつけられた武器が続々と搬入された。 のちには地対空ミサイル「スティンガー」が供与され、犠牲をさらに拡大した。 だが米国は「アングレーズ(米英)」を宿敵とする根強い住民感情を承知しつつ武器援助をしたはずである。 当然、分離統治の原則が貫かれた。 <中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p. 89-90> アフガニスタンの現地で医療活動を続けていた中村哲医師は、200万人もの死者と多数の難民を出したこの状況は「あまりに遠い日本には、ついにこの状況は伝えられることがなかった。 ベトナム反戦でわいた日本の平和勢力も「アフガニスタン」については一般に無関心だった」と述懐している。 それはソ連による情報統制だけのせいではない。 ゲリラ勢力の勇壮な姿のみが大きく伝えられ「情報」が「売れる商品」と仕立てられる風潮があった、と指摘している。 1979年の意味 アフガニスタンに侵攻したソ連は、国際的な非難を浴びただけでなく、現地の激しい抵抗を受け、手詰まりとなり解決に苦慮することになる。 内政・外交に渡るソ連体制の硬直化が明らかとなり、80年代後半に改革が必須となる中でゴルバチョフが登場し、結局はにつながっていく。 しかも、ソ連軍に抵抗するゲリラ組織から,イスラーム原理主義集団が生まれ、後のなどイスラーム過激派のテロが世界を動かすこととなっていく。 この年の、中国のの改革開放政策、イギリスのによるの導入と並んで、1979年はあるひとつの時代が終わったことを示す転換点となったと言える。 Episode ブレジネフは知らなかったアフガニスタン侵攻決定 1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻決定は、その後のソ連の運命を決したことだけでなく、イスラム原理主義運動の世界的な活動の基点となった点でも、重大な決定であったが、その時点ではことの重大さは認識されていなかったようだ。 ソ連の介入決定は12月12日の政治局会議でなされたが、そのときすでには病気がちでアフガニスタンで何が起きているか知らず、まかせっきりであった。 実質は5名で決定された。 短期介入を主張したのは、アンドロポフKGB議長であり、軍のウスチノフ、グロムイコ外相が支持し、決定された。 しかし短期解決の見込みはもろくも崩れ、以後10年にわたる泥沼の戦いとなり、結局ソ連の命取りとなったのだった。 ゴルバチョフはこの時はまだ政治局員ではなかったので決定には関わっていなかった。 <下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』2002 講談社選書メチエ p. 199 による> ソ連軍の撤退 1979年の以来、の事態の収拾に失敗、長期化した駐留は当初の予測を裏切って10年に及び、その間、イスラーム勢力の激しい抵抗を受けると共に、国内の経済情勢の悪化をもたらした。 ソ連経済を圧迫し、またイスラーム原理主義ゲリラとの戦闘は犠牲者を増加させていった。 ソ連兵の死者1万5000人、負傷4万人以上とされるが正確には不明である。 ゲリラ側の死者は約60万と推定されている。 1985年に登場したは、に転換し、膠着した状況を打開することにつとめ、アフガニスタンの人民民主党カルマル議長を退陣させ、ナジブッラーを新たに政権に据えた。 1986年にはゴルバチョフはウラジオストックで演説して、アフガンからの8000名の兵力撤退を表明した。 ついで1988年に国連の仲介でジュネーブ和平協定の合意を得て完全撤退を決定し、5月から撤退を開始し、翌89年までに全部隊の撤退を完了させた。 アフガニスタン侵攻のもたらしたこと ソ連のアフガニスタン侵攻とその失敗は1991年のもたらしたのみならず、を精神的支柱にした新しい民族主義が台頭し、につながることとなった。 またアメリカにとっても、アメリカが援助した武器で武装したイスラーム反ソ勢力が、後はその武器で反米闘争を展開することになるのはアメリカにとって皮肉な結果であった。 このように、ソ連のアフガニスタン侵攻は、1990年代以降の現代史に向けての重要な転換点であった。 しかしアフガニスタンにおいては、ソ連軍の撤退は平和をもたらすことはなく、無秩序状態が深刻化して、部族対立が激化、パキスタン、イランなどの介入もあってが深刻化していった。 その中でイスラーム原理主義のが急速に台頭し権力を掌握することとなる。 しかしこのヘリコプターによる大規模空爆にも弱点があった。 標高5000mを超える山々が連なるアフガンでは、主要都市の標高も高く、カーブルでは1800mもある。 このため地上からの攻撃を避けるには3000m以上の高度を飛行したいところだったが、空気密度の関係でヘリコプターは低空飛行を余儀なくされた。 またアフガンの気候は一年の大半が乾期で、特有の砂嵐がヘリコプターの操縦を難しくしたり、計器類の故障をもたらしたりした。 ソ連の最新鋭ヘリコプターを持ち込んでも、アフガンの空を完全に自由にすることはできなかったことになる。 その一方で、戦闘の中盤からは、中東諸国や西側諸国からゲリラに対する武器援助が拡大し、射程距離の長い機関砲やミサイルが導入されることになった。 なかでもヘリコプターや航空機がエンジンから発する熱を追尾する米国製スティンガー・ミサイルをゲリラが入手したことで、ヘリコプターが相次いで撃墜され始めた。 ゲリラに渡ったミサイルは、ソ連軍にとって大きな脅威となり、ソ連軍によるアフガンの空の支配が崩れ始めたのである。 <渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p. 123-4> アフガニスタン難民のその後 1988年の「和平協定」成立、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退開始は、平和と同時に難民の帰還を実現させるであろうと大いに期待された。 難民キャンプをかかえるパキスタンのペシャワールにも世界中からジャーナリストが集まった。 しかし平和と難民帰還は完全な錯覚だった。 引用 難民帰還計画はあまりに性急であった。 実効よりは予算消化が急がれた。 国家の再建は元来UNDP(国連開発計画)の仕事であるが、「正式な交渉相手がいない」と見なされる中、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の手でいわゆるクロスボーダー・オペレーション(越境活動)が奨励され、欧米のNGO(非政府協力団体)が殺到した。 ソ連軍撤退以前に40をこえなかった難民援助団体は、1989年には200団体に上り、復興援助ラッシュが始まった。 例によって、大金と人材とたくみな机上論を手にしてのりこんできた口達者な連中が、はばをきかせはじめた。 人びとははぶりのよい機関にむらがり、山師的なプランが横行し、民心の荒廃に貢献した。 <中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p. 114> このような「援助」のまやかしを見抜いた現地の難民は、西欧系支援団体に疑惑の目を向け、動かなかった。 1989年2月にソ連軍の撤退は完了したが、世界の目はルーマニア政変などの、、へと移り、アフガニスタンと難民は再び忘れられた。 その間、ペシャワールでは難民とパキスタン人の間に亀裂が生じ始め、世界的にもムハンマドを揶揄した『悪魔の詩』出版に対するイスラーム教徒の反応を異常なものと捉えて恐怖心が高まっていた。 1990年に4月26日にはペシャワール市内で暴動が発生、アフガン難民1万人がイギリス系NGOを襲撃し略奪した。 このNGOは女性解放プロジェクトを掲げていたので他の欧米NGOはイスラーム教徒を非文明であると一斉に反発、各地でも衝突が起こった。 「女性解放」は西欧社会では理解されるテーマであったが、イスラーム社会ではそれを強制されることは「文化侵略」であると受けとられた。 アフガン難民救済から撤退を始めた団体が続出したが、とどめを刺したのが1991年の湾岸戦争勃発であった。 ユニセフ、UNHCR、UNOCA(国連アフガニスタン救援委員会)などのペシャワール事務所が次々と閉鎖された。 ようやくペシャワールのアフガニスタン難民が帰還を開始したのは、1992年4月の首都カブールの政変(親ソ派政府が倒れ、ゲリラ勢力による暫定政権が樹立された。 国名もアフガニスタン=イスラーム共和国に改められた)を受けて、パキスタン政府が18ヶ月以内の帰還勧告を行い補助金3000ルピー(約1万5千円)を難民証と引き替えに支給すると発表、難民は一斉に帰還を開始していった。 アフガニスタン内部でも戦闘を停止する動きが出て、帰還は順調に進んだ。 <中村哲『同上書』p.

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