いにしえ の ちょう こく。 天寿国繍帳

国宝「天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を見に行こう! | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

いにしえ の ちょう こく

当館も対象施設となります。 群馬県民の皆様どうぞ、この機会にご利用ください。 身分証明書運転免許証等ご持参を忘れずにお願いします。 詳しくは、下のバナーをクリックしてご確認ください。 「熱乃湯」営業再開予定 新型コロナウイルス感染症拡大防止対策として、4月15日 土 より営業を休止しておりました、熱乃湯「湯もみと踊り」ショーは、感染防止策を実施の上、5月22日 金 より営業を再開する予定です。 期間限定のスペシャルプランお電話のみでのご予約承ります。 3月限定で5名様以上の小グループの素泊まりのご利用で割引させていただきます。 お電話にてお問い合わせください。 お待ちしております。 是非お越し下さいませ。 老舗の旅館で、卒業旅行の想い出創り等にお役立てください。 電話:0279-88-3125 冬装備のご案内です 「12月からは、スタッドレスタイヤにタイヤを変えた方が良いのかどうか?」お問い合わせの件数が、増えます。 変えた方が、安心ですね。 北部山間部の温泉地には、雪山対策として、防寒具を身につけましょう。 も盛りだくさん! 是非お越し下さい。 当館一押しプラン情報・・・「大滝の湯優待券」無料プレゼント中 春休み限定、学生様ご歓迎いたします。 「大滝の湯優待券」を期間限定で無料プレゼント中です。 数に限りがございますので、お早めのご利用をお待ちしております。 プランの内容はをご覧ください。 番頭からの一言・・・リピーターのお客様、割引致します。 ご連絡ください。 美しい高山だけに咲く花、目立たない景観にアクセントを添えています。 草津温泉に入湯すれば、活力が沸いて来ます。 温泉の諸成分のミネラルが身体に浸透して、元気を回復します。 温泉とは、母なる地球のエネルギーそのものです。 女将からの一言・・・ 私共古久長旅館は町の中心にあります。 お部屋は全室和室の落ち着いた造りとなっていますので、ごゆっくりお寛ぎいただけます。 湯畑には近く夜の散策を楽しみながら、また湯畑のライトアップも幻想的です。 是非、歩いてみてはいかがでしょう。 フリーWi-Fi完備 電波障害等により、主にロビーでお使いいただけます。 ご予約は・・・ 「オンライン予約」ページのプランカレンダーからご予約可能となっております。 人数・日にちをご入力の上、ご利用可能プランを検索し、お申し込みください。 また、お電話でも承っておりますので、お気軽にご相談ください。 対象ブラウザ Chrome、FireFox、IE、Safari、各ブラウザの最新版 累計 今日 昨日 , All rights reserved. supported by HISI.

次の

天寿国繍帳

いにしえ の ちょう こく

タグ 大阪 城 大阪駅 留学生 伝統 生活 海外 歴史 兵庫観光 秋 兵庫 三重観光 冠婚葬祭 温泉 伝統品 梅田 ランチ 通天閣 うどん アメリカ村 ツアー 登山 博物館 京都駅 道頓堀 大阪交通情報 大阪デートスポット 京都の花火大会 梅田エリアの本屋さん グランフロント大阪 梅田映画館 梅田スカイビル 兵庫の花火大会 大阪の花火大会 奈良観光 紅葉 北浜 滋賀 スイーツ 寿司 和食 祇園 滋賀観光 花火 食 嵐山 世界遺産 大阪観光 観光スポット 京都観光 カフェ 京都 レストラン 抹茶 つけ麺 神社 奈良 関西 伝統工芸品 まとめ お正月 風習 お寺 焼き肉 日本 文化 マナー 日本語 ラーメン 三重 レジャー 目次• そもそも国鳥とは? 国鳥(こくちょう)とはその国のシンボル・代表とされる鳥の事です。 元々は鳥の保護活動の一環として、アメリカで初めて国鳥が制定されました。 国鳥の選定の基準は、その国の固有種を選ぶ、国民に人気のある鳥を選ぶなど基準が各国によって異なります。 日本の場合、国鳥を選ぶ基準が主に3つあります。 神話や昔話などで親しまれている鳥であること。 勇気と母性愛に富むこと。 日本の固有種であること。 日本では、1947年(昭和22)に日本鳥学会が日本の国鳥を定めました。 日本の国鳥は? 日本の固有種であり、勇気や母性愛に富み、神話や昔話などで親しまれていることから、 日本の国鳥はキジ(雉)になりました。 1947年の日本鳥学会第81回例会で選ばれました。 次の項では、日本の国鳥にキジが選ばれた詳しい理由や、キジの特徴についてご紹介していきます。 キジが国鳥に選ばれた理由は? ではなぜ、キジが国鳥に選ばれたのでしょうか? 日本の国鳥をキジと定めた日本鳥学会はその選定の理由を次のようにあげています。 緑色のキジは日本の特産である• 年間を通して見られる鳥である• メスは母性愛、オスは勇気に富んでいるとして知られている• 人の生活圏で見られ、身近な鳥である• 昔話などに登場し、子供にとってもなじみ深い鳥である 現在は、キジを日常的にみかけるという感覚は特に都市部ではありませんが、今から70年以上前の昭和22年にはキジは日本人にとって最も身近な存在だったのです。 キジとはどんな鳥?大きさや特徴など では、キジとはどんな鳥なのでしょうか。 学術的な分類は? キジ目キジ科キジ属に分類されます。 大きさは? オスが80㎝程度、メスが60㎝程度です。 大体ニワトリと同じ位の大きさです。 見た目の特徴は? 尾羽が長く、 オスは美しい緑色が特徴です。 一方 メスは茶色で目立たない色合いです。 私たちが童話の挿絵などからイメージするキジは、オスの姿だと言えます。 どこに住んでいる? 日本では、本州・四国・九州に広く生息しています。 また、河川敷や田畑、里山など、人里で生息が可能な鳥です。 鳥なのに・・・ 飛ぶのが苦手で、走るのが得意です。 空高く羽ばたいて遠くまで移動するのではなく、比較的低い位置で短距離移動するために飛ぶことがあります。 メスの母性愛ってどういうこと? キジが日本の国鳥に選ばれた理由に挙げられる 「母性愛」。 これは、メスは卵を産むと、ひながかえるまで、じっと動かずに卵を温め続ける姿から、母性愛があると言われるようになったと考えられています。 また、産卵の時には自らの体の色と似た色の土を探し、そこに身をひそめるようにして孵化(ふか)するまでの期間を過ごすことで、環境に対応して外敵から身を守ります。 ただし、このような行動はキジ特有のものではなく、鳥類全般に見られる特徴なのだとか。 キジの鳴き声は? 鳴き声が特徴的なのはオスのキジです。 最もよく聞かれるのが 「ケーン」という鳴き声。 また、繁殖期や威嚇の際には「ケンケン」と鳴くことも。 繁殖期以外は基本的におとなしい鳥ですが、ひとたび鳴くと、ボリュームが大きく、金属音のように響き、よく通るため、ときにうるさく感じられることもあるようです。 キジが登場する昔話は? キジが日本の国鳥に選定された理由の一つに、「神話や昔話に登場すること」があげられていましたね。 では具体的にはどのような昔話にキジが登場するのでしょうか。 『桃太郎』 日本で最もポピュラーな昔ばなしのひとつ、『』。 鬼退治に行く桃太郎にお供する動物として、 キジが登場します。 『雉女房』(きじにょうぼう) 貧しい若者が、ある日キジを助ける。 すると、その晩美しい娘がやってきて「お礼に機を織るので決してその姿を見ないでください」と言って…と、 『つる の恩返し』と同じような内容の昔ばなしです。 岩手県に伝わる民話として知られています。 『雉になった娘』(きじにょうぼう) お金持ちの殿様二人から言い寄られた美しい娘を、お金に目のくらんだおばあさんがむしろの下に隠すと、その娘は キジになってしまって…というお話。 山形県に伝わる民話です。 『雉も鳴かずば』(きじもなかずば) 自分がうかつに手毬唄(てまりうた)を歌ったばかりに、父親を人柱にされてしまった少女が鳴いたことで猟師に撃たれてしまったキジを見て、自らと重ね合わせて 「雉も啼かずば撃たれまいものを」と言ったという民話。 「雉も鳴かずば撃たれまい」という慣用表現は、今でも、余計なことを言って災いを招く、というたとえとして使われます。 万葉集(まんようしゅう)に登場するキジ3選 「」の出典として話題になった『万葉集』。 その中におさめられた歌にも、キジが登場するものがあります。 当時はキジ(雉)を 「きぎし」と呼んでいました。 ここでは、一般的な現代語訳をご紹介しますが、和歌の解釈は一つではありません。 気になるかたは調べてみてくださいね! 芭蕉以外にも、江戸時代中期に活躍した俳人・画家である与謝蕪村(よさぶそん)や江戸時代後期の俳人小林一茶(こばやしいっさ)の作品でもキジが取り上げられていることが知られています。 また、昭和の俳人・加藤楸邨(かとうしゅうそん)も「雉子の眸(ひとみ)の かうかうとして 売られけり」という作品を残しており、この作品は楸邨の代表作の一つとしても知られています。 キジにゆかりある日本語表現 日本語には、キジにまつわる表現がいくつかあります。 聞いたことのある表現、使ったことのある表現はあるでしょうか? けんもほろろ• 意味:取りつくしまもないように、冷淡に頼み事などを断られること この「けん」「ほろろ」はキジの鳴き声や、羽を激しくばたつかせて音を立てる様子のことです。 頭隠して尻隠さず• 意味:全部をすっかり隠したつもりになっているが、一部分を隠しただけのこと 外敵に追われたキジが、草むらに頭を突っ込んで隠れた気になっているけれど、実際は尾が丸見えの状態であることから生まれた表現です。 雉も鳴かずば撃たれまい• 意味:不用意なことを口にしたばっかりに、よくない事態をまねくこと 「昔ばなし」のところでご紹介した昔話が元となった表現です。 最後に・・・ 今回は日本の国鳥である「キジ」について紹介してきました。 都市部ではなかなか自然の中にいるのを見ることはできなくなったキジですが、今でも多くの動物園などで飼われています。 動物園に行った際には、国鳥であるキジを観察してみてくださいね! 最後までお読みいただきありがとうございました。 あわせて読みたい.

次の

=草津温泉 古久長旅館 |HOME

いにしえ の ちょう こく

繍帳残片(2点) 天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、のが所蔵する、()の染織工芸品。 天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。 銘文によれば、の死去を悼んで妃のが作らせたという。 「天寿国繍帳」とは「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意であり、「天寿国」とは、の住する西方浄土を指すものと考証されている。 古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦88. 8センチメートル、横82. 7センチメートルの額装仕立てとなっている。 このほかに断片2点が別途保存されている。 断片のみの現存であるが、飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、に指定されている。 制作の経緯と銘文 [ ] 本来は、繍帳自体に製作の事情を記した銘文が刺繍で表されていた。 現存する天寿国繍帳には4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍で表されているが、これらの文字は繍帳に表されていた銘文の一部である。 たとえば、現存の繍帳の左上にある亀形には「部間人公」の4字が見えるが、これは「孔部間人公主」という人名の一部である。 額装の繍帳とは別に保管されている残片2点のうちの1点も亀形であり、これを含めても現存する亀形は5個、文字数は20字にすぎないが、制作当初の繍帳には全部で100個の亀形が表され、その甲羅に計400文字が刺繍されていたと推定される。 この銘文の全文は『』に引用され、一部に誤脱があるものの、の考証によって400字の文章に復元されている。 以下に『天寿国繍帳』の銘文の原文を掲げる(『上宮聖徳法王帝説』に引用された銘文をもとに、飯田瑞穂が考証・校訂を加えたもの)。 銘文は繍帳の上では4文字ずつに区切って表されていたので、ここでも4文字ずつに区切って表記する。 太字の5か所(20文字)は現存する繍帳に残っている文字である。 斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥 己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥 己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為 后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己(3字目は草冠の下に左に「豕」、右に「生」 等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃 弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名 尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶 妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治 天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩 于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與 母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世 間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応 生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看(終わりから2字目は「はこがまえ」に「口」 ) 悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繍帷二張 画者東漢 末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻 (読み下しの例)銘文の前半部分(欽明天皇から聖徳太子、橘大女郎に至る系譜を記す)は割愛し、繍帳の制作経緯に係る内容が記された後半部分の読み下し文を掲げる。 歳(ほし)は辛巳に在(やど)る十二月廿一癸酉日入(にちにゅう)、孔部間人(あなほべのはしひと)母王崩ず。 明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩ず。 時に多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)、悲哀嘆息し、天皇の前に畏み白(もう)して曰く、之を啓(もう)すは恐(かしこ)しと雖も懐う心止使(とど)め難し。 我が大皇と母王と期するが如く従遊(しょうゆう)す。 痛酷比(たぐ)ひ无(な)し。 我が大王の告(の)る所、世間は虚假(こけ)、唯だ仏のみ是れ真なり、と。 其の法を玩味するに、謂(おも)えらく、我が大王は応(まさ)に天寿国の中に生まるるべし、と。 而るに彼の国の形、眼に看叵(みがた)き所なり。 悕(ねがは)くは図像に因り、大王往生之状(さま)を観むと欲す。 天皇之を聞き、悽然として告(の)りて曰く、一の我が子有り、啓(もう)す所誠に以て然りと為す、と。 諸(もろもろ)の采女等に勅し、繍帷二張(ぬいもののとばりふたはり)を造る。 画(えが)く者は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)、令(うなが)す者は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)なり。 (上記読み下し文の大意) 辛巳の年(29年・西暦)12月21日、聖徳太子の母・(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。 これを悲しみ嘆いた太子の妃・は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。 「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。 太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。 太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。 せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。 これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳を作らせた。 画者(図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)である。 銘文にある「天寿国」とは何を指すかについては古来さまざまな説があった が、阿弥陀仏の住する西方極楽浄土だという説が有力である。 は、飛鳥・奈良時代には阿弥陀浄土以外にも薬師浄土、弥勒浄土など複数の浄土への信仰があったことをふまえ、「天寿国」とは天界の寿命を生きられる国、すなわち弥勒の浄土である兜率天を指している可能性を指摘する。 伝来 [ ] 鎌倉時代の再発見 [ ] この繍帳はいつの頃からか所在不明になっていたが、古記録によれば、鎌倉時代の11年()、中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・により、の蔵から再発見された。 信如は、日本仏教における戒律の復興者として知られるの弟子・璋円の娘とされ、中世に荒廃していた中宮寺の再興に尽力した。 信如による天寿国繍帳再発見については、建治元年(1275年)定円が著した『太子曼荼羅講式』、の『聖誉鈔』(しょうよしょう)などに次のように記されている。 信如は、中宮寺の復興を志していたが、寺の開基である間人皇后の命日がわからず、それを何とかして知りたいと思っていた。 そうしたところ、文永10年()のある日、信如は夢告により、間人皇后の命日は、法隆寺の蔵にある曼荼羅に書かれていることを知った。 法隆寺の蔵の中を捜す機会はすぐには訪れなかったが、翌文永11年(1274年)、法隆寺綱封蔵(ごうふうぞう)に盗人が入り、蔵の中を改めた際に、件の曼荼羅を発見。 そこに刺繍された銘文を解読した結果、信如は間人皇后の命日は12月21日であると知ることができた。 そして、この太子ゆかりの曼荼羅と同じ図柄の模本を新たに作らせ、元年()に開眼供養を実施。 原本、模本ともに中宮寺の寺宝となったという。 信如による再発見の経緯である「寺の開基である間人皇后の命日がわからなかったから」というのは理由として不自然だという指摘は、すでに江戸時代の学者であるが述べている。 この点について、美術史家の大橋一章は、「間人皇后の命日については複数の説があったので、信如は直接原典に当たって正確な命日を知ろうとしたのではないか」「天寿国繍帳を再興中宮寺の目玉にしようとしたのではないか」と述べている。 文保本『聖徳太子伝記』によれば、2年()頃には、建治元年作の新曼荼羅は中宮寺金堂の柱間三間にわたって幕のように張り渡されていたという。 中宮寺旧境内の発掘調査の結果から、金堂の柱間は約2. 6メートルであり、「柱間三間」は約7. 8メートルとなる。 大橋一章は、この柱間寸法から考えて、横幅約4メートルの繍帳2帳を横方向につなげていたのではないかと想定し、当時は新繍帳が堂内に飾られ、太子ゆかりの旧繍帳は蔵に保管されていたのではないかと推定している。 近世以降 [ ] 新旧2つの繍帳ともに、数百年後には破損が進み、断片化していた。 『法隆寺記補忘集』(ほうりゅうじき ぶもうしゅう)によると、16年()の時点で、新旧繍帳ともにもはや原形をとどめておらず、50 - 60片の断片が保存されているのみであった。 12年()の『観古雑帖』によれば、年間( - )に残った断片群を寄せ集めて掛軸装とした。 30年()、に基づき「天寿国曼荼羅図刺繍掛幅 一幅 東漢末賢等画 采女等繍」の名称で当時の国宝(旧国宝)に指定された。 大正8年()、掛軸は額装に改められた。 同年、から断片2点が発見され、中宮寺に下賜された。 このうち1点は亀形、もう1点は座る人物3人を横並びに表したもので、いずれも鎌倉新繍帳の断片である。 これらの断片が正倉院に保管されていた理由は次のように推定されている。 明治11年()、法隆寺から皇室に献納されたいわゆるは、一時正倉院に保管されていたが、これを東京へ移送する際、手違いがあって、正倉院の唐櫃1合を東京に運んでしまい、逆に法隆寺の唐櫃1合は正倉院に残されたままとなった。 天寿国繍帳の断片はその唐櫃に含まれていたのではないかという。 この2点は10年()、別途「刺繍天寿国曼荼羅図断片 二点」として旧国宝に指定された。 昭和25年(1950年)8月29日、施行にともない、従前の旧国宝はとなった。 26年()付けで上述の「掛幅」と「断片」の2件の重要文化財を1件に統合し「天寿国繍帳残闕 一帳 附同残片二」(てんじゅこくしゅうちょうざんけつ 1ちょう つけたりどうざんぺん2)という名称であらためて重要文化財に指定され 、次いで昭和27年()付けで文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。 繍帳はガラス張りの厨子に納められ、長らく中宮寺本堂内に安置されていたが、保存の万全を期すため、昭和57年()からに寄託され、寺にはレプリカが置かれている。 技法と制作年代 [ ] 現状の額装繍帳は、上下3段、左右2列、計6枚の絹布を貼り合わせたもので、各絹布には飛鳥時代の原繍帳と鎌倉時代の新繍帳の断片が脈絡なく貼り付けられている。 ここでは説明の都合上、刺繍断片のある位置を「上段右」「下段左」のように表すこととする。 現状の繍帳を見ると、たとえば上段左の亀形や月(中に兎がみえる)、中段右や中段左の区画の人物群像の一部などは形の崩れがなく、刺繍糸の色も鮮やかに残っている。 これに対して、たとえば下段左の建物とその内部の人物を表した部分などは色糸がほつれ、褪色し、図柄が定かでない。 染織史家のらの調査によれば、前者の色彩鮮やかな部分が飛鳥時代の原繍帳の断片であり、後者、すなわち糸がほつれ褪色している部分が鎌倉時代の新繍帳の断片である。 刺繍が行われている台裂(だいぎれ)には、(絹糸を用いた綟り織の一種)、、(の絹)の3種がある。 このことを最初に指摘したのは明治・大正期の美術史家・(ただより)であり、昭和期に入って太田英蔵が下地裂と制作年代の関係、用いられている刺繍技法の種類などについて詳細な研究を発表した。 太田によれば、飛鳥時代と推定される、台裂に紫色の羅が用いられている部分では、人物の服装、蓮弁、銘文の漢字など、全てのモチーフは輪郭線を刺繍で表し、その内側を別色の糸で密に繍い詰めている。 糸は撚りが強く、中心部まで深く染められており、刺繍は返し繍という単純な技法(一針繍い進めると、少し後退した位置から針を布の表面に出し、また一針繍い進めては後退する、という作業を繰り返す繍い方)のみが使用されている。 撚りの強い糸を使い、単一の技法(この場合は返し繍)で密に繍い詰めるのは飛鳥時代刺繍の特色で、等のや、出土の刺繍にも同様の技法がみられる。 これに対し、宝物などにみられる奈良時代の刺繍は、撚りのない平糸を用い、刺繍も多種の技法を使い分けるのが特色である。 一方、鎌倉時代と推定される、台裂に綾または平絹を用いた部分には、平繍、繧繝刺(うんげんざし)、朱子刺、駒繍、文駒刺(あやこまさし)、束ね繍、長返し繍、纏い繍、表平繍いの9つの技法が用いられている。 さまざまな刺繍技法を駆使しているが、その分、糸が台裂から浮き上がる部分が多く、染料が糸の中心部までしみ込んでいないものが多い。 現存の繍帳には、文字の入った亀形が4つ残されている(別に保管される断片を含めれば5つ)。 このうち「部間人公」の4文字の入った亀形のみは色が鮮やかで、字画も細部まで鮮明であるのに対し、他の3つの亀形は形が崩れ、色もあせている。 これも、前者が飛鳥時代、後者が鎌倉時代の制作である。 以上のように、現存する天寿国繍帳の古い部分は聖徳太子(622年没)の没後まもない頃の制作とみなすのが通説となっているが、これには異説もある。 東野治之は、繍帳銘文は太子の没後かなり時間が経ってから作成されたものだとする。 その論拠の一つは、銘文中の天皇の呼称である。 銘文では推古天皇をトヨミケカシキヤヒメ(等已弥居加斯支移比弥)と呼称しているが、東野はこの呼称は推古に対する和風の諡号(しごう、贈り名)であって、この呼称の使用は推古の没した628年以降のものであるとする(これについては、「トヨミケカシキヤヒメ」は生前から用いられていた尊称だとする意見もある)。 今一つの論拠は銘文の文体・内容である。 東野によれば、繍帳銘文は橘大女郎と推古天皇の発言を直接話法で記すなど、一般的な造像銘の文体とは異なり、縁起文のような体裁をとっていることから、太子没後かなり時間が経ってからの作成であるという。 東野は、推古天皇の指示により東漢末賢(やまとのあやのまけん)らが制作した原繍帳の存在は否定しないが、現存の繍帳は法隆寺の焼失(670年)・再建に際して再制作されたものと位置づけ、「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」(天平19年・747年成立)に記載される天武天皇(在位673 - 686年)が寄進した「繍帳二張」が、現存の繍帳にあたるとしている。 図柄と復元案 [ ] 鎌倉時代の『聖徳太子伝記』や、新繍帳の開眼供養を行った僧定円の『太子曼荼羅講式』に、繍帳が完全に残っていた当時の図柄が説明されている。 それによると、繍帳の中心には「四重の宮殿」があり、上方には日と月、左右には鐘と磬(けい)があったという。 このうちの「月」は現存繍帳の上段左の区画に残っており、鐘と磬のうちの鐘は、下段右にある鐘撞き堂がそれにあたると推定される。 その他にも、元の図様を復元する手がかりになる断片がいくつか残されている。 下段左の区画には建物の上下にそれぞれ連珠文を表した水平の帯状区画がある。 この部分は繍帳全体を囲む外枠部分を構成していたものと推定される。 その上、中段左の区画の下部には4本の水平線と三角形からなる楽譜のような図柄が見えるが、これは天寿国(西方極楽浄土)の宝池を表すものと思われる。 その右方と右上方には大きな蓮弁の一部が見えるが、これはその大きさからみて、天寿国の主尊である阿弥陀仏の台座の一部であったものと推定されている。 繍帳の当初のデザインを復元する上で、鍵になるのは上段左の区画である。 ここには、パルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などが刺繍されているが、これらが刺繍されている台裂は切れ目なく一続きになっており、飛鳥時代の紫色羅である。 つまり、前述のパルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などは、制作当初の原繍帳においても現状と同じ配置になっていたことが確実である。 大橋一章は、以上のような手がかりを踏まえ、NHKの協力を得て、による再現繍帳を2001年に制作している。 その再現案によると、繍帳は縦約2メートル、横約4メートルのもの2帳で、うち1帳には天寿国に生まれ変わった聖徳太子像、他の1帳には阿弥陀如来像をそれぞれ中央に表し、周囲は羅地の上に蓮華化生(れんげけしょう、往生者が天寿国に生まれ変わる様を表したもの)、人物、鳳凰、飛雲、亀形などを配したものである。 人物の服装をみると、男女とも(あげくび)と呼ばれる丸い襟に筒袖の上着を着け、下半身には男子は、女子はを着けている。 また、男女とも(ひらみ、袴や裳の上に着けた短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。 繍帳にみられるパルメット文と同様の文様はにもみられ 、技法、意匠の両面から、原繍帳は飛鳥時代・7世紀の作であることが首肯される。 脚注 [ ]• 飯田 1965• ここでは(東野、2017)、pp. 31 - 32による。 飯田 1965• 大橋、谷口 2002• 谷口 大橋、谷口 2002)及び 松浦 東京国立博物館 2006 は蔵の『』巻第四十六のの3年()の奥書の中の「西方天寿国」を根拠の一つとしている。 これを最初に指摘したのはである。 しかし、この文字は、「无(無の略体)寿國」と読むべきではないかという異論も昭和13年から提起されており、またこの写経自体が20世紀初期の偽作であるという見解もあるので、根拠とはし難い(三井文庫 2004 p67 参照)。 (東野、2017)pp. 114 - 118• 大橋、谷口、pp47 - 50• 明治30年12月28日内務省告示第88号• 『週刊朝日百科』「日本の国宝4」p4-110、解説執筆は松本包夫• 大正10年4月30日文部省告示第353号• 重要文化財指定解除及び指定(昭和27年文化財保護委員会告示第13号)、昭和27年5月22日付け『官報』第7609号、403頁。 重要文化財の国宝指定(昭和27年文化財保護委員会告示第21号)、昭和27年10月16日付け『官報』号外第116号、9頁。 東京国立博物館、澤田、p18• 東京国立博物館、澤田、p10, 17• (東野、2017)pp. 109 - 113• 東京国立博物館、松浦、p14 参考文献 [ ]• 大橋一章、谷口雅一『隠された聖徳太子の世界 復元・幻の天寿国』、日本放送出版協会、2002• 大橋一章『斑鳩の寺』(日本の古寺美術15)、保育社、1989• 東京国立博物館編集・発行『国宝天寿国繍帳』、2006(解説執筆は松浦正昭、澤田むつ代)• 『週刊朝日百科』「日本の国宝4 法起寺 中宮寺 当麻寺 当麻寺奥院」、朝日新聞社、1997• 小山満『仏教図像の研究 : 図像と経典の関係を中心に』、早稲田大学リポジトリ、• 飯田瑞穂, 天寿国繍帳銘をめぐって, 古美術 11号, 1965年 11月,pp 39-49, 三彩社, 東京• 三井文庫, 三井文庫別館蔵品目録 敦煌写経ー北三井家ー, 2004年1月, 三井文庫, 東京• 東野治之『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書)、岩波書店、2017.

次の