法然とは。 法然

法然(ほうねん)上人の生涯と浄土宗の教え・親鸞聖人との違い

法然とは

法然上人絵伝 法然(ほうねん、2年() - 2年())は、末期から初期ののである。 はじめ山門()での教学を学び、5年()、専らの誓いを信じ「」と念仏を唱えれば、死後は平等にできるというの教えを説き、のちにの開祖と仰がれた。 法然はで、は 源空(げんくう)。 幼名を勢至丸。 通称は 黒谷上人・ 吉水上人とも。 諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。 号は、500年遠忌の行なわれた元年()以降、50年ごとにより加諡され、平成23年()現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師である。 『』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本におけるの元祖と称される。 浄土宗では、を高祖とし、法然を元祖と崇めている。 では、法然をの第七祖とし、 法然上人・ 源空上人と称し、元祖と位置付ける。 は、『』や『』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。 生涯 [ ] 生い立ちと出家・授戒 [ ] 2年()、久米(現在の)の・と、母・君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。 生誕地は、(出家したが建立したとされる)になっている。 『』(勅伝)などによれば、7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によってを断念し、の院主であった、母方の叔父の僧侶・のもとに引き取られた。 その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であったでの勉学を勧めた。 その後、2年() 、比叡山に登り、に師事した。 源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、3年()に同じく比叡山のの下でし、を戒師としてを受けた。 久安6年()、皇円のもとを辞し、比叡山に移り、を師として修行してを護持する生活を送ることになった。 「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。 したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。 法然は「智慧第一の法然房」と称され、元年()には京都黒谷を出て、()に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。 そして(京都市醍醐東大路町)、次いでに遊学し、、、の学僧らと談義した。 これに対して、『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。 その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。 また、法然の弟子のが著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師・法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。 浄土宗の開宗 [ ] 5年()43歳の時、の『』(『観経疏』)によって回心を体験し、を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。 そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。 すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした( 二祖対面)。 これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。 法然はこの地に草庵・白河禅房(現・)を設けたが、まもなくして弟弟子であるの叔父がいる西山広谷に足を延ばした。 法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・の南西の地)が、間もなくして東山にあった(吉水中房)に移り住んで、念仏の教えを広めることとした。 この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。 法然のもとには延暦寺のであった、、らが入門するなど次第に勢力を拡げた。 元年()、前年に焼失したの大勧進職に推挙されるが辞退し、を推挙した。 2年()、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧のが法然をに招請した。 そこで法然は浄土宗義について顕真、、、、、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。 これを「大原問答」と呼んでいる。 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。 なかでも重源は翌日には自らを「」と号して法然に師事した。 元年()、重源の依頼により再建中のに於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年()、専修念仏の徒となったの懇請を受けて『』を著した。 叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。 元年(1204年)、13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。 絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。 法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。 これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。 延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難 [ ] 詳細は「」を参照 元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。 しかし、元久2年()のの提出が原因のひとつとなって元年(1207年)、により念仏停止の断が下された。 念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇のの留守中に院のたちが法然門下でを能くする・のひらいた東山鹿ヶ谷草庵()でのに参加し、さらにしてとなったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮としたという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。 法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前としてに流される予定だったが配流途中、の庇護によりに流罪となった。 なお、親鸞はこのときに配流とされた。 讃岐配流と晩年 [ ] 讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の本島や西念寺(現・)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、の建てた由緒あるにも参詣している。 法然を偲ぶもに所在する。 法然上人廟所 (知恩院) 承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が(現)のに承元4年()3月21日まで滞在していた記録が残っている。 翌年の元年()には京に入り、吉水にもどった。 建暦2年(1212年)、京都東山大谷()で死去した。 80(満78歳没)。 なお、死の直前の1月23日には弟子のの願いに応じて、遺言書『』を記している。 廟所は現在のの法然上人御廟の場所に建てられた。 法然の門下には・・・・・・・・・・・(れんせい、)らがいる。 また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の・、関東武士の津戸(つのと)三郎為守 ・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子 ・ などがいる。 死後・嘉禄の法難 [ ] 詳細は「」を参照 法然の死後15年目の3年()、の圧力によって、、が流罪にされ、に廟所を破壊される事件が発生した。 そのため、とが中心となって(れんじょう、宇都宮頼綱)、 、、らとの武士たちが護衛して法然の遺骸をのに移送した。 更にによってがいたの境内の)に、更にの粟生にいるのに運び込んだ。 そして、法然の十七回忌でもある2年()1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨はなどに分骨された。 思想と教え [ ] 一般に、法然はの『』(かんぎょうしょ)によってによるを説いたとされている。 ここではの修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ、阿弥陀仏の本願力を堅く信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える(いぎょう)のみが正行とされた。 法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家のら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まった。 兼実の求めに応えて、その教義を記した著作が『』である。 日本仏教史上初めて、一般のにひろく布教をおこなったのも法然であり 、かれは国家権力との関係を断ちきり、の救済に専念する姿勢を示した。 自分を含めて万人の救済を追求した法然は「自力」の仏教を離れ「他力」の仏教に行き着いた。 それまでの仏教は万人が「仏」になる方法を示していなかったのであった。 ここで言う「」とはもちろん死者の意味ではなく、「真理を悟った人」の意味である。 仏教の目的は人が「仏」になることにある。 「真理を悟った人」とは、すべての存在を「ありのまま」に見る「智慧」を獲得し、あらゆる人に対し平等の「慈悲」を実践できる人ということができる。 法然の心をとらえたのは、このような「」や「」の獲得が、万人に開かれているのかどうか、という問題であった。 この問題に答えるために、法然が見いだした人間観こそ「」に他ならない。 「」とは、「」にとらわれた存在である。 片時も欲望から自由であることができない、欲望をコントロールできない存在である。 それが普通の人間である。 その普通の人間が欲望を持ったまま「仏」となる道が求められねばならない。 「凡夫」が「仏」となる教えも仏教にあるはずだ、と法然は考えた。 こうして発見されたのが、「の本願力によって救われてゆく」であり「」なのである。 専修念仏の提唱 [ ] 『選択本願念仏集』で法然は、各章ごとに善導や善導の師であるのことばを引用してから自らの見解を述べている。 法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行をを指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。 著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。 加えて、仏教を専修念仏を行うとそれ以外の行を行うに分け、を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。 また、はの世でも有効な行であることを説いている。 末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆく事でしか救われる道は望めない。 その根拠としては『』にあるの誓願を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となったを十方の諸仏も讃歎しているとある『』を示し、他の雑行は不要であるとしている。 もっとも、法然が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難ではあるが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除・否定することはなかった。 また、『無量寿経釈』では、『無量寿経』においては仏土往生のためにすべきことが説かれているが、専らに戒行を持していなくても念仏すれば往生が遂げられると主張している。 ただし、法然は持戒を排除したのではなく、持戒を実際に行うことは大変難しく、法然自身でもそれを貫くのは困難であると考えていたからこそ、自分も含めた凡夫が往生するためには無理な持戒よりも一心に念仏を唱えるべきであると唱えたのである。 それは、『無量寿経釈』においても分際に従って1つでも2つでも持戒をしている者が一心に念仏すれば必ず往生できると唱えていることからも分かる。 なお、法然自身による自分の持戒は不十分であるとする自覚とは反対に世間では法然を清浄持戒の人物と評価されていた。 が娘のの受戒のための戒師を決める際に、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして彼を招聘している(『玉葉』建久2年9月29日条)。 三心の信心 [ ] 法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。 これは『』に説かれていて、『選択集』・『黒谷上人語灯録』にもみられる語である。 「三心」とは「至誠心」(偽りのない心 )・「深心」(深く信ずる心)・「廻向発願心」(願往生心)のことである。 至誠(しじょう)心 真実の心のこと。 真実というのは、心空しくして外見をとりつくろう心のないこと。 深(じん)心 疑いなく深く信じること。 何を深く信じるかといえば、もろもろの煩悩にとりかこまれ、たくさんの罪をつくってこれという善根のない凡夫であっても、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、その名号をとなえて、思い立ってから臨終のときにいたるまで休みなく、或いは十声一声しかとなえることができなかったとしても、多くとなえても少なくしかとなえることができなかったとしても、弥陀の名号をとなえる人はかならず往生すると信じて、たとえ一度しかとなえなかったとしても、その往生を疑わない心を深心という。 廻向(えこう)発願心 自分が修めた行いをひたすら極楽にふりむけて、往生したいと願う心のこと。 三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。 三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。 このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、我々人はであるということをまず認識してその上で、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、の行に生涯打ち込むべきだとしている。 法脈と弟子 [ ] 法然 著作 [ ] ウィキソースに の原文があります。 『』 - (和語灯録・漢語灯録)• 『』(『選択念仏集』・『選択集』)• 『』 - 遺言• 『法然の手紙 愛といたわりの言葉』 - 書簡集(現代語訳、編訳、人文書院。。 ) 逸話 [ ] 菩提寺の大イチョウ [ ] 法然が9歳の時に、生家のある久米南町から菩提寺(勝田郡奈義町)へ向かう道中にふもとにある阿弥陀堂のイチョウの枝を杖にして登り、この枝を「学成れば根付けよ」と境内に挿したものが、現在の菩提寺の大イチョウになったと言われており、この大イチョウは国の天然記念物に指定されている。 平成25年にこれらの樹木のDNA鑑定を行い、同じイチョウであると立証されたが、菩提寺イチョウの方が阿弥陀堂のイチョウの方が樹齢は古いとされている 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 絹本著色、14世紀()の作、知恩院蔵。 法然から受けた『往生要集』の講義に感動した後白河法皇が、の名手・に法然の姿を描かせ、の宝物に納めた、と伝記の多くに引用される説話があり、本作品はこの説話を元に描かれた。 頭頂部が丸く描かれており、これは平たく描かれるいわゆる「法然頭」より先行した図様を示す。 しかしその慎重な運筆から、原本ではなく転写本だと推測される(ほか編集 『特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」』展図録、2011年、31,289頁)。 「慧光菩薩」…元暦4年(1188年)贈• 「華頂尊者」…嘉禎3年(1237年)贈• 「通明国師」…寛元2年(1244年)加諡• 「天下上人無極道心者」…永享12年(1440年)頃? 「光照大士」…天文8年(1539年)加諡• 「円光大師」…元禄10年(1697年)加諡• 「東漸大師」…正徳元年(1711年)加諡• 「慧成大師」…宝暦11年(1761年)加諡• 「弘覚大師」…文化8年(1811年)加諡• 「慈教大師」…文久元年(1861年)加諡• 「明照大師」…明治44年(1911年)加諡• 「和順大師」…昭和36年(1961年)加諡• 「法爾大師」…平成23年(2011年)加諡• 浄土真宗では、法然を「元祖」と称し、宗祖とされる親鸞を「宗祖」(「開祖」・開山)と称す。 異説には久安3年(1147年)• 承元の法難とそれに伴う法然の流罪はあくまでも、遵西・住蓮の事件に対する師匠としての責任を問われただけで、念仏禁止に関する議論はあったものの断には至らなかったとする見解もある。 詳細はの項目を参照のこと。 承元の法難の原因となったこの事件からも、法然の教団が女人救済に熱心に努めていたことがうかがえる。 松尾(1995)p. 一方、遵西・住蓮がこの時行った六時礼讃と呼ばれる方法は、法然が世間を誘惑するものであるとして批判し、『七箇条制誡』でも禁止を表明しており、法然本来の教えを無視して独自に動く門弟が現れていたとみる考えもある。 森(2013)p. 279-281・290-293• 後に出家し、証空に師事している。 宇都宮頼綱の実弟。 専修念仏の教えは浄土門のなかにとの論議を生んだ。 法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、親鸞は一念義の立場に立った。 石井(1974)pp. 429-430。 ただし、一念すればそれで充分であるという意味での一念義に対しては一貫して否定する見解を取り続けた。 森(2013)pp. 215-238・291-293。 一念義と多念義の論争に対しては、法然は二項対立に持って行く議論のあり方が間違っているという趣旨のことばを語っており、「常に仰せられたことば」の中に「一度の念仏、十度の念仏でさえ往生するといっても、心に雑念を巣くわせてとなえるならば、一見念仏行に精励しているごとく見えても、念仏の質には問題があろう。 またたえず念仏しているといっても、一念でも救われるという本願を疑いつつとなえているならば、その念仏行自体に問題がある。 であれば、一度の念仏によっても往生するのだと堅く信じて、この信心のうちに生涯念仏行に打ちこまねばならない。 」と語られている。 石丸(1991)pp. 229-230• 編訳 『法然の手紙 愛といたわりの言葉』には法然が武家の妻女や公家の妻女からの問いに答えた返書が5通と、手紙ではないが、室の津の遊女に教え諭したことばとして伝承された短い一文が収録されている。 法然は他宗の信徒に対して聖道門の修行を排除・否定することはなかったし、自分に師事する信徒にも「他宗の信徒に対して聖堂門の修行を否定したり、念仏を勧めたりしてはならない、また、言い争ってもならない」と諭している。 しかし、自分の信徒に対しては、「自分の往生のために念仏以外の修行を行うことはよろしくない」、とはっきり否定している。 ただし、「人々がひとつに団結してたがいに縁を結ぶために、お堂をたて、仏像をつくり、写経し、僧侶を供養することは念仏行を遠ざける悪因にはならないのでなさってください」と教えている。 石丸(1991)pp. 25-28 出典 [ ]• 浄土宗. 2010年5月24日閲覧。 松尾(1995)pp. 29-30• 2019年3月8日閲覧。 森(2013)p. 149-150• 松尾(1995)pp. 30-31• 425-431• 石丸(1991)pp. 20-44• 石丸(1991)pp. 46-75• 松尾(1995)p. 家永(1982)p. 128• 阿満(2007)pp. 274-275• 阿満(2007)pp. 274-276• 森(2013)p. 171-176・180-182・192-193• 森(2013)p. 204-207• 石上 2013 pp. 93-94• 石丸(1991)pp. 石丸(1991)pp. 石丸(1991)pp. 2019年2月27日 閲覧 参考文献 [ ]• 『日本の歴史7 鎌倉幕府』〈〉、1974年。 改版2004年• 『日本文化史(第二版)』〈〉、1982年3月。 『鎌倉新仏教の誕生』〈〉、1995年10月。 『日本社会の歴史 (中)』岩波書店〈岩波新書〉、1997年7月。 『摂関院政期思想史研究』思文閣出版、2013年1月。 第四章~第六章• 編訳 『法然の手紙 愛といたわりの言葉』人文書院、1991年6月。 (現代語訳法然書簡集)• 『選択本願念仏集 法然の教え』〈〉、2007年5月。 『法然の「問答集」を読む(上)』、2013年4月。 伝記と関連文献 [ ] 伝記 [ ]• 法然(、「」新装版)• 法然とその時代(田村圓澄、:法蔵選書)• 法然上人伝(、(上下)、2013年)• 念仏の聖者 法然 -日本の名僧7-(編、吉川弘文館、2004年)• 絵伝にみる法然上人の生涯(中井真孝、法蔵館、2011年)• 法然(、、1998年)• 法然入門(大橋俊雄、)• 法然と浄土宗教団 (大橋俊雄、)• 法然上人絵伝(大橋俊雄校注、「法然全集 別巻1・2」/改訂版:(上下)、2002年)• 法然の世紀 源平争乱の世に万民救済を説く(、浄土選書:浄土宗、2001年)• 『法然 宗祖法然上人800年大遠忌記念』(平凡社 〈別冊太陽 日本のこころ〉、2011年)。 図版本• 法然行伝(、、2011年)。 下記も収録• 黒谷夜話(中里介山、新版:浄土宗出版・文庫判、2010年)• 掬水譚-法然上人別伝(、新版:浄土宗出版・文庫判、2010年)• 法然と親鸞の信仰(、、新版2018年)• 法然と親鸞(、、2011年/、2016年)• 法然を読む -「選択本願念仏集」講義-(、新版・角川ソフィア文庫、2011年)• 選択本願念仏集 法然の教え(阿満利麿訳・解説、、2007年)• 法然の衝撃 -日本仏教のラディカル-(阿満利麿、、2005年/、オンデマンド版2003年)• 法然入門 (阿満利麿、ちくま新書、2011年)• 『 梅原猛著作集 第10巻 法然の哀しみ』 ()• 法然の哀しみ ( 全2巻、2004年)• 『 浄土仏教の思想 第8巻 法然』 (、)• 法然 十五歳の闇 (角川ソフィア文庫 全2巻、2006年)、上記新版• 『法然の「ゆるし」』(、梅原猛・町田宗鳳共著、2011年)。 図版本• 法然・愚に還る喜び(、〈〉、2010年)• 法然 -世紀末の革命者-(町田宗鳳、法蔵館)、長編書下し論考• 法然の涙(町田宗鳳、、2010年)、本作は書下ろし小説• あなたを救う「法然」のことば(町田宗鳳、角川文庫、2011年)• 法然対 -の宗教対決-(町田宗鳳、講談社選書メチエ) 関連文献 [ ]• 『法然全集』(全3巻、大橋俊雄訳注、、新装版2010年)• 『 10 法然 』(大橋俊雄校注、新版、 原典日本仏教の思想 5、岩波書店)• 『一百四十五箇条問答 法然が教えるはじめての仏教』(石上善應訳・解説、ちくま学芸文庫、2017年)• 『昭和新纂国訳 宗典部第3巻 浄土宗聖典』、(復刻版)• 『法然辞典』(、、、編、)• 『淨土宗大辞典』(全4巻:浄土宗大辞典刊行会発行、山喜房仏書林/新編全1巻、2016年)• 『浄土教の事典』(峰島旭雄監修、、2011年)• 『』 、、訳注(上・下:岩波文庫+ワイド版)• 『浄土三部経』 、、訳注(新版:、2002年) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 総本山• - 大本山• - 大本山• - 大本山• (知恩院以下、上掲の寺院をふくむ)• - 各地にある• - 大本山で墓所• - 撰• 戒を授けている• 門徒となる• 外部リンク [ ]• (郷土の偉人).

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法然院 京都通百科事典

法然とは

浄土宗をひらく(43歳まで) 善導大師への傾倒は伝統という厚い壁をやぶることでもあったので、強い抵抗を廃除しつつ漸次かためられていきました。 師の叡空との間に観仏と称名との優劣について行われたはげしい論難往復は、その一つのあらわれでした。 上人にとってこのような抵抗を廃除することよりも、称名による往生に関して自分のこころのなかに残って消えない疑いを、うちやぶることに懸命でした。 つまり上人のこころのなかは、称名によってかならず往生が得られるという確たる証拠を、人の上にこの眼でたしかめたい、直接善導大師にお会いして疑いをはらしたいという気持ちで一杯でありました。 あるとき上人は、西山連峯の吉峯の往生院に 高声 こうしょう 念仏の行者である遊蓮房 円照 えんしょう をたずね、その霊験に接するとともに、称名による往生を眼のあたりにみとどけることを得て、称名往生に確信をいだくことができました。 「浄土の法門と、遊蓮房とにあえることこそ、この世に生をうけた思い出である」と述懐された上人のこころは、このことを指しています。 善導大師に導かれて -「散善義」との出会い - さらにこれと平行して一方では、国をことにするばかりでなく、六百年のへだたりのある善導大師にお会いする道はただ一つ、 遺 のこ された著作に接し、熟読して疑いをはらすよりほか道のないことに気付かれました。 上人はあちら、こちらと宝蔵をかけめぐって、善導大師の著作をさがし求められました。 「ひろく諸宗の章疏を被覧し、叡岳になきところのものは、これを他山にたずね、かならず一見をとぐ。 黒谷の宝蔵に欠くところの 聖教 しょうぎょう をば書写したてまつりて、これを補う」ほどの人であったから、比叡山のどこにも見あたらなかった『 観経疏 かんぎょうしょ 』『散善義』を、かろうじて宇治の宝庫にさがしだし、これを一度ならず、二度、三度と読みかえすうちに、「こころのみだれたままで、ただ阿弥陀仏のみ名をとなえさえすれば、本願のみこころによって、かならず往生ができる」という確信をもつにいたりました。 ときまさに承安五年(1175)春、上人四十三歳のことでありました。 上人のこころのなかに成立した称名往生に関する確信によって、今までの疑いの雲はのこりなく晴れ、今までとはうってかわったこころの世界が展開するにいたりました。 この宗教的回心をさして浄土開宗というのです。 したがって浄土開宗とは、既成の他宗教団に対抗して新しく教団をうちたてようという組織的、計画的な意図によって行われたわけではないのです。 上人の心底は「ただ善導和尚のこころによって浄土宗をたつ。 和尚はまさしく弥陀の化身なり。 所立の義あおぐべし。 またく源空の今案にあらず」という一語につきるのです。 大原談義(43~53歳) その後、上人は一求道僧として誰からの束縛もうけずに、自由に称名念仏に打ち込むべく、三十年このかた住みなれた比叡の山をおりて、西山の広谷というところに居を占められましたが、しばらくして東山の吉水に住房をうつして、ここを根拠とされることになりました。 「われ聖教をみざる日なし。 木曾の冠者花洛に乱入のとき、ただ一日聖教をみざりき」と述懐されているように、嘉永二年(1183)、木曾義仲が京都に乱入した日以外は、称名念仏と聖教の読破にあけくれ、たまたま「たづねいたるものあれば浄土の法門をのべ、念仏の行をすすめる」という静かな生活を続けられていました。 大原談義 上人の日ぐらしはこのようでありましたが、その人格のひかりは暗夜のともしびのように、多くの群萌をひきつけ、その説く専修念仏の教えは各階層の人たちにうけいれられていきました。 このなか、とくに南都北嶺の僧たちの注視の眼は、文治二年(1186)の秋、五十四歳の上人をとらえました。 それは天台宗の 顕真 けんしん (1130~1192)が発起して上人の主張を聴取し、たがいに意見を交換しようとして、三論宗の明遍(1142~1224)、法相宗の 貞慶 じょうけい (1155~1213)、天台宗の証真や湛がく (たんがく) 、さらに嵯峨往生院の念仏房(1157~1251)、東大寺大勧進の俊乗房 重源 ちょうげん (1121~1206)らを洛北大原の里、勝林院に招じて会合を催しました。 世にこの会合を大原談義と呼んでいます。 ときに上人は居ならぶ各宗の碩学を前にして、諸宗の法門、修行の方軌、得脱の有様についてのべ、さらにこれに対して浄土の法門こそ現今、万人に適したただ一つの教え( 時機相応 じきそうおう の法門)であることを強調されたのです。 この主張は「教えをえらぶにあらず、機をはかろうなり」という上人のことばどおり、いくら教えの優秀さを誇っても、末法の今どき(時)、 人間 にんげん の 性 さが に翻弄されている自分自身(機)に堪え得ない教えであるならば、その教えは存在理由を失ってしまうというものでした。 成等正覚という深い宗教体験に輝きたもう大聖釈迦牟尼世尊が、すでにこの世を去りたもうて、その人格のひかりは時の経過とともに次第に消え去った現今(時=末法時)、そのひかりに包まれながら直接その教えを仰ぐことができない、いわば教えを乞う師大聖釈尊をもたない自分、しかも人間の性にふりまわされている自分(機=底下の凡夫)にとっては、ただひたすらに時機に適した教え、現在仏であり、しかもすべての 群萌 ぐんもう をもれなく救いとろうとなさる阿弥陀仏の本願のみこころのままに、そのみ名を南無阿弥陀仏と高声にとなえるよりほかに、出離生死の道はひらかれないという、上人ご自身の体験からにじみでた意見でありました。 上人のこの主張に対して共感をもっても、 反駁 はんばく すべき道理は微塵もなく、来聴者にふかい感銘を与えて、この会合の幕は閉じられました。 顕真や湛がくはただちに発起して、勝林院や来迎院で不断念仏を始めるという、予想だにしなかったもりあがりのある結果をみるにいたりました。 これこそ上人が「機根くらべには源空かちたり」という述懐を証してあまりあると言えましょう。 ともかく大原談義は一種の浄土開宗の宣言として、伝統の厚い壁の一画をうちくだいたことを意味するのです。 それは上人が比叡山をくだられて十二年目の出来事でありました。 その翌年、東大寺の復興に上人を動員せしめようとする後白河院の内命がくだされましたが、上人はかたく辞退して、その大勧進職に俊乗房重源が推挙されました。 かくして東大寺の復興は重源を大勧進に仰いで進められましたが、文治六年(1190)、上人五十七歳のとき、後白河院の命による重源の特請をうけた上人は、まだ半作りの東大寺大仏殿の軒下で、三日間にわたり浄土三部経を講説されることになりました。 ときに南都各宗の碩学や覆面した大衆は、自宗のことについて問いかけて、もしその解答にあやまりがあれば、恥をかかさんばかりの意気込みで会座につらなったので、会場には異常な緊張感がみなぎりました。 しかし上人はこともなげに、称名念仏こそ凡夫出離の最適の教えであることを、浄土三部経の講説をとおして披瀝 ひれき し、教えが時機に相応してこそ、教えは人に生き、人は教えによって生かされる所以を強調されたのです。 この講説はある意味で、南都の諸宗を相手とした浄土開宗の宣言でもありました。 今日伝えられている「浄土三部経釈」というのは、このときの講録です。 重源はこの翌年、上人に対して十箇条にわたる疑問を提出したので、上人はこれに解答をよせられました。 世にこれを『東大寺十問答』といっていますが、その記録は現在に伝わっています。

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「法然」の思想とは?その生涯や弟子の親鸞との違いも解説

法然とは

京都市の地図を表示 法然院(ほうねんいん)は、にある系の。 元は浄土宗であったが独立し、現在は単立宗教法人である。 正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号する。 別称には「本山獅子谷法然院」がある。 現在、寺の一部を定期的に講演会やコンサートなどを催す場として開放している。 歴史 [ ] 寺の起こりはにが弟子たちと共にを修した草庵に由来するという。 の8年()に、の第38世であるが法然ゆかりの地に道場を建てることを発願し、門弟のと共に再興したとされる。 元は浄土宗内の独立した一本山であったが、(28年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。 (昭和59年)に就任した現貫主は31世の(かじたしんしょう)。 父親の前貫主橋本峰雄は、教授を務めたである。 近くという立地も関係して、春秋の観光シーズンには大勢の参拝者がある。 境内 [ ]• 本堂 - 延宝9年()5月に客殿として建立された。 本尊は坐像であり、法然上人立像なども安置されている。 椿の庭• 方丈 - 4年()に、の皇女の御殿(4年()築)を移築したもの。 筆の襖絵はに指定されている。 方丈庭園 -。 名水として有名な「善気水」が湧き出している。 地蔵塔• 経蔵 - 2年()の建立。 講堂 - もとは7年()建立の大浴室だが、(昭和52年)に改装した。 十重の石塔• 白砂壇• 山門 - 茅葺で数奇屋造り。 の墓 文化財 [ ] 重要文化財 [ ]• 障壁画• 金地著色桐に竹図(方丈上の間)床間貼付3面、襖4面• 金地著色若松図(方丈上の間)違棚壁貼付3面• 金地著色槇に海棠図(方丈次の間)襖4面• 附: 金地著色松図 二曲屏風一双 所在地・アクセス [ ]• 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30• 京都市営バス急行100系統、法然院町バス停下車徒歩6分。 5系統・17系統・203系統・204系統、浄土寺バス停下車徒歩10分。 32系統、南田町バス停下車徒歩3分。 境内の拝観は無料であり、6:00から16:00の拝観時間には、自由に境内を参観できる。 通常は本堂等の建物内は非公開である。 建物内の有料一般公開が年2回行われる。 春の一般公開が4月1日から7日まで、秋の一般公開が11月1日から7日である。 その間は大学の古美術部などの学生ガイドが常駐する。 陶器や民芸品などの展示即売会などが行われることもあり、その際は庫裏の建物内に無料で入ることができる他、講堂は現在は貸しギャラリーとなっており、小規模な写真展や絵画展などの各種展覧会が入場無料で開催されることがある。 脚注 [ ] [].

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