足利義栄。 足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

足利義維(あしかが よしつな)とは

足利義栄

マイナー武将列伝・足利義栄 マイナー武将列伝・全国編 足利義栄 (改訂版) あしかが よしひで 生 没 年 1538〜1568 1540〜(生年両説あり) 主君・所属 足利将軍家 活躍の場など 室町幕府第14代将軍 (在位7ヶ月) 義勝。 従五位下左馬頭。 法号光徳院。 道号玉山。 室町幕府最後の将軍は、言わずとしれた第15代将軍足利義昭。 それは皆さんも既にご存じの事かと思います。 ちょっと、まった! 義輝が第13代将軍で義昭が第15代将軍なら、真ん中の第14代将軍はどうした? それが本編の足利義栄なのである。 足利幕府第11代将軍義澄の子義晴が第12代将軍。 義晴の子が義輝と義昭。 義栄は、義澄のもう一人の子(つまり義晴の弟)義維の子であり、彼もまた将軍家の一員である。 義栄は、義輝が暗殺されたあと篠原長房・三好康長らに擁され、第14代将軍なるべく画策する。 松永父子・三好三人衆とひとくくりで書いたが、 松永久秀と久通の父子、 三好長逸・三好政康・岩成友通の三人衆、 三好長慶の死後、宗家を継ぐ義継。 それぞれが同じ意思・目的を持っていた訳ではなく、同族が互いにそれぞれの思惑で 手を取ったり離れたりしていた様だ。 そのうえ、三好の一族はよく名前を変える。 誰がどう繋がって、どう反目したか? 人名図や相関図を眺めながら書物を読まないと行き詰ってしまいそうである。 織田信長は松永久秀が将軍殺したと評したが、手を下したのは子の久通であり、久秀がどう関与していたか否か? 論議は別れるが本題から外れるので割愛。 話を戻す。 足利幕府の将軍は第10代義稙、第11代義澄、第12代義晴、第13代義輝…と続く。 詳しく述べるならば…第10代義稙、第11代義澄、復職10代義稙、第12代義晴、第13代義輝… 義澄は復権をした義稙に将軍職を追われ近江に逃れる。 だが義稙はその後、管領細川高国の専横と相いれず退く。 義澄の子が義晴と義維。 義維は義稙の猶子となり将軍の後継を望み上洛を図った、将軍職は義晴が継いだ。 義維の子が義栄。 はじめ義勝と名乗る(義親とも伝わる)。 母は大内氏。 当初、阿波国で過ごす。 永禄8年 1565 5月、義輝が殺害される。 義栄は義輝の従弟であり将軍候補にも相応しい。 この時は未だ義栄ではなくて義勝と名乗っていた様だが、便宜上義栄に統一して記します。 篠原長房・三好康長に推されて上洛を試みる。 その後、覚慶は興福寺を脱出し義秋 のち義昭 と名を変え将軍候補に名乗りを上げる。 以降、便宜上足利義秋を足利義昭に統一。 義栄の動向。 永禄9年 1566年 6月、淡路国に渡海。 同9月には摂津国に入る。 (九月中頃…の次の行) 同廿三日に阿州公方様越水城へ御出候也。 同十二月に富田庄普門寺へ御座を被 レ替候也 (『細川両家記』 永禄9年9月の記載) (越水城は摂津国武庫郡、現兵庫県西宮市) 澤路備前入道来、伊曾與右衛門方より三好日向守返事到、 山科之公用、河州之公方へ渡申候云々、 (『言継卿記』廿七 永禄9年9月13日条) (澤路備前入道、伊曾與右衛門…共に不明。 三好日向守…三好長逸か。 ) 一昨日廿三日、夜半時分阿州公方攝州へ御着岸云々、 左馬頭入道殿御息、卅一才、同御十四才御三人云々 (『言継卿記』廿七 永禄9年9月25日条) どうも年齢が合わない様ではあるが… この時期、義維も存命であり、時期実際に堺公方・平島公方などの呼称がある様である。 とすれば阿州公方=義維で一緒に摂津に到着したのか? 左馬頭入道殿=義栄ともみえるが義栄が左馬頭に任官されたのは永禄10年。 まだ任官前だ。 阿州公方=左馬頭入道殿=義維なのだろか? 阿州公方=左馬頭入道殿=義維だとすると… 御息…つまり義維の子で31歳の義栄、もう一人14歳の三人。 義栄の生年には1538年と1540年の二説あるようだが、どちらも31歳にはみたない。 山科言継の誤りか?本当は生年もう少し早いのか? ともかく将軍跡継ぎレースは既に始まっており、対抗馬の義秋 後の義昭 は既に左馬頭に任官されていた。 永禄9年 1566 12月、従五位下に叙す。 永禄10年 1567 1月、左馬頭に任官。 同11月17日、将軍宣下を朝廷に願い出るも却下された模様。 (参照『晴右記』 活字化されてしない毛筆文書しかなく、くずし字を正確に読み取る自信がない為) (原文紹介は割愛させて頂きます。 ご容赦下さい。 ) この頃、名を義栄と改めた。 永禄11年 1568 2月、念願の征夷大将軍の宣下が下る。 自頭中将将軍宣下之一通到、 追上啓 将軍宣下事候、同可得其御意候也、 来八日可宣下事、可令参陣給、者依天気上啓如件、 二月二日 右中将重通 謹上 帥中納言殿、 (『言継卿記』廿九 永禄11年2月2日条) 以降、宣下の準備で慌ただしそうな気配の内容が『言継卿記』に続いている。 ともかく永禄11年 1568 2月 8日、義栄は摂津富田の普賢寺で征夷大将軍宣下をうけた。 だが、畿内は相変わらず騒々しい。 義栄自信も体に腫瘍ができたようで大きな活動ができず京には入れなかった。 そうこうしているうちに織田信長に担がれた足利義昭が入京して来た。 永禄11年 1568 10月18日、足利義昭に統一征夷大将軍宣下。 公家たちの関心も義栄から織田信長・足利義昭へ移ってしまい、義栄の動向が不鮮明になる。 義栄は病の悪化で亡くなってしまうのだが、その時期が定かでない定かではない。 あまり確かな文献が見当たらないので、多くの説ができてしまっている様だ。 亡くなった場所も定かではない。 諸説ある。 阿波に帰り亡くなったかもしれないし、摂津で病床のまま亡くなったのかもしれない。 当初、「三好軍とともに四国へ渡る途中、失意のうちに病死してしまう」と書いたが、 それも確実なものでもない様だ。 義栄が亡くなった為、将軍職が空席となり義昭に宣下が下ったものと考えていたが、 義栄が亡くなる前に将軍職を解任され、義昭に将軍職が渡ったとされる説もある様だ。 いずれにせよ、入京する事無くその任を終えた事になる様だ。 足利幕府後期の将軍はみな御所以外の地で死んでいる。 ところがそれ以上。 この将軍だけは一度も御所に足を踏み入れることなく、この世を去ったのだった。 「征夷大将軍をよくマイナー呼ばわりする事は憚られる事でもあるが、このシリーズの最初に手掛ける という事でご容赦…」というのが、初版の稿であるが… いずれにせよ、定かでない事が多い征夷大将軍である。 不明な点、新たな参考文献の入手が出来たら改訂してい来たます…という事でご容赦。 補足 松永久秀について「将軍を殺し・主家を滅ぼし・大仏を焼き」 人が成し得ない三つの行為を行ったと信長が評した逸話は 著名であるが、どうやら冤罪だという見方が出てきている。 参考文献 『群書系図部集』第二 (編:塙保己一刊 刊:続群書類従完成会) 『新訂増補 言継卿記』巻四 (著:山科言継 刊:続群書類従完成会) 『細川両家記』群書類従 第二十輯 合戦部 (編:塙保己一刊 刊:続群書類従完成会) 『晴右記』文科大学史誌叢書 (編:勧修寺晴右 刊:富山房) 『戦国人名辞典』コンパクト版 (編:阿部猛・西村圭子 刊:新人物往来社) 『戦国三好氏と篠原長房』中世武士選書 17 (著:若松町和三郎 :戎光祥出版) 『三好一族と織田信長』中世武士選書 31 (著:天野忠幸 刊:戎光祥出版) 『足利義昭と織田信長』中世武士選書 40 (著:久野雅司 刊:戎光祥出版) トップページへ戻る.

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足利義栄とは 知られざる室町幕府14代将軍

足利義栄

201X、遂に(実休)さんが星4で登場した上に、なんとさんまで登場しはるというサプライズがあってかんたんしました。 早とちり早とちり。 やーー遂に来ましたね実休さん。 これで三好四兄弟で星4未済は安宅冬康さんのみとなりました。 きっと凄い射撃手とかになっていつか登場してくれるはず。 さっそくガチャを引いてみました。 ……なかなか当たんねーなと思ったら星4倍率2倍じゃなかったんですね。 しまった。 皆さまお気を付けください。 とはいえ、運よく紹介状30枚ほどで目当ての2人が来てくれました。 さんの人相の悪さが凄いですね。 これでは衆の支持は得られそうにない……。 と思いきや。 お薬をお持ちになっていました。 どうやら体調悪いのに摂津に引っ張ってこられてしんどい模様です。 貴人に無理させちゃいけませんね。 一方の実休さんは。 やだ、やり手の若手経営者みたいで格好いい。 ちょんまげベストなのにに見えるのはさすがの貫禄ですね。 以下、少しだけお二人のことを書いてみることにいたします。 特性の三日月葉茶壷もまとまりのよい内容なので、バフ&兵器人材として活躍が見込めそうですね。 スキルの内容を踏まえれば、起死回生前提の強敵との戦いに向いてる感じでしょうか。 あるいは味方の与ダメージアップ系の特性を重ねたりしてみようかなあ。 育て方に迷ってしまいます。 単なるバッファー薬師なら三好康長さんの方がコストが低くて使いやすいし。 なんらかの役割に寄せて個性を出したいところだ……。 レギュラーで使いたいけど、我が陣営のバッファーはさんと岡部元信さんが鉄板過ぎて押しのけられそうにないんですよね。 準三好家としてさんをフル開眼兵器特化させるか迷っていまだ実行していないのと同じ悩みなんだよな……うーむ。 スキル名の「鑓場の怜謀」は、久米義広さんを討った鑓場の戦い由来なのでしょう。 実休さんは戦国時代でも数少ない 「主君を殺して」をやっちゃった方です。 さんやさんなんかもそういう系ですね。 実は大半のは「主君追放」で、「主君殺害」はけっこうレアなんですよ。 しかも実休さん、 主君の仇討ちにやってきた方たちを返り討ちにしてますからね。 それが鑓場の戦いなんですけど。 三好家界隈だとさんがダークヒーローのように扱われることがありますけど、 史実で一番ダークヒーローなのは間違いなくさんだと思います。 しかも、たいそう魅力的なんだよな。 なんせ戦が強い。 長慶さんより強いかもしれない。 201Xの実休さんは だなんてカマトトぶってますが、史実の実休さんは三好家の決戦兵器ですからね。 実休さんが海を越えてに上陸してくる=相手は死ぬですからね。 長慶さんがだとしたら実休さんはですからね。 遊佐長教さんや安見宗房さんやさんたら実休さんは阿波の黒渦そのものですからね。 こいつは素敵だ、全部台無しだってなものなのです。 しかも 派手に格好いい。 禅とかとかストイックにやっている 兄上とは違うぞ。 阿波めの振興やら瀬戸内交易やら河内利権分捕りやらで荒稼ぎ。 稼いだ銭は名物茶器やら名刀やらの収集につぎ込んでさんに一目置かれる。 三好宗三さん亡き後の代表的数寄者武人として堺に君臨していた方なのです。 ちなみにさんはさんのを参考にしていたんじゃねとも言われていますが(諸説あり)、風流面ではさんを参考にしていたんじゃねという節もあり。 三日月葉茶壷、 実休、 の蘇鉄と、実休さん由来の名物をやたら愛玩されていたことにも定評があるんですよ。 そういう訳で。 長慶さんと久秀さん主従も光と影みたいなスト味があって魅力的なんですが、 実休さんは一人で「光と影」を抱いてはる感じなのが格好いいのです。 yes、私の主観ですのでご留意ください。 「鑓場」が取り上げられたのが個人的に嬉しいんですよね。 大恩あるさんをなぜ殺めたのか、単なる権力奪取なのか、持隆さんが義冬さんを担ごうとしたからなのか、持隆さんが実休さんを危険視したので先手を打ったのか、あるいは1553年という時期的に持隆さんが義輝さん&晴元さんと組んだのか等々……。 史料のなさもあって、いずれも推測の域を出ない、大きな謎なのです。 もし持隆さんが蘇るような異聞が実装されたら……私は涙なしにはプレイできないぞ。 さん 忘れ去られた足利14代将軍。 下手したらの宮将軍よりもマイナーな将軍。 それがさんであります。 おおきくはと篠原長房さんに担ぎ上げられたけど京に入ることもないまま、さん・さん上洛時にタイミングよく病死した気の毒な人として知られていますね。 ガチャ説明文の 「背後の味方を超絶強化!」とは篠原長房さんのことなのでしょう。 ちなみに篠原長房さんにスキル発動すると篠原長房さんが星4仕様に変化しません。 本当に超絶強化でした。 でも背後の味方。 使いづらい。 劣化さんなのか、そうなのか。 この義栄さん、史実ではあまりにも活動期間が短すぎて評価は困難なのですが、最近は義栄幕府体制を築くべく独自の人事や利害調整を試みていたのでは等とフォローの声も出てきてはります。 また、「二つに分かれた足利家」という視点は、以後の史の流れを読み解く上で以前よりも注目されている気がします。 事績どうこうよりも気の毒っぷりの方がどうしても目立つ方ですけどね……。 201Xでも 等と哀しみを背負って出陣式に出ておられるのが涙を誘います。 お父君の義冬(義維)さんはあんなに元気だったのにね。 所属が足利家ということで、二つに分かれていないことが救いかもしれません。 以上、実休さんと義栄さんが星4実装されてわーいという記事でした。 だんだん三好家界隈の主要メンバーが揃ってきましたね。 異聞来ちゃう……? さいきんの201Xは「渡し」一家の中間管理職っぷりが敵ながらストレスたまってそうで心配になりませんか。 ここはいっちょう木沢長政さんが颯爽と登場して、虐げられている幽魔中下位層を扇動して山津見さんたちに叛旗を翻させるような現役武将置いてけぼりのワンダーなストーリーを期待したいところであります。 ていうのは冗談ですが、引き続き201Xが楽しくバージョンアップしていきますように。 trillion-3934p.

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日本史の部屋「足利義栄~阿波国で生まれた将軍」

足利義栄

足利義輝 足利義輝は、1536年(天文5年)に第12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)の嫡男として「東南禅寺」で誕生。 母は、「近衛尚通」(このえひさみち)の娘である御台所「慶寿院」で、足利義輝の幼名は「菊童丸」(きくどうまる)、初名は「義藤」(よしふじ)です。 生まれてすぐに外祖父である近衛尚通の猶子(ゆうし:兄弟の子を自分の子とすること)となりました。 足利家にとって将軍と御台所の間に男子が生まれたことは、「足利義尚」(あしかがよしひさ)以来だったため大変喜ばれます。 また、君主に代わり政治を摂る摂政関白の家柄出身の母を持ち、将軍家の男子となるのも菊童丸(義輝)が初めてでした。 一方で足利義輝が誕生した当時は、室町幕府と将軍の権威が地に落ちていた時。 1467年(応仁元年)に起きた「」の影響が、長きに渡り尾を引いていました。 第8代将軍だった足利義政以降、将軍の権威は停滞し、代わって実権を握っていた人物が管領の「細川晴元」(ほそかわはるもと)です。 管領は幕府において将軍の次に高い役職とされ、将軍を補佐して幕政を統括する役割を担う役職でした。 また幕臣の筆頭として足利将軍における、元服・就任・任官などの重要な儀式に参列し、行事も執行。 幕政の実権を握られていた足利義輝の父・足利義晴は、将軍の権威を復活させるため、細川晴元と争います。 しかし、足利義晴は戦をするたびに敗れ、近江国坂本(現在の)に逃れました。 足利義輝も戦いに従っており、足利義晴と共に京への復帰と坂本、朽木(現在の滋賀県)への脱出を何度も繰り返します。 なお代々将軍家の嫡男は、政所頭人であった伊勢氏の邸宅で育てられる習わしがありましたが、このような状況であったため、足利義輝は両親の元で育ちました。 1546年(天文15年)、足利義輝はわずか11歳で父から幕府の将軍職を譲られ、朝廷からも認められます。 父の足利義晴も11歳で元服、将軍宣下を行なっていました。 また、足利義晴には自身が健在であるうちに、実子である足利義輝へ将軍の地位を譲り後見したい考えがあったため、足利義輝は若くして家督を継ぐこととなります。 足利義輝の将軍任命式は、亡命先である近江坂本の日吉神社(現:)祠官「樹下成保」によって行なわれました。 幼名「菊童丸」から改め「義藤」と名乗ります。 1547年(天文16年)、足利義輝は後奈良天皇(ごならてんのう)に拝謁。 父の足利義晴は細川晴元と互いに権威争いで対立し、戦をするたびに近江国坂本に逃れていましたが、1548年(天文17年)、ついに足利義晴は細川晴元と和睦。 京に戻り、足利義輝が将軍職へ就任することを、細川晴元も承諾していました。 三好長慶 足利義晴と細川晴元との和睦で、幕府は安泰と思われた矢先のことです。 細川晴元の家臣で畿内に一大勢力を築きつつあった「三好長慶」(みよしながよし)が、細川晴元を裏切り、「細川氏綱」(ほそかわうじつな)の陣営について、事実上細川政権は崩壊して三好政権が成立。 細川晴元は、1549年(天文18年)に「江口の戦い」で三好長慶に敗れ、足利義晴と足利義輝はまたしても京都から近江国坂本へ退避することとなりました。 そのような戦況下の中、1550年(天文19年)、父の足利義晴が亡くなります。 足利義輝は父が建設を進めていた「中尾城」で、三好長慶の軍と対峙。 しかし、戦局が好転しないため、中尾城を自ら焼き払い、堅田(現在の滋賀県大津市)へ逃れます。 1551年(天文20年)には政所頭人である「伊勢貞親」(いせさだちか)が、足利義輝を強引に京都へ連れ戻し、三好方と和睦を図るよう執り計らいますが、失敗。 父の右腕的存在だった管領代「六角定頼」は、伊勢氏が失敗したことを知り、足利義輝に三好方から逃げるよう朽木への移住を勧め、足利義輝は朽木に移りました。 六角定頼の行為に反発した「伊勢貞孝」(いせさだたか:足利義晴に仕えていた人物)は、「進士賢光」(しんじたかみつ)ら奉公衆を連れ、京都に戻り三好方へ寝返ります。 1551年(天文20年)、足利義輝は京都の伊勢貞孝の屋敷に、三好長慶が訪問するという情報を得ました。 足利義輝は伊勢貞孝と共に帰京した、奉公衆の進士賢光を伊勢邸に潜入させ、三好長慶の暗殺を企てるも失敗。 進士賢光による暗殺は、三好長慶へ軽傷を負わせる程度で終わってしまい、のちに進士賢光は自害。 重ねて親長慶派であった、河内守護代の「遊佐長教」(ゆさながのり)が暗殺された事件も、足利義輝による犯行だったとされ、畿内に不穏な空気が漂います。 また、三好長慶に抵抗していた「三好政勝」(みよしまさかつ)や「香西元成」(こうざいもとなり)らを主力とする幕府軍が、京の奪回を図ろうと侵入しますが、戦国大名である「」(まつながひさひで)と弟の「松永長頼」(まつながながより)によって討ち破られてしまいました。 1552年(天文21年)1月、足利義輝は権威を取り戻すため、三好長慶と和睦し、京都へ戻ります。 伊勢氏が三好方へ寝返った要因となった、六角定頼が急逝したことで、和解の空気が生まれたことも影響しました。 その後、細川晴元は足利義輝と距離を置くために京都を脱出。 同年2月には、三好長慶が御供衆として幕臣の一員となり、三好長慶が推した「細川氏綱」(ほそかわうじつな)が京兆家を相続。 弟の「細川藤賢」(ほそかわふじかた)が分家の典厩家(てんきゅうけ)を相続することが認められました。 ところが、足利義輝の側近である奉公衆の「上野信孝」(うえののぶたか)が台頭し、和睦条件に反発する幕臣との確執が強まります。 特に足利義輝が伊勢貞孝らの反対を押し切り、山名氏や赤松氏の守護職を奪い、尼子晴久を8ヵ国守護に任じたことで状況は一変、幕府内に動揺が広がりました。 1553年(天文22年)閏1月、足利義輝の側近だった上野信孝ら奉公衆は、三好長慶を排除すべく細川晴元と通じます。 2月には、親三好派の伊勢貞孝が、上野信孝らの追放を諌言。 上野信孝らの追放に対し、長きにわたって足利義晴や足利義輝に従い、三好氏と戦ってきた「大舘晴光」(おおだちはるみつ)や「朽木稙綱」(くつきたねつな)も同調します。 その結果、同年3月、足利義輝自身が三好長慶との和約を破棄。 のちに東山の麓に築いた「霊山城」に入り、細川晴元と協力して三好長慶との戦いの火蓋を切ります。 まず、足利義輝は三好長慶が「芥川山城」(あくたがわやまじょう)を包囲する最中に細川晴元と連合し、入京することを目論みました。 しかし、三好長慶が芥川山城に抑えの兵を残して上洛すると、幕府軍が籠城していた霊山城が攻め落とされてしまいます。 足利義輝は、伯父の前関白である「近衛植家」(このえたねいえ)らと共に、「」、「」に仕えた武将である「朽木元綱」(くつきもとつな)を頼り、近江朽木谷(現在の滋賀県)に逃れました。 以降、近江朽木谷にて5年の時を過ごします。 足利義輝が近江で過ごしている間、三好長慶が将軍家につく者には、知行(ちぎょう:支給した土地)を没収するという通達を出したことから、足利義輝に付いていた者の多くが、次々と足利義輝を見捨て帰京してしまいました。 また、奉公衆でありながらも、三好氏の家臣に準じた立場として動く者も現れます。 1554年(天文23年)、17歳になった足利義輝は、初名の「義藤」から「義輝」へ名を改めました。 1558年(永禄元年)になると、足利義輝は「六角義賢」(ろっかくよしかた)に支援してもらい、細川晴元と共に坂本(現在の滋賀県)へ移ります。 幕府軍は如意ヶ嶽(現在の、東山に存在する山)に布陣し、三好長慶の従叔父「三好長逸」(みよしながやす)らの軍と北白川にて討ちあいました。 一時は、六角義賢の支援を受けていた足利義輝側が優位に立っていましたが、三好長慶の弟である「三好実休」(みよしじっきゅう)の反撃にあいます。 さらに六角義賢からの支援も打ち切りになったことから、戦況は思うように展開しませんでした。 1558年(永禄元年)11月、足利義輝は六角義賢の仲介によって、三好長慶との和議を成立させます。 実に5年ぶりとなる入洛が叶い、御所で直接的な幕政を再開しました。 同年12月には、叔父である近衛植家の娘を正室に迎えます。 和議を成立させた三好長慶ですが、なお権勢を高めました。 幕府の御相伴衆に加えられ、修理大夫への任官を推挙されると同時に、足利義輝の臣下として幕府機構に入ることとなったのです。 三好長慶は、足利義輝の権威に取り込まれる危険性や、長年対立した足利義輝との和解が困難であることを理解していました。 三好長慶の嫡男である「三好孫次郎」が、足利義輝から「義」の字を拝領し「三好義長」と名乗り、三好氏代々の官途である筑前守に任命されると、三好長慶は三好義長へ家督と芥川山城を譲ったのです。 三好氏の新たな当主となった三好義長と、足利義輝の間で新しい関係を築くことで、両氏の関係安定化を図ったとされ、三好長慶自身は足利義輝と一定の距離を保ちます。 また、三好長慶が御相伴衆になると同時に、嫡男の三好義長と重臣である松永久秀が、御供衆に任命されたのです。 1558年(永禄元年)足利義輝が帰京したのちも、三好長慶の権勢は続きました。 三好氏に反発していた「畠山高政」(はたけやまたかまさ)と六角義賢らが挙兵し、三好実休が討死すると、三好氏の衰退の兆しが見え始めます。 1562年(永禄5年)、三好長慶と手を結び幕政を支配していた伊勢貞孝が、三好長慶に反目。 足利義輝は三好長慶を支持して、伊勢貞孝を更迭し、新たに「摂津晴門」(せっつはるかど)を政所執事とします。 激怒した伊勢貞孝は反乱を起こしますが、三好長慶の手によって討たれました。 伊勢貞孝を討ったことで、第3代将軍の以来、将軍さえ介入不可能となっていた伊勢氏による政所支配の歴史は幕を閉じます。 そして、幕府将軍による政所掌握への道が開かれたのです。 1559年(永禄2年)に、足利義輝は大友義鎮を九州探題に任じ、九州の統治を委ねます。 九州探題は、元から足利一族の渋川氏が世襲していましたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれたことにより、お家断絶となっていたため補任としました。 1564年(永禄7年)、三好長慶が病死。 足利義輝は、三好長慶の死を機に、幕府権力の復活に向け、さらに政治活動を活発化させようとしました。 松永久秀 松永久秀の長男である「松永久通」(まつながひさみち)と「三好長逸」(みよしながやす)、「三好宗渭」(みよしそうい)、「岩城友通」らの三好三人衆は、「足利義植」(あしかがよしたね)の養子で足利義輝の叔父だった「足利義維」(あしかがよしつな)と手を組み、足利義維の嫡男、「足利義栄」(あしかがよしひで)を新しい将軍にと朝廷に掛け合います。 しかし、朝廷は耳を貸しませんでした。 1565年(永禄8年)5月、松永久通と三好三人衆は、主君である三好義継と共に、約1万の軍勢を率いて二条御所に押し寄せます。 将軍に要求があると嘘をつき、取次ぎを求めて御所へ侵入。 足利義輝は自らを振り回し、を抜いて必死に応戦しましたが、敵の刀で傷付き地面に伏せたところで一斉に襲い掛かられ、亡くなります。 足利義輝が亡くなった際、進士晴舎ら多くの奉公衆や、摂津晴門の嫡子である糸千代丸も共に、討死や自害。 また、足利義輝の生母、慶寿院や足利義輝側室の小侍従殿も殺害されました。 足利義輝の死によって、将軍の権威が再び落ちていきました。 また、足利義輝の死後、三好三人衆と三好義継、松永久秀の間で権力争いが勃発します。 畿内の争いによる混乱に目を付けたのが、織田信長でした。 織田信長は、足利義輝の弟で、唯一生き残っていた足利義昭を保護したことで、上洛の大義名分を得ます。 足利義昭もまた兄である足利義輝と同じく、将軍の権威復活を目指していました。 足利義輝が討死した1565年(永禄8年)から上洛をした1569年(永禄12年)の間、織田信長は足利義昭の上洛に協力し、足利義昭を第15代将軍へ就任させます。 しかし、1573年(元亀4年)に織田信長は天下を取るため、足利義昭を追放して、室町幕府は終わりを迎えました。 足利義輝と織田信長との間は直接的な関係はさほどありませんでしたが、足利義輝の死によって足利義昭を保護して大義名分を得たことからすれば、足利義輝が織田信長へ与えた影響は大きかったと言われています。 明智光秀 足利義輝とが、どのような間柄であったかについては、様々な説があります。 長良川の戦い後から越前国の朝倉義景に仕官するまでの放浪中、足利義輝に足軽として仕えていたという説や、足利義輝が将軍時に、幕府衆として近江田中城に籠城していたという説など、どれも確かなものではありません。 1565年(永禄8年)、室町幕府と足利家の再興を図っていた足利義輝は、対立していた三好三人衆らによる「永禄の変」で亡くなりました。 足利義輝の弟・足利義昭は、兄亡きあと将軍就任を目指し、当時、明智光秀が仕えていたと言われる朝倉義景を訪ねたのです。 しかし、朝倉義景は息子が急死したショックにより上洛できる状態ではありませんでした。 そこで明智光秀は、当時勢いのあった織田信長と足利義昭の交渉役を務め、 2人の間を取り持ったと言われています。 その後、足利義昭は織田信長に奉じられて上洛を果たし、無事に第15代将軍となりました。 また明智光秀は、この上洛に尽力するあたりから、足利義昭に仕えるようになったとされています。 このように、明智光秀と足利義輝のつながりを明らかにする史料は残っていませんが、足利義輝の弟・足利義昭と明智光秀には、歴史を動かす深い結び付きがありました。 鎌倉時代に備前国(びぜんのくに:現在の)を活動拠点にした刀工集団「」(ふくおかいちもんじは)の「基近」が鍛えた名刀が足利義輝の愛刀「基近造」(もとちかつくる)です。 平安時代に「」の御番鍛冶(ごばんかじ)を務めたことで知られる古備前派「則宗」(のりむね)が始祖で、(おさふね:現在の岡山県)の南隣に位置する福岡庄(現在の岡山県瀬戸内市)という地域で作刀していたことから、「福岡一文字」と呼ばれるようになりました。 広めで(ふんばり)が付いて高く、猪の首のように詰まった「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)が特徴と言える作風。 福岡一文字派に見られる鎌倉時代中期の豪壮な姿でありながら、の乱れが表裏ほとんど狂いなく同一であることに驚かされます。 「前田慶次」(別名:前田慶次郎・前田利益)は「関ヶ原の戦い」のあと、「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ったほど、主君に対して最後まで律儀であった戦国武将です。 小説や漫画にも取り上げられる「前田慶次」とは、どのような人物だったのでしょうか。 前田利家の弟の息子と言われる「前田慶次」ですが、彼の詳しい出生や功績を示す資料は少なく、「慶次」という名も、実は本名ではありません。 今なお謎が多い「前田慶次」ですが、前田利家を騙して水風呂へ入れた隙に、前田家を出奔したり、愛馬である「松風」を贅沢に装飾したりするなど、破天荒な逸話が多数あります。 ここでは様々な逸話から「傾奇者」(かぶきもの)と称されてきた、「前田慶次」にまつわる名言や逸話、家紋などをまとめました。

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