とうてい だい がく。 ひとり ZEN 寺: 【原文】正法眼蔵_弁道話_02

正法眼蔵 八大人覚

とうてい だい がく

【参考】方便品の題号についてはこちら 方便品自体がなんのか?方便品のタイトルの由来など、ご理解頂けたでしょうか? 続いて方便品の文章を読んでそのまま理解する為の 背景をご説明します。 Sponsored Links 妙法蓮華経方便品第二、始まりにおける背景 【文上の意味を理解する為の背景】 まず、方便品第二は 「 無問自説 むもんじせつ」からいきなり説き始まります。 無問自説とは、誰も質問しないのに、仏 みずから説き始めることをいいます。 経典の大多数は「四衆に 囲繞 いにょうせられ」と始まるように、説法時は四種類の衆生 発起衆 ほっきしゅ・ 影響衆 ようごうしゅ・ 当機衆 とうきしゅ・ 結縁衆 けちえんしゅ が 集 つどっています。 発起衆 ほっきしゅうは、仏に説法を要請、疑問、問答の発議をして、化導を促す衆生を指します。 当機衆 とうきしゅうは仏の説法を即時に理解する秀才。 結縁衆 けちえんしゅうはその時は理解できず、後に悟る衆生。 影響衆 ようごうしゅうは常に仏に従い、仏の言うことを証明していく実行部隊です。 仏の説法の大多数は発起衆からの質問に答える形式をとることから考えて、方便品第二はレアなケースであり、とても重要な内容がこれから説法されることを予感させるのです。 釈尊は妙法蓮華経 序品第一 じょぼんだいいちで 無量義処三昧 むりょうぎしょざんまいと呼ばれる 禅定 ぜんじょうの 瞑想 めいそうに入っていましたが、時が熟し瞑想から立ちあがり、突如、智慧第一と呼ばれた10大弟子の舎利弗に向かい、法門を説き始めます。 説きはじめ冒頭は諸仏の智慧を 讃嘆 さんたんするとともに、 声聞・ 縁覚 えんがくはまったくもって理解におよばないと、 二乗弾呵 にじょうだんかから入っていきます。 声聞・縁覚を合わせて二乗といいます。 また、二乗はこの法華経に時間軸として近づくほどに「二乗 永不成仏 ようふじょうぶつ」と言われ、徹底的に仏に嫌われます。 方便品の目的のひとつは 開三顕一 かいさんけんいち 三乗の境涯を開き、仏界を顕す にあります。 そのため、二乗の境涯を徹底的に 弾呵 だんかする背景があるのです。 それでは、これらの背景を頭の片隅におきつつ、早速経文本文を読んでいきましょう。 爾時世尊 経文本文: 爾時世尊 にじせそん。 書き下し文:そのときに 世尊 せそん 解説: 爾 その時の「時」とは、通常の時間と同じ意味ではありません。 時応機法 じおうきほうの四義のひとつを指します。 衆生の機根が仏の出現を渇望し、これに応じて仏が出現して説法する、その出会いの瞬間を『 爾 その時』というのです。 つまり声聞・縁覚の境涯が 機 機根 を熟したことに 応じていよいよ真実の 一仏乗の 法を説法しようという『 時』を指すのです。 世尊とは梵語の訳で、釈尊のことを指します。 通解:【二乗の境涯が機を熟し、機根が調い更なる説法を渇望したそのとき、釈尊は】 従三昧 安詳而起 経文本文: 従三昧 じゅうさんまい 安詳而起 あんじょうにき 書き下し文: 三昧 さんまい 従 より 安詳 あんじょうとして 起 たちて 解説:三昧は梵語サマーディの音写で、サマーディの意訳は『 定 じょう』『 正心行処 しょうしんぎょうしょ』つまりこれは、心を定めて諸法実相を思索する行です。 この三昧は、 序品第一で入っていた瞑想、 無量義処三昧を指します。 通解:【無量義処三昧より、ゆったり 厳 おごそかに起たれて】 告舎利弗 経文本文: 告舎利弗 ごうしゃりほつ 書き下し文:舎利弗に 告 つげたまわく 解説:対告衆の舎利弗は釈尊の十大弟子の第一人者で智慧第一と 謳 うたわれる天才です。 尊敬の的でもあった舎利弗が、無問自説からの突然の 弾呵 にあいます。 四十余年間の 爾前経 にぜんきょうとそこに基づく二乗の境涯は一仏乗に導く方便だった為、それらが方便であったことを知らせる為の手段として、最も賢い舎利弗を相手に二乗 弾呵を示していくのです。 通解:【釈尊の弟子で智慧第一と謳われて世間に尊敬されていた舎利弗に対して説きはじめます】 諸仏智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入 経文本文: 諸仏智慧 しょぶつちえ 甚深無量 じんじんむりょう 其智慧門 ごちえもん 難解難入 なんげなんにゅう 書き下し文:諸仏の智慧は甚深無量なり。 其 その 智慧 ちえの門は難解難入なり。 解説:天台大師の説明では、諸仏の智慧とは、仏の実智 仏界の智慧 を指すと説いています。 さらに、甚深とは縦に時間の深さを、無量とは横に空間の広大さを意味しています。 仏の実智とは、時間、空間をあまねく 網羅 もうらしきった智慧、という意味なのです。 そしてこの仏の実智が具体的にどんなものをいうのか、天台大師はさらに明快に述べています。 それは『一心の三智』であり、 一切智 いっさいち、 道種智 どうしゅち、 一切種智 いっさいしゅちの 不思議三智 ふしぎさんちを指しています。 一切智とは万物全ては無常を免れることはできないという 平等性の二乗の智慧を指します。 一切種智とは一切智、道種智どちらかに固執せず双方共に実相であるとの立場で 中道を理解する仏の智慧を指します。 其 その 智慧 ちえの門、の『智慧』は上記不思議三智を指し、『門』は仏の 権智 ごんち 九界の智慧 を指します。 権智があまりにも素晴らしく、 巧 たくみに説かれているから、いままでの権智に固執し、権智が実智への方便であることを理解しがたく、入りがたいと言っているのです。 通解:【諸仏の三智は、時間・空間を網羅し、深く、際限がない。 権智が巧みであった故、実智は 解 げしがたく入りがたいのである。 】 一切声聞 辟支仏 所不能知 経文本文: 一切声聞 いっさいしょうもん 辟支仏 ひゃくしぶつ 所不能知 しょふのうち 書き下し文:一切の声聞、辟支仏の知ること 能 あたわざる所なり。 解説:権智 九界の智慧 に特に固執しがちなのが、声聞、縁覚 =辟支仏 の二乗です。 四諦の法輪 したいのほうりん、 十二因縁 じゅうにいんねん、 爾前経 にぜんきょうのこれら九界の智慧も、実智へ導く方便であったことが受け入れられず、 自身の悟りに執着して離れるのが難しいのが二乗の典型的な特徴です。 通解:【この仏界の智慧は、いっさいの声聞、辟支仏の智慧をもってしては、とうてい 測 はかり知ることができないのである。 】 所以者何 仏曾親近 百千万億 無数諸仏 尽行諸仏 無量道法 勇猛精進 名称普聞 経文本文: 所以者何 しょいしゃが 仏曾親近 ぶつぞうしんごん 百千万億 ひゃくせんまんのく 無数諸仏 むしゅしょぶつ 尽行諸仏 じんぎょうしょぶつ 無量道法 むりょうどうほう 勇猛精進 ゆうみょうしょうじん 名称普聞 みょうしょうふもん 書き下し文: 所以 ゆえんは 何 いかんん。 仏 曾 かつて、百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称 普 あまねく聞こえたまえり。 解説:さらに声聞、辟支仏には理解できない理由を述べていきます。 『 所以 ゆえんは 何 いかんん』は、『その理由は何か?』という意味です。 諸仏の智慧は並大抵の修行で獲得できるものではなく、大変な修行と鍛錬によって得られるものであると、讃嘆し、その大変な修行と鍛錬が何かを説明します。 それは、百千万億、無数の諸仏に付き従い無量の仏道修行 道法 を勇猛果敢に精進して、その名声が広く世間に広まっていくほど真剣に行ったものだと、説明しているのです。 通解:【なぜかと言えば、仏はかつて無数の諸仏に従い無量の道法を勇猛精進した。 その名声は広く世間に広がるほど真剣な修行で、】 成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解 経文本文: 成就甚深 じょうじゅじんじん 未曾有法 みぞうほう 随宜所説 ずいぎしょせつ 意趣難解 いしゅなんげ 書き下し文: 甚深未曾有 じんじんみぞうの法を成就して、 宜 よろしきに 随 したがって説きたもう所、意趣 解 げし 難 がたし。 解説: 甚 はなはだ深く 未 いまだ 曾 かつて有ったことのない法、これは実智を指します。 この実智を成就して、衆生の機根に随って説法するのですが、前段からの無数の仏に尽くして無数の道法を名声とどろくまでに勇敢に実践しきった未曾有の実智、これが想像を絶する鍛錬だったからこそ、その仏の心は舎利弗などには到底理解できないのだ、と、二乗では判らない理由を述べています。 通解:【結果的に甚だ深く未だ曾てない実智を得て、機根に応じて説法した。 それほどの仏の心は、解りづらい。 故に到底二乗には解し難いのである。 】 文底からの読み直し ここまでの方便品の文上の意味は解りましたでしょうか? ここからは大聖人と末法の衆生の文底の立場での読み方を解説します。 まず文底の読み方には二つの意味があります。 それは、 所破 しょはと 借文 しゃくもんです。 所破とは文上の意味を 破折 はしゃくしながら読むことをいいます。 文上の意味はいうまでもなく釈尊の説法です。 釈尊の説法は現代の末法 大聖人と南無妙法蓮華経とご本尊が出現して以来 では役に立たないことから、その文上の意味を破折する意味をもって読むことをいうのです。 借文とは方便品の文そのものを借りて、対応する部分部分を大聖人と末法の衆生に置き換えて読むことをいいます。 大聖人の境涯と南無妙法蓮華経のご本尊の功徳をあらわす意味をもって読んでいきます。 それではしっかりと文上を破折しつつ、文底の意味を確認していきましょう。 爾時世尊 従三昧 安詳而起 文底の 時応機法 じおうきほうの『その時』とは、 末法の衆生の機根が、末法の救いを求める心に 応じて、その苦悩を救わんと大聖人が出現し、 南無妙法蓮華経を説法する『 時』を指します。 『世尊』は大聖人を指すのはいうまでもありません 借文の立場 が、文上の『世尊』は 法華迹門 ほっけしゃくもんの仏で、 始成正覚 しじょうしょうがくの釈尊を指します。 始成正覚の釈尊は現世に 縛 しばられており、 法勝人劣 ほっしょうにんれつの状態となります。 法が三世に渡っているのに、人が現世に縛られるている矛盾の状態です。 この状態で智慧は甚深無量であると言っても、説得力に値しないことから、 法華迹門の 始成正覚の仏を破折して読んで、 所破の立場で読経します。 『 三昧 さんまい』は大聖人が、宇宙の神羅万象の実相を思索する 様 さまを指します。 全宇宙の実相は南無妙法蓮華経の生命の思想、理法に帰納されており、時間軸で無始無終、空間的に無限、である旨の思索のことです。 安詳而起はそのまま借文します。 sokanet. php? 文底の諸仏の智慧とは、勿論、南無妙法蓮華経を指します。 文上では天台が不思議三智を仏の実智であると説明しましたが、これは、あらゆる智慧の原点となる究極的な智慧、という性質上、南無妙法蓮華経と言葉と違えた同義なるもの、と解釈します。 南無妙法蓮華経は善悪含めたあらゆる視点からのバランスと現実を舵取る智慧です。 したがって平等性も不平等性もすなわち不思議三智もすべて包含しています。 文底においての 其 その 智慧 ちえの門、の『智慧』は南無妙法蓮華経を指します。 では、『門』とはなんでしょう? 南無妙法蓮華経の究極の智慧と生命力を譲り受ける為の『門』、それは『信』の一字です。 智慧の次元があまりにも違いすぎて末法の衆生には全てを理解しきるのは困難です。 また現代は釈尊の経、天台の論、大聖人の御書を全て読み切り、思索を究めることはおおよそ不可能でしょう。 考えてもみてください。 江戸時代の農民は日の出と共に起き、日の入りと共に寝る、平均睡眠時間がとても長い時代です。 惰眠は厳禁と言われるくらい、『寝ることができる』時代です。 現代社会は競争の中の競争真っただ中です。 生きていく為には人よりも働き、評価されなければいけません。 時間軸でも24時間、誰かが働いている社会です。 睡眠不足が蔓延している為、『しっかり睡眠を確保しなさい』と言われる時代です。 このような時間がなく、情報過多な時代においては、思索と頭で南無妙法蓮華経を理解することはおおよそ不可能なのです。 したがってそんな末法と未来を見越していた大聖人は『 以信代慧 いしんたいえ』によって南無妙法蓮華経の全智を譲り受けられると、智慧を発揮できる方法論を示しました。 南無妙法蓮華経に縁することで、あらゆる経典の智慧に縁できる、あらゆる思想と因果、その中道に縁できる、現実と向き合っていく中であらゆる打開の智慧と生命力に縁していくことができる。 これら全ての起点となるのは、『信』なのです。 そしてこの信の一字を我が物とすることが最も、難解難入であると言っています。 つまり、文底においての其智慧門難解難入とは、南無妙法蓮華経の智慧と生命力を譲り受ける為の門は南無妙法蓮華経を信じることであり、この信じることそのものが、解しがたく入りがたい、と借文して読経します。 一切声聞 辟支仏 所不能知 釈尊の時代の声聞、辟支仏の二乗は、末法の現代においては、教師、研究者、評論家、官僚、マスコミ、芸術家など、いわゆるインテリを指します。 これらインテリ層は自身の得た学問、知識、また縁覚界としての世の中に対する直観から得た悟り、に絶対的自信を持っています。 文上においての意味で先ほどは実智へ導く為の権智であったのに、権智を真実と執着している旨を説明しましたが、末法においてもつまりはこの構図は同じなのです。 インテリ層の悟りは、南無妙法蓮華経 の悟り へ導く為のものです。 ところがその個人の悟りを真実と執着して離れるのが極めて困難なのが二乗なのです。 信じる為に読むのです。 知識階層ほど信じることが難しい事実を理解した上で、信じる為に。 そもそも最上位の智慧のある人間は、知識の累積が 空 むなしい真実を知っています。 東日本大震災の津波と原発、人間の力で自然を懐柔しようという発想の傲慢さが、人災を生みます。 自然に対する畏敬の念があれば、知識と科学で懐柔しようとはならないはずです。 宇宙の科学を全て知ったところで、おおよそ人間一個の幸福とは直結しない真実を知るべきです。 sokanet. php? 究極の二乗 インテリ層 とは、南無妙法蓮華経を信じ、菩薩界仏界の大境涯を開き、自他共の幸福の為に存分に知識を発揮していく人生を実践できる人です。 これらを自身の生命に確認させる為に借文して読経します。 所以者何 仏曾親近 百千万億 無数諸仏 尽行諸仏 無量道法 勇猛精進 名称普聞 成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解 長いですが、ここは長いままの方が理解しやすいので、この区切りで説明させて頂きます。 まず、文底のおいての未曾有の法とはなんでしょうか? 勿論、南無妙法蓮華経です。 この部分、文底においては逆転の発想で考えます。 どういうことか? 『百千万億の無数の諸仏に付き従い無量の道法を勇猛精進して得た未曾有の法』、これが南無妙法蓮華経ならば、つまり、南無妙法蓮華経は、『百千万億の無数の諸仏を生み出し、無数の諸仏を従わせ、親近させ、無量の道法さえ根本の智慧から応用して生み出した』ということになります。 無数の仏を生み出した思想の根源は南無妙法蓮華経ということなのです。 このロジックで当てはめて文底を読んでいくならば、 二乗には到底理解できない理由 所以者何 は、南無妙法蓮華経 未曾有法 が、無数の仏、無量の道法を生み出し 仏曾親近~成就甚深 てきた根源であるということが信じ難いからであり、根源である南無妙法蓮華経を基に衆生の機根に応じて権智を説いてきた 随宜所説 その心は、極めて理解し難い 意趣難解 のである。 と、いう意味になります。 これは、実はとてつもないことを言っています。 南無妙法蓮華経は諸仏を生み出した根源。 これは、南無妙法蓮華経のご本尊を受持した私たちの側から見れば、日々の勤行による唱題行で、南無妙法蓮華経を唱えることで、 百千万億の無数の諸仏に親近し、無量の道法を行じていることになるから、です。 歴劫修行 りゃっこうしゅぎょう をご存知でしょうか? 歴劫修行は、成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること、を言います。 一生を布施行で修行し、つぎの一生でまた布施行、さらに次の一生では持戒の修行…etc. 何度も生まれ変わりいくつもの 劫をかけて修行します。 まさに 歴劫修行とは、南無妙法蓮華経の智慧を手に入れる為の修行なのです。 先の『日々の勤行による唱題行で、南無妙法蓮華経を唱えることで、百千万億の無数の諸仏に親近し、無量の道法を行じていることになる』 というのは、根源の実智を基に、それぞれに応じた道法を無限に使いこなすことを意味します。 これを、 歴劫修行とは対極にある、 直達正観 じきたつしょうかん といいます。 御本仏日蓮大聖人は久遠元初以来、仏を生み出す根源法の南無妙法蓮華経を用いており、 余行 歴劫修行を交えず仏界を開きました。 地涌の菩薩である凡夫の私たちも、南無妙法蓮華経の唱題で、そのまま仏界を開き、無数の智慧を湧現させる様は、南無妙法蓮華経に含まれているからこそ、まさに数々の 歴劫修行を修めてきたとも言えるし、これから新たに精進していく意味も兼ね備えています。 sokanet. php? sokanet. php? 直達正観の立場で掘り下げる 直達正観の立場で『勇猛精進 名称普聞 成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解』の部分をさらに詳細に読むと、文底の理解がしやすくなります。 勇猛精進は、シンプルにご本尊を信じ、唱題行に精進することです。 しかしシンプルすぎる故に、最も簡単でもあり、最も究めるのが困難でもあります。 勿論、いい加減にやっても価値がありません。 『勇猛』には信力を励み尽くす意味があり、『精進』には余行を交えず唱題し続ける姿勢、『名称普聞』には勇猛精進に唱題に励む地涌の菩薩の魂を、三世十方の梵天、帝釈、日天、月天、無数の菩薩、諸天善神に轟かせて護らせ、功徳を受けきり自由自在の大境涯を開いていくことを意味します。 『随宜所説 意趣難解』には地獄から菩薩まで機根の如何に関わらず、ただ信心して南無妙法蓮華経を唱えることが、歴劫修行の包含であり、直達正観の無数の智慧と生命力を湧現する、最も人生を最善に導く直道であることが、末法の悪道に汚れた生命には、なかなか解りづらい、 という風に読んでいきます。 sokanet. php? 法が低ければ長期の修行を必要とし、法が深く、高ければ、さらに仏が偉大であればあるほど、修行も簡単に、かつ短くなります。 先生と教材で考えれば簡単です。 いい先生に、最高の教材で教われば、短期で、本人もストレスなく、圧倒的な成果が出ます。 簡単で狭い修行のように見えて、実はゴールのない奥深い修行である旨を四条金吾に述べた御書があります。 sokanet. php? 信心は主体性を持って人生の目標ひとつひとつを打開していく楽しさがあります。 末法の衆生には『南無妙法蓮華経を唱えることが、歴劫修行の包含であり、直達正観の無数の智慧と生命力を湧現する、最も人生を最善に導く直道である』ということが、意趣難解である……、本当にそうですね。

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代数学(だいすうがく)とは

とうてい だい がく

幾何学、解析学と並ぶ数学の大きな分野の一つで、数の四則のような演算が定義された集合をおもな研究対象にしている。 より正確にいえば次のようになる。 有限個の二項演算が定義されている集合を代数系という。 現代の代数学は、ひとことでいえば、代数系を研究する数学である。 とくに重要な代数系として、群、環、体、リー環があり、それぞれに独自の理論ができているが、相互の代数系を関係づけた研究もなされ、また、他の数学の分野への応用も考えられてきている。 [菅野恒雄] 群論整数全体の集合Zでは、数の足し算と引き算の二つの二項演算ができる。 一方0以外の有理数全体の集合Q xでは、数の掛け算と割り算ができる。 これら二つの代数系Z、Q xは集合としても違うし、その二項演算もまったく異なるが共通の性質をもっている。 それが群という考え方である。 さて、群をこのように定義すると、Z、Q xのような数の群以外の群があることがわかる。 たとえば、Mを空でない集合とし、P M をMからMの上への一対一写像全体とする。 この群P M をMの変換群といい、P M の元をMの置換という。 Snはn! 個の元からなっている。 一般に元の個数が有限である群を有限群というが、対称群Snは有限群論でとくに重要な役をする。 この群GL M は、線形空間の次元をnとすると、n次正方行列で行列式が0でないもの全体のつくる乗法群と本質的に同じで、線形空間Mの自己同形群という。 置換群は、Mの元が3個以上なら可換群ではないが、幾何学などと関連が深い。 [菅野恒雄] 環論整数全体Zは、足し算、引き算のほかに掛け算もできる。 を満たすとき、Aを環という。 環は、足し算、引き算、掛け算の三つの二項演算をもつ代数系である。 Zや多項式全体C[X]は可換環である。 このように、環でもあり線形空間でもあるAが(9)を満たすとき、Aを多元環という。 環を研究する数学が環論である。 とくに可換環と多元環は古くから研究されている。 [菅野恒雄] 体論有理数全体Qは、足し算、引き算、掛け算ができて、可換環であるが、さらに0以外の元による割り算ができる。 このように集合Kが (10)Kは加法と乗法で可換環である。 (11)Kの0以外の元全体K xは乗法で群である。 を満たすとき、Kを体という。 Qと同様に、実数全体R、複素数全体Cは体であるが、Zは体でない環である。 条件(11)でK xが可換群になるとき、Kを可換体という。 可換体でない体を非可換体といい、可換体を単に体ということもある。 QはCに含まれる最小の体であるが、QとCの間に無数の体がある。 このような体を数体という。 代数的数全体 はQとCの間にある体で、 を研究する数学が整数論である。 これが、現代代数学の一つの頂点であるガロアの定理である。 代数的数でない数を超越数という。 数体Kが超越数を含むとき、KをQの超越拡大体という。 この種の体は、代数多様体の関数体として現れ、代数幾何学で重要である。 群と多様体の結合概念にリー群といわれるものがあるが、この群の単位元での接空間は自然な方法でリー環になる。 このように、リー環は多様体と結び付き、重要である。 [菅野恒雄] 代数学の歴史数を記号で表すことが代数学の始まりなら、それは紀元前インド、アラビア、エジプトなどで行われていた。 16世紀ヨーロッパで記号法が完成し、すでに得られていた一次方程式、二次方程式に次いで、カルダーノの三次方程式、フェラリの四次方程式の解法の発見がある。 その後、五次以上の方程式の代数的解法の研究がなされたが、19世紀に入り、アーベル、ガロアらによって、次数が五以上の代数方程式は一般には代数的に解けないことが証明された。 この根拠に、いわゆるガロアの理論がある。 この理論の整理とフェルマーの問題などの研究が契機となり、群、環、体の基礎理論が確立された。 また、角の三等分など、古い幾何学の問題が代数の理論で証明されるなど、幾何学、解析学に応用される一方、公理を用いたさまざまな代数系が考え出され、今日の抽象代数学ができあがった。

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ひとり ZEN 寺: 【原文】正法眼蔵_弁道話_02

とうてい だい がく

正法眼蔵 八大人覚 多欲の人は苦悩もまた多し 諸佛はこれ大人なり。 大人の覚知(かくち)するところ、所依に八大人覚(はちだいにんがく)と称するなり。 此の法を覚知するは、涅槃(ねはん)の因(いん)たり。 我が本師釈迦牟尼佛、入涅槃の夜、最後の所説なり。 玉簾の滝 八幡町 「八大人覚」とは、お釈迦さまのご遺言ともいうべき最後に説かれた遺教経の根幹であり、最高最大の幸福であり涅槃に入る八つの仏則のことです。 八つの仏則とは、少欲、知足、寂静を楽しむ。 勤めて精進する。 不妄念、禅定を修す、智慧を修む、 不戯論のことです。 この遺教経は昔から非常に大切なお経とされています。 八大人覚の最後には 「如今、建長七年乙卯解制の前日、義演書記をして書写し畢(おわ)り同じく之を一校せしむ、右本は先師最後御病中の御草なり、・・・若し先師を恋慕し奉る人は必ず此の巻を書して之れを護持すべし。 此れ釈尊最後の教勅にして、且つ先師最後の遺教なり。 懐奘(えじょう)之を記す」と懷弉禅師(えじょうぜんじ)の註がついているように、お釈迦さま入涅槃の夜の最後の教えであり、また、道元禅師最後の垂誡であることが記されています。 道元禅師はこの八大人覚で 「如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。 これを修習せず、しらざらんは仏弟子にあらず。 」とまで仰せられます。 本文冒頭には「諸仏はこれ大人なり」とありますが、八大人覚とは読んで字の如く、大人として悟り知るべき八つのことという意味で、生きるということの最善目標として示されています。 こういう狙いで八大人覚を学んでみたいと思います。 一つには少欲。 かの未得の五欲の法のなかにおいて、広く追求(ついぐ)せず。 名づけて少欲となす。 佛のたまはく。 汝等比丘(なんだちびく)、まさに知るべし。 多欲の人は多く利を求むるが故に、苦悩もまた多し。 少欲の人は求めなく欲なければ、則ちこの患(うれい)なし。 直ちに少欲すら、なほまさに修習すべし。 いかにいはんや少欲のよく諸の功徳を生づるをや。 少欲の人は則ち、謡曲(でんごく)して以て人の意を求むることなし。 またまた諸根のために牽かれず。 少欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として憂畏(うい)するところなし。 事に触れて余りあり。 常に足らざることなし。 少欲ある者は即ち涅槃あり、これを少欲となづく。 二つには知足。 已得(いとく)の法の中、受取(じゅしゅ)、限りを以てす。 称して知足といふ。 佛のたまはく。 汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。 知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。 知足の人は地上に臥すといへども、なほ、安楽なりとす。 不知足の者は天堂に処すといへども、また意(こころ)にかなはず。 不知足の者は富めりといへども而も貧しし。 知足の人は貧しといへども而も富めり。 不知足の者は常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者のために憐怒(れんみん)せらる。 これを知足と名づく。 「少欲、知足」とは、在家出家を問わず人間の欲を戒めた教えです。 未得の欲とは、まだもらっていないこと。 まだもらわぬうちの欲を戒めたのが少欲で、もらってからの欲を戒めたのが知足です。 「天堂に住してもこころかなわず」という言葉があります。 これは財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲(怠け心)の五欲にとりつかれて心乱しているという意味です。 道元禅師は「かの未得の五欲の法の中において、広く追求せず。 名づけて少欲となす」と示されます。 仏教では決して無欲、禁欲、断欲といったように一方に偏った考えではなく、中道の立場からの発想ですから、恵まれた生活は結構なのですが、恵まれていないから結構ではないということでもない。 欲を多く求めるのも道に違うが欲を目の敵にしてもいけない。 相撲でも8勝7敗ならば勝ち越しということを考えても、私は人生60%ぐらいでもいいかなと感じている。 そういう意味ではあまり恵まれない生活であっても、また結構だといえる。 「多欲の人は利をもとめるが故に苦悩もまた多し」と示されるように、欲にとらわれず、欲を自制する「願」を「少欲」と示されていると思っています。 「財に恵まれていない立場での少欲とはどのようなものか」というような質問がありました。 ここのところの解釈は誤解を生みやすいところですが、「少欲の人は、すなわち、世の中にいうへつらい曲げてまで人のこころを求むることなし」(遺教経)と示され、道元禅師も「むさぼらずというは、よのなかにいふへつらわざるなり」(正法眼蔵菩提薩た四摂法)と示されておられます。 「少欲」の人は、出世したいというような強欲がないから、へつらいやおべっかをして、人の歓心を買う必要もなく、心中に憂いや畏れるところがなくなるということでしょう。 へつらいやおべっかを使っての強欲さではなく、より高次の欲(誓願)を持つべきといえるのではないでしょうか。 大般若経の魔事品の中に「行あって願なきものは菩薩の魔事なり」ということがあります。 三つには楽寂静(ぎょうじゃくじょう)。 諸のかい閙(にょう)を離れ、空間に独処す。 楽寂静と名づく.佛のたまはく。 汝等比丘、寂静、無為、安楽を求むことは、当にかいにょうを離れて独処間居すべし。 静処の人は帝釈諸天、共に敬重する所なり。 是の故に当に己衆佗衆を捨てて空間に独処して苦本を滅せんことを思ふべし。 「若し衆を楽ふ者は則ち衆悩を受く。 たとへば大樹ノ衆鳥これに集まれば則ち枯折のうれひあるがごとし。 世間は縛若して衆苦に没す。 たとへば、老象の泥に溺れて自ら出ずること能はざるがごとし。 是を遠離と名づく。 」 四つには勤精進(ごんしょうじん)。 諸の善法に於て、勤修無間、故に精進と云ふ。 精にして雑らず、進んで退かず。 佛のたまはく。 汝等比丘、若し勤め、精進すれば、則ち事として難き者なし。 是の故に汝等まさに勤め精進すべし。 たとへば少水も常に流るれば、則ち能く石を穿(うが)つが如し。 若し行者の心しばしば懈廃(げはい)すれば、たとへば火を鑽(き)るに未だ熱からずして、而も息(や)めば、火を得んと欲すといへども、火を得べきこと難きが如し。 是れを精進と名づく。 世の中のすがたは「一犬影に吠ゆれば万犬吠ゆ」また「狂人走れば不狂人も走る」という言葉がありますが、一人の者がいいかげんな思惑をいいふらすと、多くの人々が、それを本当のことのようにいいふらします。 それは真実というよりも推測がそうさせるのです。 それは「他人の知らぬことを俺は知っている」という優越感を味わう意味もあり、先走る凡人の心がそうさせるのでしょう。 これらが重なって世の中の憶測喧噪を引き起こす。 対して「維摩の一黙」という示唆があります。 維摩という仏教に通じた居士が、くだらぬ問いには黙して語らなかった姿こそがすべてを語っているという意味です。 黙の表す事実に多くの真実を知ることは寂静心です。 「精進」とは「水滴石をうがつがごとし」で一滴の水が石に穴をあけるように、精を出して頑張れば為さざるなしということです。 しかし、がんばれば良いというものでもない。 行を運ぶ願がなければ「誓願」ではなく「魔事願」となってしまう。 仏法では「仏道のために精進するを精進波羅密という」(龍樹尊者)ととらえ、道元禅師も「精にして雑らず、進んで退かず」と示されますが、一切の善法において勤修しておこたらないという意味があるのです。 五つには不忘念(ふもうねん)。 また守正念と名づく。 法を守って失せず。 名づけて正念と為す、また不忘念と名づく.佛のたまはく。 汝等比丘、善知識を求め、善護助(ぜんごじょ)を求むることは、不忘念に如くは無し。 若し不忘念有るものは、諸の煩悩の賊、すなはち入ることあたはず。 是の故に汝等、常にまさに念を摂(おさ)めて、心に在くべし。 若し念を失する者はすなはち諸の功徳を失す。 若し念力堅強なれば五欲の賊中に入るといへども、為に害せられず。 たとへば鎧を著(き)て陣に入れば、すなほち畏(おそ)るるところ無きが如し。 是を不忘念と名づく。 六つには修禅定(しゅぜんじょう)、法に任して乱れず、名づけて禅定といふ.佛のたまはく。 汝等比丘、若し心を摂(おさ)むる者は心すなはち定に在り。 心定に在るが故によく世間生滅の法相を知る。 是の故に汝等、常にまさに精進して、諸の定を修習すべし。 若し、定を得る者は心すなほち散ぜず。 たとへば水を惜しむの家は善く提塘(ていとう)を治するがごとし。 行者もまた爾(しか)なり。 智慧の水の為の故に善く禅定を修して、漏失せざらしむ。 是れを名づけて定と為す。 2月、積雪が綿のようです 「より良く生きたい」「より幸福な生活を送りたい」ということは誰もが考え望むことです。 では「幸福」とはいったいなんでしょう。 人それぞれの「幸福論」があるにしても自他共に笑顔で暮らすことができる。 これは金銭、財物にかかわりなく「日々是好日」の生活にほかなりません。 そのような呼吸を調える心を養うには良き師を得ることが大事です。 又、良き友と交友を保つには、自ずから心きよらかに、邪心や猜疑心の念を持たず、純粋な気持に対する思いが必要と示されます。 この心が「正念」といわれるものです。 不忘念とは正念を忘れないということ。 正法を守って失せず、実物を見失わないということです。 具体的に仏教の教えに照らし合わせると「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)、煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)、法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)」という四誓願でこれが仏教の修行理念です。 誰にでも「こうありたい」という願いはあるものですが、「こうありたい」と思う気持ちが強すぎると視野は狭くなりイライラや不満など心の余裕が失われます。 そんな時こそ、四誓願文のような御守りの言葉は腹の据え方に役にたってくれます。 又、この誓願をもって生きるのは「願生の菩薩」といい、仏法を知らないのを「業生の凡夫」というのです。 正念を忘れないためには、いつでも心が安定した状態を保たなければなりません。 これを禅定といいます。 また禅定という意味をもっている別の言葉に梵語で「サマーデイ」これを「三摩地」(さんまじ)と音写し、意味をとって「心一境」「等持」ともいいます。 つまり、禅定とは「定まる」「静かに慮る」「心をおさめてあらゆるものを等しく見る」という意味です。 「若し心を摂(おさ)むる者は心すなわち定にあり」とありますが、坐禅の接心という言葉はこの「心を摂むる」摂心からきているようです。 さらには、坐禅に限らず、念仏、唱題など、そのものに成りきる。 あるいは、その心に到達するための一つの方法(手段)です。 これを三味といい、又「正定」とか「定力」とも示します。 七つには修智慧(しゅうちえ)。 聞思修証を起すを智慧となす。 佛のたまはく。 汝等比丘、若し智慧有ればすなはち貪著なし。 常に自ら省察して失すること有らしめざれ。 是れすなはち我が法の中に於て能く解脱を得。 若ししからざる者は既に道人にあらず。 又白衣にあらず。 名づくる所なし。 実智慧はすなはち是れ老病死海を度る堅牢の船なり。 また是れ無明黒暗の大明燈なり。 一切病者の良薬なり。 煩悩の樹を伐る利斧(りふ)なり。 是の故に汝等、まさに聞思修の慧を以て而も自ら増益すべし。 若し人、智慧の照(しょう)有れば、是れ肉眼なりといへども、而も是れ明見の人なり。 是れを智慧と名づく。 八つには不戯論(ふけろん)。 証して分別を離るるを不戯論と名づく。 実相を究尽す。 すなはち不戯論なり。 佛のたまはく。 汝等比丘、若し種種の戯論は其の心すなはち乱る。 復た出家すといへども、猶ほ未だ脱することを得ず。 是の故に比丘、まさに急に乱心戯論を捨離すべし。 若し汝寂滅の楽を得んと欲せば唯だまさに善く戯論の患(とが)を滅すべし。 是を不戯論と名づく。 仏教で言う智慧は知識とか知性とは違います。 今日いわれる「知恵」は、人間の計らいであり、欲望充足を最高価値とする奪い取る知識、如来の「智慧」は、与える知識です。 「得は迷い、損は悟り」と言われるところのものです。 聞思修証とは、本当の智慧というものは小人、凡人の考えからは出てこない。 だからこそ仏法の話しをよく聞いて、正しく大切なものであれば実際に行ってみる。 これを聞思修というのです。 表面的な、ざれごとや、妄言にまどわされることなく、己れ自身の心の寂まりを深めて行くことの大切さを説いているのです。 「若し人、智慧の照(しょう)有れば、是れ肉眼なりといへども、而も是れ明見の人なり。 是れを智慧と名づく。 」と本文は結んでいます。 戯論(けろん)というのは限りあるこの命をいたずらに過ごしてしまうことです。 小人や凡人は愚図らずにおられないような癖がついているものです。 大人はというと八大人覚の知性をいっぱい働かせて実相をしっかり見極め、愚図らずにしっかり生きるということでしょう。 坐禅はこの不戯論を行ずる根本です。 人生の本当の狙いは大人になること。 「大人の精神」とは「少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論」であると肝に銘じておきたいものです。 道元禅師には「草の庵に寝てもさめても祈ること、我より先に人を度 わた さん」という「願」がありますが、これは四弘誓願の第一「衆生無辺誓願度」です。 我々の心というものには、しっかりとした目標がなければいけない。 「願」がなければどこに落ち着くのやら取りつくしまもなく安心もない。 「安心」ということは「願」がはっきり確定しているということがいえるでしょう。 「八大人覚」最後は、「如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。 いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖(しゅくじき)善根のちからなり。 いま習学して生々に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなからん」と結んでおられます。 蔵王の樹氷 本当の大人の覚するところ。 これが八大人覚であり、菩薩道としての根本が六波羅蜜といわれるものでさよう。 八大人覚は、少欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論であり、六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧です。 また菩薩とは、後に大乗仏教が興ってからの表現で仏法としての誓願に生きるほんとうの大人ということ。 八大人覚も六波羅蜜も、詰まるところ同じようなことと思いますが、ただ時代が違うのです。 八大人覚はお釈迦さまの遺言だから最も古い教えになります。 この頃の仏教の根本は何より自分が自分になるということでした。 「自己の依りどころは自己のみなり」「他に依止することなかれ」これが仏法の根本姿勢で、八大人覚も「自己ぎりの自己」ということが一番の根本です。 ところが時代が移って大乗仏教が興ったころは、自分だけ山の中に入っておればいいという時代ではなくなってきます。 人とつきあうことも大切になってきた。 人とつきあい、社会生活をしながら、しかもそれぐるみ自己ぎりの自己でなければならぬ、というふうに変化するのです。 そうなると、少欲知足とはむさぼらない心としての実践行である布施ということになる。 「楽寂静」は「持戒、忍辱」としてあらわれる。 「楽寂静」は、人とつきあっても自分を乱さない。 世間のやかましいところで生活しながらも、戒律を守って怒ったりイラついたりしないということです。 不忘念の「智慧」でも、八大人覚の智慧と六波羅蜜の智慧とは少し違っています。 六波羅蜜では一切空という表現をしている。 その「一切空」が「不忘念」に相当して、しかもここに「誓願」というものができてきます。 菩薩の生活とは「誓願」によって生きることです。 八大人覚と六波羅蜜の関係は、だいたい以上のようなもので、不忘念とは、菩薩の根本になる誓願の話であります。 菩薩の誓願とは「布施」ということになります。 「布」とは、慈悲があまねく人々にゆきわたることをいい、「施」とは人に恵むことをいいます。 畢竟、八大人覚も六波羅蜜も大いなる仏道であり、大いなる仏道とは、道元禅師の示されるところの「布施・愛語・利行・同事」と拙僧は考えます。

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