大原 麗子。 大原麗子の元旦那は渡瀬恒彦!馴れ初めは?離婚理由は?

大原麗子の死因は?晩年が悲惨!誰からも見放され孤独死!

大原 麗子

来歴 [ ] 生い立ち - 女優へ [ ] 屋の経営者を父として、で誕生。 、卒業。 に属し、の長男での社長であるにスカウトされ 、芸能界入り。 主演の東宝映画『』()にもで出演していたが、(39年)、『幸福試験』()の出演でデビューし、翌年、へ入社。 主演の『』で初めて本格的な映画に出演し、の『』シリーズ、主演作品での、の「」をはじめ、数々の映画に出演したが、梅宮の主演映画ではのや役が多かった。 1971年に東映との契約切れを機にに移籍。 以降テレビドラマを中心に一転して「 しっとりとした日本的美人像」を演じ 、映画『』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮した。 その演技力を買われて主演した脚本の『』では 大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32. 橋田をはじめ、からも演技力を高く評価されていた。 東映を退社してからの所属は長年「オフィス・アール」であったが、晩年には「ワンポイント」に属していた。 映画『』シリーズでは、マドンナ役を2度務めた。 バラエティ番組・CMへの出演 [ ] バラエティ番組への出演はさほど多くなかったものの、(平成6年)放映の『』()では、本人たっての希望で、うさぎの着ぐるみを着たり、禿げかつらをつけてコントをしたり、さらに番組内の一コーナー「ダウンタウンの社会見学」 では姿でダウンタウンの2人に同行した。 に系列で放送がスタートしたバラエティ番組『』の名物コーナー「」の第1回のゲストが大原であり、大原の死去から1週間後の2009年8月10日に、大原への追悼の意を込めて同回が再放送された。 この時の映像は、のちに番組内でも幾度となく紹介された。 への出演も多く、とりわけ、姿でぷっと頬を膨らませ、かすれた声で甘えるように「 すこし愛して、ながーく愛して」という台詞を言うのCMは 、その言葉どおり多くの人に長く愛され 、(昭和55年)から(平成2年)まで放送された。 歌手としても、数枚のをリリースした。 やによく声真似をされた。 病歴 [ ] ギラン・バレー症候群 [ ] に神経疾患であるを発症。 11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止した。 その後、休止中にギラン・バレー症候群の主治医が亡くなったあと、になった。 には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負った。 この転倒は、同症候群の影響で身体のバランスを崩したものとされていたが 、同じくギラン・バレー症候群を患った演出家のや専門医はこの病が再発することは滅多にないとして再発に懐疑的であり 、大原の実弟も再発は姉の思い込みだったのではないかと否定的である。 その他手術と活動休止 [ ] さかのぼって47歳の時には手術を受けた。 1999年に左目の二重まぶたの整形手術をしたが手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまったため、主演が決まっていた映画『天城越え』(第2作)を降板した。 その後、再手術をして可能な限り元に戻したが、自宅に引きこもるようになった。 同年11月、ギラン・バレー症候群が再発したこともあり、芸能活動を休止した。 大原の死後、弟・政光がテレビ番組で、「姉は左目のまぶたが一重で、メイクのとき自分で二重まぶたにしていた」と告白した。 晩年の生活 [ ] 活動休止中も現場復帰に向けて、自宅でリハビリと筋力トレーニングに励んでいたという。 晩年は母親の介護や自身の病気療養もあって、公の場に姿を見せる機会はめっきり減っていったが、俳優仲間にはたびたび電話をかけ、ドラマを観た感想などを語っていたという。 2008年末に「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。 いえ、必ず復帰するわ。 そうね復帰はどんな形がいいかしら。 やっぱりテレビドラマよね。 先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。 それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。 だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」と語った。 死去 [ ] 、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。 62歳だった。 の結果、死亡推定日時は同年。 死因はによるであると診断された。 、東京ので「お別れの会」が開かれ、、、らが発起人となり 、元夫であるやのほか、、、、、、、、、、らが参列。 大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、「浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたこと」を明かした。 または、参列こそしなかったものの、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、30分以上故人に語りかけていたことが2010年8月に報じられた。 その後も親族に定期的に線香を贈り、墓参を継続していたという。 墓所は。 は「花香院麗風妙舞大姉」。 7月、著・大原政光監修のノンフィクション『』が出版された。 大原への追悼 [ ] かつて映画で共演したは、「話し相手になってあげればよかった…」と追悼のコメントを寄せた。 『』『』などで組んだ脚本家のは、死去に際して、「ユニークで、年齢というものをあまり感じない人だった。 (…)最近はいわゆる俳優というものが日常のドラマからいなくなっている。 日本を代表する女優の一人がまた消えたかという感じがする」とのコメントを出した。 人物 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年3月) 幼少時代・家族 [ ]• 父は、・の実家での和菓子屋「田月堂」を経営していた。 母・俊子 生涯を通じて麗子の心の支えだった。 麗子が女優を目指したきっかけは。 母に恩返しをして楽をさせたかったため。 2人でよく旅行に行った。 麗子は晩年まで母親のことを気にかけていた との離婚後、父親を憎み、大原姓に戻りたくなかった麗子は、家庭裁判所を通じ、母方の飯塚姓にした。。 弟・大原政光 3歳年下。 卒業後、銀行員を経て、麗子の個人事務所の社長となる。 それ以前より麗子のドライバーなどもしており、公私ともに麗子をもっとも良く知る人物の一人。 弟が生まれると母の愛情を独り占めしたい大原は、母のオッパイを吸い始めた。 母は止めさせるために乳首に唐辛子を塗ったが、それでも我慢して吸い続けた。 子供の頃、ケンカが強くて男みたいで、頼りがいがあったという。 幼い頃から父から暴力をふるわれ、父に殴られて鼻の骨の右側がやや盛り上がってしまった。 大原は女優になったあと、そこが目立たないように写真の撮られ方を気にしていた。 8歳(小学2年生)の時に父の浮気が原因で両親が離婚し、自身は母に引き取られ、弟は父に引き取られた。 両親の離婚後、東京・にある母の実家に母と戻った大原だったが、その後も自身は父と弟の住む家を毎週のように訪ねていた。 一方、弟も大原と母の住む家を訪れ、弟が帰る時は3人で泣いていたという。 母子家庭で育ったため生活は豊かではなかったが、母は大原に愛情を注ぎ、大原をバレエ教室に通わせた。 性格・好きな異性のタイプなど [ ] 躁鬱的な性格をしていて、躁状態になるとよく喋るとのこと。 物事を決めると行動するのがとても早いとのこと。 短所は気が短いこと。 好きな男性のタイプ=毅然としている人、強い人、繊細な人。 また、テレビ番組に出演した時に好きな男性のタイプを聞かれ、「おとなしい人が好きです。 うるさい人は疲れる」と答えたことがある。 異性に対して父や兄を求めてしまい、ファザコンであるとのこと。 そのためやと口論することがしばしばあり、それが原因で関係者に敬遠されて仕事のオファーがなくなったこともある。 『』に主演したとき、春日局が臨終間際の徳川秀忠の正室、お江与と語り合うシーンで、作の脚本にはなかった「女(おなご)は強うございますから」というセリフを書き加えさせた。 大河ドラマ春日局・第37回「先立つ妻に」 売れていき地位が上がるにつれ、映画やドラマのスタッフに対して脚本と演出の注文を付けるようになり、それが年を重ねるごとにエスカレートしてしまったという。 それが原因となり、一時はどこからも出演オファーがなかった。 死後、遺品の中には多くの台本があり、台本には場面ごとに細かく立ち位置がメモされ、セリフも自分なりに変更されていた。 弟・政光は、「姉の夢は、監督・脚本から主演までをこなすことだったと思います」と述べている。 交友関係 [ ] 高倉健とのエピソード [ ] に18歳で主演の映画『』シリーズで初共演をして以来、高倉を尊敬する兄として慕っていた。 『網走番外地 北海編』(1965年)など多くの作品で高倉健と共演しているが、この作品の撮影時、高倉に行書で書かれた大原家の家系図を飜訳してもらったところ、主のの一族の子孫にあたることが判明したという。 1986年に自宅を新築した時、高倉健から新しい電話番号をプレゼントされ、電話番号の末尾4桁は「0015(レイコ)」となっていた。 高倉健から万年筆をプレゼントされ、その万年筆には「0」から始まるシリアル番号が刻印されていた。 「0」は高倉が所持していて、「1」は大原に贈られた。 大原は「健さんに1番に選ばれた」と言ってとても喜んでいた。 にNHKのテレビドラマ『チロルの挽歌』で主演・高倉健の妻役(ヒロイン)として高倉と共演。 ギャラクシー賞奨励賞を受賞。 大原はこの作品を「生涯の代表作」と自負していた。 後年大原が亡くなった日、大原の寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉健と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVDが入っていた。 また大原の遺品の中から、高倉健の記事だけをまとめたが発見された。 そのスクラップには大きな文字で、「好きです。 尊敬しています」と書かれていた。 渡瀬、森との2度の夫婦生活 [ ] (昭和48年)、俳優・と結婚したが、5年後の(昭和53年)に離婚。 (昭和55年)には、歌手・と再婚したが、(昭和59年)に破局に至った。 森との結婚生活については離婚会見で「家庭に男が2人いた」と振り返った。 渡瀬恒彦と結婚していた頃、渡瀬の子供を身籠ったが、子宮外妊娠だったため胎児が死んでしまった。 渡瀬恒彦と離婚したあとも、渡瀬恒彦のことが好きだったという。 渡瀬との離婚の原因については、大原ははっきりとしたことを言っていない。 森進一と結婚していた頃、子供を欲しがっていた森に大原の弟・政光が「離婚して他の女性と子供をつくってください」と頼み、約一年後、森は大原との離婚を決意したという。 なお、に政光は、大原が結婚から2年たって森の子供を身籠ったが、仕事を優先させてしたと告白した。 大原の死去後のお別れ会には森、渡瀬の元夫2人も出席した。 ちなみに最後のテレビドラマ出演は、かつての夫である渡瀬との共演で、2004年の「」『東北新幹線「はやて」殺人事件』であった。 その他の仲の良い芸能人 [ ] 、(姉と慕っていた )。 ちなみに晩年は自宅療養中の孤独を癒すために、昼夜を問わず友人に長電話をかけており、大原の「お別れの会」では森光子はの中で、「あなたは時間に関係なく真夜中でも電話をかけてきましたね」と述べた。 同じく浅丘ルリ子も弔辞の中で、「大原からの一方的な長電話に苦しめられた」と述べた。 にはデビュー当時から公私共に妹のように可愛がられていて互いに「麗子」「お姉さん」と呼び合っていた。 とは、ドラマで共演してから仲良くなり、鹿沼の結婚式では大原麗子・森進一夫妻が媒酌人をした。 親友であり、大原からマネージャーになってほしいと頼まれたこともある。 1999年の活動休止後も以前から親交のあったやとは不定期ながらも連絡を取り合っていたという。 「孤独死」との報道への反論 [ ] 大原麗子のデビュー当時からのマネージャーで公私ともに親しく、1999年から5ヶ月の間、大原と同居し、死の前年の2008年まで親しく連絡を取り合っていた佐藤嘉余子は、大原の死去をあらわす際に「孤独死」という言葉がメディアで使われていることに疑問を呈し、『離婚を繰り返して、仲の良かった人々も離れていき、1人寂しく死んだと』いう見方について異なる見解を述べて反論している。 佐藤によると、大原が亡くなる6年ほど前に同居していた際に、大原の衣裳部屋の壁にスペイン人詩人であるサン・ファン・デ・ラ・クルスの『孤独な鳥の、5つの条件』という詩が貼ってあり、大原はその詩を彼女は毎日眺めていたという。 【一つ 孤独な鳥は高く高く飛ぶ 二つ 孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない 三つ 孤独な鳥は嘴を天空に向ける 四つ 孤独な鳥は決まった色をもたない 五つ 孤独な鳥はしずかに歌う】 佐藤によると、この詩は大原の生き様そのもので、大原が亡くなる2年ほど前から、大原は「カヨさん、私は死ぬときにはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」と言うようになっており、大原は「孤独に追い込まれたのでなく、自ら『孤高』を選んだ」という見解を示している。 佐藤は、大原が亡くなる前年の11月大原が自宅で転倒したころから、急に連絡が途絶えたが、大原の死の直後、大原の自宅の冷蔵庫を開けるとお中元で送られてきたスイカの切れ端が2個半だけ残っており、それを見た際に、佐藤は寂しさや悲しさを感じる一方で、「ああ、麗子さんは天寿を全うしたんだな」とも思ったともいう。 そして、「体力の限界を悟って、『スーッと消えていく』という願いを本当に実行しようとしていた。 だから冷蔵庫の中に、もらいもののスイカ以外に自分で用意したような食料がなかったのだと思います。 『孤高』を求めた麗子さんらしい旅立ちでした。 」と語っている。 マスコミは孤独死って書いてるけど、彼女の実績をみてほしい」「いくつになっても小悪魔というのは、加賀まりこと大原さんの2人だけです」と大原の実績を強調し、孤独死との見方に反論している。 また、かとうかず子も「変な言い方ですが、とても女優さんらしい亡くなりかた」とし、さかもと未明は「森進一さんとの離婚で、『男が2人いた』というのを子どもでしたが、仕事をするとはこういうことなんだなと感じた。 輝いて大輪の花を咲かせて生ききった方だと思う」と大原を讃えている。 ケラリーノ・サンドロヴィッチも自身のブログで「20代後半に難病指定のギランバレエ症候郡〔〕に侵されて以来、表には出さなかったが、常に死を意識していただろう大原さんの、30代の頃のいくつかのインタビューを見ると、彼女がとっくに覚悟を決めていたことがわかる。 」とし、森進一との離婚以来「30年近く独り身を通したことからも、大原さんの、『ひとりで』女優という生き方をまっとうし病気と闘う生き方への美学が伝わってくるし、それは大原さん自身の選択だ」、「すべてを達成して満足の果てに死んでゆく人間なぞ滅多にいないのだとすれば、大原麗子さんの生き様は素晴らしかったに違いなく、あの最期は「理想的」とは言わないまでも、決して彼女にとって悲しむべき終わりではなかった」と思う、としている。 大原自身も自らの仕事への姿勢について、「寅さん」の会見で「最近は遺作だなと思ってやってるの。 いつ死んでもいいと。 自分らしく自由に生きたい。 仕事は限界のない自己闘争。 心も体も自由に」と述べていた。 世田谷区の自宅について [ ] 森進一と離婚した2年後の、3丁目に150坪・床面積260平方メートル・3億円の豪邸を建て、68歳の母と一緒に暮らし始めた。 この地に家を建てたのは、憧れの人物・高倉健の自宅に近かったからとのこと。 子供の頃苦労して育ったため、働いて立派な家を建てることは長年の夢だったという。 仕事が少なくなったため住んでいた世田谷区の豪邸の維持費(固定資産税・年間89万円、光熱費・毎月数万円など)に苦しんだ大原は、貴金属を売って維持費をつくるようになった。 3月頃、長年同居してきた介護が必要な91歳の母を介護施設に預け、一人暮らしを始めた。 大原は自宅を売却してマンションへ引っ越すことを考えていたが、高額であるためなかなか買い手がみつからなかった。 大原が亡くなった後の10月、弟が管理していた大原の豪邸が2億5千万円で売却された。 高額であるため、大原の死後6年間買い手がなかった物件だった。 売却された豪邸は2019年現在取り壊され、別の建物が建っている。 その他 [ ] 好きで、徹夜で打つこともあった。 子供に恵まれなかったため弟の息子(甥)をとても可愛がり、甥が書いた絵を額に入れて飾っていた。 甥と月に一、二回は一緒に食事をしていた。 出演 [ ] テレビドラマ [ ]• (1964年 - 1965年、)• 弁慶 (1965年10月 - 1966年3月、NTV)• 第1シリーズ 第12話「赤い渦が捲いていた」(1966年、・東映) - お里• 第1シリーズ 第4話「羽田発五一七便」(1967年、NET・東映)• (1967年、NTV・東映)• (1967年、TBS)• (・東映)• 第81話「質札の娘」(1967年) - おみね• 第192話「春の風来坊」(1970年) - お峰• 第12話(1967年、)• NTV• 除夜の鐘よバラ色に鳴れ (1967年12月30日)• おじゃまさま 第3話 (1968年)• 第14回「分割払いの愛」(1968年1月7日、TBS・)• NHK• (1968年) - 喜勢• (1974年) - 梶久• (1980年) - もん• (1984年) - 三島典子• (1989年) -• (1998年) - れん(ナレーション兼任)• 第71話「ひとりで乾杯! 」(1968年1月28日、TBS・)• TBS• (1968年) - 森川花世• (1969年)• (1968年、CX・東映)• 第15話「剣豪 故郷へ行く」(1969年、NTV・) - おのぶ• (1969年、TBS)• 仇討ち 第20話「夫婦剣法」(1969年2月12日、TBS・)• (1969年、・東映) - 俵星玄蕃の妹・しの• 第12話(1969年、)• (1969年、KTV) - 主演・古谷マキ• (1969年、NHK)• (1970年、KTV・東映) - 秀吉の側室・香の前• (1970年、TBS・) - あやめ• (1970年、NTV・) - ねね• TBS・• 第7話「濡れぎぬ」(1970年) - おるい• 第24話「蛇の目傘の女」(1970年) - おみの• TBS・• 第14話「女将棋師・天童」(1970年) - おきく• 第27話〜第32話 (1971年) - 弥生• TBS• 第1シリーズ (1970年) - 第21話• 第2シリーズ (1971年) - 「新宿十二社の芸者・金太郎」 第52回• 第3話 (1970年、TBS)• (TBS・)• 第12回「イチ・タス・イチは? 」(1971年1月10日)• 第20回「男の賭けは高くつく」(1971年3月7日)• シリーズ TBS• (1971年) - 京子• (1972年) - 笙子• (1971年、KTV・東映)• 第17話「十八年目の浮気」• 第18話「女上位の天国」• 親ばか子ばか (1971年、TBS)• (1971年、CX)• (1971年、CX)• NET• (1971年)• (1972年)• (1972年)• (1973年)• 第3話「尼になった姉妹」(1971年、CX・)• 第5・6回「男一匹・一心太助」(1971年、KTV・東映)• 第6話「鈴が鳴った」(1971年、TBS)• (1972年、TBS・) - 京子• NTV• (1972年)• (1972年)• (1972年12月20日)• (1973年2月10日)• (1973年)• (1973年) - 伊藤冬子• (1974年 - 1975年) - 桜井しずか• 第7話「辻斬り将軍」(1972年、KTV・東映) - お楽の方• 第2話「花吹雪抜刀流」(1972年、CX・東映)• (1972年 - 1973年、NET・東映) - お玉• 第2話「女怨に剣が哭いた」(1972年、KTV・東映) - 綾乃• 第3話「野菊」(1972年、NHK) - なか• 第90話「大暴れ! 娘スリ」(1972年、) - お市• 第2シリーズ 第3話「水車は夕映えに軋んだ」(1972年、CX) - お縫• 月とスッポン (1972年12月21日、NTV)• NET• 出雲の阿国 (1973年) - きく• (1975年) - 中桐晶子• 絣の花 (1976年) - 奈美恵• 荒木又右衛門 (1973年1月25日、NET) - おみね• 第1シリーズ 第13話「お千代舟」(1973年、NTV)• 第4話「信濃追分で逢った女」(1973年、CX・C. ) - おさよ• 夫婦日記 第5回「刑事さん、つかまえて! 」(1973年、NTV・国際放映)• 第51話「危険を盗んだ女」(1973年、NTV) - 原田京子• (1973年 - 1974年、NTV) - 栗山夏代• TBS• 第878回 秋のふたり (1973年10月7日)• 第975回 吾は海の子 (1975年8月14日、MBS)• 第1040回 ひとり (1976年11月14日、)• 第1074回 ふたりの愛 (1977年7月10日)• 第1096回 (1977年12月11日) - 高木久美子• 第1190回 藍色の街 (1979年9月30日)• 第1210回 見合い結婚 (1980年2月17日)• 第1245回 見知らぬ夫 (1980年10月19日)• 第1256回 春のうららの物語 (1981年1月11日)• 第1290回 三代の嫁どの (1981年9月13日)• 第1296回 孤独のなかみ (1981年10月25日)• 第1307回 妻の寝顔 (1982年1月10日)• 第1351回 愛にゆれる灯 (1982年11月21日)• 第1361回 冬の置き土産 (1983年1月30日)• 第1414回 恋愛ゲーム (1984年2月12日)• 第1465回 変身 (1985年2月3日)• 第1500回 (1985年10月6日)• 第1511回 秘恋 (1985年12月22日)• 第1551回 ちきしょう (1986年9月28日)• 第1580回 小ざくらも桜です (1987年4月19日)• 第1597回 花言葉はヒミツ (1987年8月16日、CBC)• 第1643回 空き部屋 (1988年7月3日)• 第1668回 愛のいろ (1988年12月25日)• 第1718回 男を金にする女 (1990年1月7日) - 夜鷹のおとせ• 第1736回 弓代と規子 (1990年5月20日) - 弓代• 第1780回 囚われて (1991年4月7日)• 第1814回 それからの冬 (1991年12月1日)• 第1845回 残り香 (1992年7月19日)• 第1875回 三十ふり袖 (1993年3月14日)• (1974年、NET・東宝・) - おきん• 第1話〜第5話(1975年、NHK) - マドンナ• (1976年、NTV) - 高林和子• 第1〜13話 (1976年、NTV) - 大隅妙子• 第2シリーズ (1976年、NTV) - 大原麗子(本人役)• (1977年、) - 佐伯遙子• 乱塾時代 - 子育て合戦 (1977年、TBS)• (1977年、TBS) - 神山かい• ANB• 危険な童話 私は殺さない… (1977年10月22日)• さそり座の女(1978年6月10日)• いのちの絶唱 (1978年、NTV)• (1978年、TBS)• 火の航跡 (1978年、CX)• (1979年、NTV) - 草丘冴子• (1979年、YTV)• (1979年、TBS) - 九条冬子• (1980年、TBS) - 櫟夏子• (1980年、ANB) - 麻生圭子• YTV• 愛の旅路 明日なき恋に燃えた哀しき女の運命は (1981年2月12日)• (1981年4月2日)• 松本清張 喪失 (1983年2月17日)• 殺して、あなた… (1985年4月18日)• 明日をください (1987年3月26日)• 喜劇 ああ未亡人 (1988年4月14日)• 塀の外で待つ女 (1988年11月3日)• 第2話「愛のかたち」(1981年10月24日、NHK) - 高沢京子• NTV• 女の中にいる他人 (1981年11月3日)• 黒いドレスの女 (1985年1月1日、渡辺企画)• 殺意に抱かれて (1992年4月7日、東北新社)• ポーツマスの旗 (1981年、NHK)• (1981年、TBS)• 横浜物語 (1982年、NHK)• さりげなく憎いやつ (1982年、TBS) - 有田美香• コカコーラスペシャル 女ともだち —誰のものでもない私の人生— (1982年3月29日、TBS)• (1982年、TBS) - 綾部文美• 擬装結婚 (1983年、MBS) - 小早川良美• わたしの名は女です (1983年、NHK)• (1984年、TBS) - 中野和子• 優しい関係 (1984年、TBS)• (1985年、NTV) - 秋葉紀子• (1985年、NHK) - 樋口夏子• (1986年、TBS) - 渡辺麻子• (1987年、TBS)• みんなマドンナ (1987年、MTV)• (1988年10月8日、TBS)• くねり坂 (1988年10月14日)• Vの悲劇 残された香水の記憶に秘められた疑惑 (1990年4月13日)• 逃げて逃げて… (1988年12月10日、TBS)• 女はいつも涙する 代議士の妻たち (1988年、TBS) - 清原律子• (1990年10月 - 1991年3月、TBS)• (1992年、NHK)• 第17回「人生ゲーム 残された2通の遺言状」(1993年9月2日、CX)• もうひとつの家族 (1995年、NHK)• (1996年、NHK)• 秋の選択 (1996年11月26日、NHK)• 2000 ニッポン人の怒りが爆発する!! 「太るのは罪ですか? 」(2000年3月27日、NTV)• 素顔のときめき (2000年、NHK)• (2017年) - 大道洋子 映画 [ ]• (1965年、) - 乾美香• (1965年、東映) - ゆみ• いろ (1965年、東映) - はつえ• ダニ (1965年、東映) - 幸子• かも (1965年、東映) - 村井ゆき• (1965年、東映) - ユキ• (1965年、東映) - ひさ子• シリーズ(東映)• (1965年) - 弓子• (1966年、東映) - 路子• (1966年、東映) - 夏子• (1966年、東映) - 汐見千恵• (1967年、東映) - 路子• (1966年、東映) - 進藤さかえ• (東映) - 照子• (1966年)• (1967年)• (1966年、東映) - むる• (1966年、東映) - 河井玲子• (1966年、東映) - おころ• (1966年、東映) - アコ• (1966年、東映) - ミキ• (1966年、東映) - 板斎昌子• (1966年、東映) - 明美• (1967年、東映) - 千恵• (1967年、東映) - 杉本美世• (1967年、東映) - 遠藤洋子• (1967年、東映) - 矢頭裕子• (1967年、) - ミッコ• (1968年、東映) - はな• (1968年、東映) - 佐和子• (1968年、東映) - 川崎素子• (1968年、東映) - お豊• (1968年、東映) - お町• (1969年、東映) - 萩京子• (1970年、東映) - 主演・美奈• (1970年、) - お喜代• (1970年、) - 葉子• (1970年、東宝) - 矢津子• 経験 (1970年、東映) - 平松あき子• 喜劇 トルコ風呂 王将戦 (1971年、東映) - 佐々木礼子• (1971年、東宝) - 〆香• 湯けむり110番 いるかの大将 (1972年、東宝) - 豆千代• 喜劇 黄綬褒章 (1973年、東宝) - チエ• (1977年、東宝) - 鬼頭早苗• (1978年、東映) -• (1978年、東宝) - ヒナク• (1978年、) - 荒川早苗• (1983年、東映) - 日向一実• (1983年、東宝) - 神谷さよ• (1984年、東宝) - おかよ• (1984年、松竹) - 富永ふじ子• (1986年、松竹) - 杉本朝子• (1987年、) - (声の出演) 舞台 [ ]• 男を金にする女(1991年、) - おとせ• 品川心中 -白木屋お染- (1993年、) - お染• (1994年、) - お夏• 眠り人形(2003年、) CM [ ]• (1977年 - 1987年) - 「少し愛して、なが〜く愛して」• (1988 - 1990年)• (パンシロン、新・Vロート、V ロートクール)• (ザ・グレイト、1990年)• (サクロン)• (洗濯機:シャーワーリンス銀河他、衣類乾燥機:ランドリエ)• (チップスター、ビスケット)• イブ(スクーター)• エスティナ)• ひな人形、武将飾り) 音楽 [ ] シングル [ ] 発売日 規格 規格品番 面 タイトル 作詞 作曲 編曲 1 3月 EP NKS-701 A ピーコック・ベイビー B 顔を見ないで 2 4月 EP L-213 A さりげなく悪いやつ B 待つことになれて 3 4月10日 8cmCD PIDL-1179 A 背中から抱きしめて B 逢いたくなるの アルバム [ ]• (、、L-11002R) 大原麗子を演じた女優 [ ]• (、2013年3月6日、) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2012年8月・2551号. 2009年8月8日. の2009年8月10日時点におけるアーカイブ。 2014年4月15日閲覧。 『』、、1983年1月13日、 190頁。 『日本映画俳優全集・女優編』、1980年、142-143頁。 ・大原政光 監修 『』、127、130頁。 『大原麗子 炎のように』、128-130頁• 2009年8月7日. 2015年8月29日閲覧。 ダウンタウンの2人が学生服姿で各地の工場を訪ね、そこで生産される製品の製造過程を見るというもの。 ちなみにこの時の大原のオーダーは「昔風のカレー」だったが、のほとんどのメンバーは料理に不慣れであったため、調理に3時間弱を要したという。 208-209• 2008年11月15日. 2014年4月15日閲覧。 「追悼特集 『ながーく愛して』 大原麗子の声が聞こえる」『』2009年8月22日・29日合併号、pp. 160-161。 鴨下信一とみわ内科クリニック院長の三輪隆子のコメント。 「左目に大きな青痣ができていた『大原麗子』いまわの際の苦悶」『』2009年10月15日号、p. 「大原麗子 炎のように」より• スポーツ報知. の2009年10月10日時点におけるアーカイブ。 2014年4月15日閲覧。 2009年8月23日. の2009年9月27日時点におけるアーカイブ。 2014年4月15日閲覧。 浅丘ルリ子「追悼・大原麗子 わが妹麗子への手紙 弔辞全文」『文藝春秋』2009年10月号、pp. 206-207• 2010年8月4日. 2014年4月15日閲覧。 スポーツ報知. 2011年8月1日. の2012年7月9日時点におけるアーカイブ。 2014年4月15日閲覧。 MSN産経ニュース. 2009年8月7日. の2009年8月9日時点におけるアーカイブ。 2014年4月15日閲覧。 MSN産経ニュース. 2009年8月7日. の2009年8月9日時点におけるアーカイブ。 2014年4月15日閲覧。 「炎のように」より• 女性自身 2012. 書籍「炎のように」• TBSテレビ「」放送• 恩田揚子「森進一と大原麗子の離婚会見 『家庭に男が二人いた』」『新潮45』2008年1月号、p. FNN. jpプライムオンライン. 直撃!シンソウ坂上. フジテレビジョン 2019年6月20日. 2019年8月11日閲覧。 2009年8月24日. 2017年1月10日閲覧。 [大原麗子さんに寄り添った元マネージャーが孤独死の真相告白(週刊ポスト,2017年8月28日)]• [大原麗子さんに寄り添った元マネージャーが孤独死の真相告白(週刊ポスト,2017年8月28日)]• [大原麗子さんに寄り添った元マネージャーが孤独死の真相告白(週刊ポスト,2017年8月28日)]• [大原麗子さんに寄り添った元マネージャーが孤独死の真相告白(週刊ポスト,2017年8月28日)]• [大原麗子さんに寄り添った元マネージャーが孤独死の真相告白(週刊ポスト,2017年8月28日)]• [大原麗子「孤独死」なんて呼ぶな!テリー「新聞は間抜け」(J CASTテレビウォッチ,2009年8月7日)]• [大原麗子「孤独死」なんて呼ぶな!テリー「新聞は間抜け」(J CASTテレビウォッチ,2009年8月7日)]• [大原麗子さんのこと(ケラリーノ・サンドロヴィッチblog 「日々是嫌日」,2009年8月12日)]• [大原麗子「孤独死」なんて呼ぶな!テリー「新聞は間抜け」(J CASTテレビウォッチ,2009年8月7日)]• のテレビドラマ「」主題歌。 このドラマでは、大原が生前住んでいた家でも撮影が行われた。 外部リンク [ ]• - (英語)• (2013年5月1日時点の)• 2016年10月25日閲覧。

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浅丘ルリ子が初告白…大原麗子の最期に手を差し伸べたのはあの名優だった

大原 麗子

Sponsored Link 渡瀬恒彦との馴れ初めは? 大原さんは、1973年、同じ東映に所属していたさんと結婚されています。 当時、大原さんの方が先輩で、渡瀬さんはまだ駆け出しの俳優だったのですが、大原さんが渡瀬さんを好きになって交際をスタートしたそうで、 晩年の渡瀬さんは、すっかり穏やかで優しそうな外見となられていましたが、実は、子どもの頃から喧嘩がめっぽう強く、芸能界でもがあるほどなので、ファザコンを自認する大原さんにとっては、渡瀬さんは、まさに理想の人だったのかもしれません。 (大原さんは、好きなタイプとして、「毅然としている人、強い人、繊細な人、おとなしい人が好き」と答えられています) 大原さんは、自宅マンションに、渡瀬さんにしか番号を教えていない 「専用電話」があったそうで、その電話のベルが鳴るとどんなに夜遅くでも飛んでいくほどだったそうです。 その理想の人と結婚したことから、さぞ、甘い新婚生活を送られたのかと思いきや・・・ 新婚生活は、渡瀬さんのお母さんと同居で、家事が一切できない大原さんは、渡瀬さんのお母さんに厳しく家事を教え込まれ、 そのうえ、渡瀬さんが京都の東映撮影所での仕事が多くなって、京都に行きっぱなしだったことから、実質、姑との二人暮らしとなり、相当、気詰まりな新婚生活だったようです。 ただ、渡瀬さんが、そんな大原さんを気遣い、京都に生活の場を移して夫婦一緒に暮らそうと提案されるも、すでに売れっ子女優だった大原さんの仕事場はほとんどが東京。 そのため、大原さんは、女優を辞めてまで京都に移り住むことができず、このことが原因で、お二人の間にすれ違いが生じてしまったそうで、大原さんは、そのことにかなり落ち込まれたようです。 そして、追い打ちをかけるように、女性週刊誌などで、渡瀬さんの女性問題や、格差婚、嫁姑関係のことなどを書き立てられ、離婚説がささやかれるようになると、ついにお二人は、1978年2月、本当に離婚してしまったのでした。 離婚理由は? ちなみに、大原さんは、声明文に、 恒彦さんと私はけっして憎み合って別れたのではない。 夫婦という絆は切れても私は恒彦さんを男性として人間として心から尊敬しています・・・ と、綴られたほか、マスコミの取材に対し、 離婚を考えだしたのは去年夏頃から。 今年1月になって、彼から子どもを産むか仕事をとるかと迫られた。 私はどうしても子どもをつくる方をとることができなかった と、離婚理由を明かされると、 渡瀬さんも、取材に対し、 彼女は僕が女優として認めている数少ない一人。 だから、仕事をやめろとは言えなかった。 彼女をちゃんと包んでやれなかったのが原因です。 と、語っておられるのですが、 実は、大原さんは、1975年8月頃、 「ギラン・バレー症候群」という、手足の筋肉に力が入らなくなる病気を発症されており、京都に住んでいた渡瀬さんが、忙しい撮影の合間をぬって、頻繁に帰京し、献身的に大原さんの看病をされていたそうで、その甲斐あって、大原さんは、半年後に退院。 その後、大原さんは、すぐに仕事に復帰され、翌年の1976年、テレビドラマの製作発表会見の際、 今回、主人がしょっちゅう見舞いに来てくれて。 お互い忙しくて、なかなか話す暇がなかったんですけど、不幸中の幸いというか、十分に話しあえました と、語っておられ、病気をきっかけに、すれ違いがちだった二人の心が、再び一つになったかと思われたのですが、 皮肉なことに、大原さんの病気が癒えたことで、大原さんが以前のように仕事に邁進するようになって、家庭に入ることができず、破局となったのでした。 ちなみに、渡瀬さんのお兄さんのさんご夫婦は、奥さんが子育てをしながら、病気がちの夫を懸命にフォローされていたことから、 渡瀬さんのお母さんは、正反対の大原さんに対し、 仕事を休んで京都で一緒に暮らすべき と、ますます不満を募らせていったようで、以前にも増して、嫁姑の関係が悪くなったことも、離婚の原因になったと言われています。 Sponsored Link 離婚後も・・・ ところで、後に、大原さんの弟・政光さんは、 姉は結婚前に渡瀬さんの子を身籠り、それが子宮外妊娠だったため、泣く泣く緊急手術をしました。 そのとき、渡瀬さんから輸血を受けています。 離婚後も姉は「渡瀬さんの血が今でも体に流れているから嬉しいの」と言っていました。 と、語っておられ、 デビュー当時からのマネージャーである、佐藤嘉余子さんも、大原さんが、離婚後も渡瀬さんと連絡を取り合い、 渡瀬さんの家に電話すると再婚した奥さんが出て、私が「大原です」と名乗ると、「ギャッ」と驚かれちゃうのよ、なんて笑って話すんです。 テレビを見ていても、「カヨさん、渡瀬さんが出てるわよ、フフフ」って、いつも嬉しそうにしていました。 と、語っておられるほか、 大原さんは、晩年、車で外出される時、 渡瀬さんの家の前を通ってね と、運転手に頼んでおられたそうなので、 大原さんが、離婚後も渡瀬さんへの想いが変わることがなかったにもかかわらず、仕事までは捨てられなかったことがわかります。 に続く.

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森進一と大原麗子…離婚の原因は何だったのか?!

大原 麗子

スポンサーリンク 大原麗子さんが整形失敗? これだけ美人なんだから整形する必要ないですよね…。 ただ大原麗子さんにとってどうしても直したい部分があったんです。 それは左目のまぶた。 大原麗子さんは右目が二重で左目が一重だったんです。 左目はメイクで二重にしていました。 毎回二重にするのが面倒だったんでしょうね。 1999年に左目の二重手術を受けます。 有名な美容整形外科に行くと「大原麗子が整形!!」と噂になってしまうので、モグリの医者にお願いしました。 左目には細菌が入りまぶたが腫れあがってしまい整形失敗…。 このことにより主演が決定していた映画『天城越え』を降板。 その後再手術を行い可能な限り元に戻しましたが、自宅に引きこもるようになりました。 1999年11月、ギランバレー症候群発症も重なり、芸能活動を休止しました。 休止中にギランバレー症候群の主治医が亡くなりショックを受け、お母さんの介護も重なり大原麗子さんはそううつ病に。 ギランバレー症候群とそううつ病の薬と、薬漬けの毎日だったそうです。 スポンサーリンク 大原麗子さんの整形後の画像は? 整形後の画像を探してみたのですが、芸能活動を休止されていたためか見つかりませんでした。 その代わりに、大原麗子さんが芸能界復帰後に出演したドラマの画像があったのでご紹介しますね。 こちらは大原麗子さん最後のテレビドラマ出演となった、2004年放送『十津川警部シリーズ 東北新幹線「はやて」殺人事件』の画像。 この時になぜか大原麗子さんだけ紗がかかりぼやけていました。 噂によると自身のしわやたるみを気にした大原麗子さんが、修正して欲しいと言ったとかなんとか。 とはいえこの修正はなんとも…今のような修正技術がない当時はこれが精いっぱいだったんですかねぇ…。 こんな修正をするのであれば出演を断ればいいと思うのですが、十津川警部といえば渡瀬恒彦さん。 渡瀬恒彦さんは大原麗子さんの元夫。 渡瀬恒彦さんが大原麗子さんに出演依頼をしたということなので、「渡瀬さんのお願いなら」と出演を快諾したのかもしれませんね。 ところでこちらが若い頃と十津川警部出演時の大原麗子さんを並べた画像になりますが、 獄門島des大原麗子、十津川警部des大原麗子 — Je m'appelle ホリック生子。 casattey 十津川警部の大原麗子さんも全然お綺麗ですよね! 若い頃と比べたらそりゃ老いは見えますが、当時57歳ということを考えれば十分若いしお綺麗です。 スポンサーリンク 大原麗子さんの孤独死の真相とは? 2009年8月3日に自宅2階の寝室の床の上でひとり亡くなった大原麗子さん。 大原麗子さんと連絡が取れなくなった家族が不審に思い警察に通報し、2009年8月6日に発見されました。 死因は不整脈による脳内出血。 異変を感じた大原麗子さん、誰かに助けを求めようとしたのでしょう。 携帯電話に手を伸ばした状態で発見されたそうです。 携帯電話までの距離は15cm…もし携帯電話に手が届いていたら、今でも大女優大原麗子さんの活躍を見れていたかもしれません。 真夏にエアコンなしで死後3日経っていたのに、死臭や腐敗はなかったそうです。 不謹慎かもしれませんが、神秘的というかまさに大女優大原麗子、と感じました。 冷蔵庫の中身はお中元でもらったスイカが2切れ半だけ入っていたそうです。 生前「死ぬときはスーッと消えていなくなりたい」と言っていた大原麗子さん。 自分の死期を察し、自分で食料を用意しなかったのでは、と語られています。 孤独死ではなく孤高死と…。 6月20日の『直撃!シンソウ坂上』で大原麗子さんのすべてが紐解かれるかもしれません。 大原麗子さんの一生を前田忠明さんが執筆。 2003年には内山理名さんが大原麗子さん役を演じ、スペシャルドラマにもなりました。 ドラマみたい!!と思ったのですが、どの動画配信サイトでも配信されてないよう…残念…。 大原麗子さんの渡瀬恒彦さん、森進一さんとの結婚・離婚、中絶についてはこちら。

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