日航 機 墜落 事故 原因。 日航機墜落 生存者の殺害や嫌がらせ?自衛隊の射殺とは?

1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの(週刊現代)

日航 機 墜落 事故 原因

1985年8月12日。 「この出来事を風化させてはならない。 暗い夜空を眺めてほしい、そこに何が見えるのか……。 そして未来のためにともに考えてほしい。 今から三十二年前の八月十二日に何が起きたのかを。 あの夜は、山々の稜線が漆黒の夜空に隠れ、ペルセウス座流星群の星たちが次々と流れては消えて、まるで死者の魂が飛び交うようであった。 ガーガーガーンと強い衝撃の後、様々な固形物や砂が次々と頭にぶつかり、体が宙に投げ出された。 左目は砂にまみれて目が飛び出したように痛い。 口は乾き、砂でいっぱいだ。 シートベルトが体に食い込んでお腹がちぎれそうに苦しい。 「はあ、はあはあ」と荒い息遣いをしながら、つい先ほどまでの身の毛もよだつ恐怖がよみがえる。 「ああ、墜落したのだ。 大変な事故を起こしたのだ」 周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。 「おかあさん」「早くきて」「ようし、僕は頑張るぞ」そんな声も聞こえてくる。 すると、闇の中からヘリコプターの音が近づいてきた。 夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にしてかき乱される。 バリバリバリと爆音をたてて、木々の葉を大きく揺らしながらゴーゴー、バババーとホバリングを始めた。 辺り一面、埃や砂、機械の臭いが舞い上がる。 「ああ、私は生きている、これで助かる」 全身の痛みをこらえ、かろうじて動くほうの右手を必死に空に向かって伸ばした。 「助けてください、私は…ここに…」と、夢中で手を振る。 「助けて」「帰っちゃいや」「誰か来て」 そのような何人もの声をかき消すように、ヘリコプターは爆音と共に段々と遠くへ去っていった。 周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえてきた。 一九八五年八月十二日(月)。 日航ジャンボ機123便(ボーイング747、登録機体番号JA8119)が、東京羽田空港を離陸して、大阪伊丹空港へ向かう途中、突発的非常事態に陥り、「群馬県上野村の御巣鷹の尾根」と後に命名された高天原山系無名の地に墜落した。 前述は、乗客乗員五百二十四名のうち、四名の生存者の一人、非番で乗客として乗り合わせた客室乗務員の落合由美さん(二十六歳)が発表した「落合証言」に基づく記述である。 当時、墜落後に遺体を検死した医師によると、落合さんが救出された場所の周辺には、つい先ほどまで生きていた痕跡のある生温かい遺体があり、早急に救助がなされていれば命が助かっていたのではないだろうかと思われる遺体が百体ぐらいはあった、ということであった。 墜落現場が不明のまま夜が明け、翌日の十三日、落合さんは地元の消防団員によって十時五十四分に発見されたが、それから灼熱の夏山の山頂で放置状態となった。 生存者発見の通知をうけた日赤の医師二名と看護婦二名は、警視庁のヘリコプターで十二時十三分に現場上空に到着し、救命用綱で降下した。 医師と看護婦による応急処置をしたのだが、その後まったく救護のヘリが来なかった。 山頂で生存者を見守る地元の消防団からも、「せっかく救助したのだから早く搬送してくれ、自衛隊のヘリに連絡してくれ」という声が次々上がる。 医師も声を荒げながら「物資や自衛隊員の降下よりも、救助された生存者を搬送することを優先させてくれ」とその場にいた自衛隊員に詰め寄り、直接交渉をした。 やっと救護用ヘリが到着し、十三時五分にようやく生存者のヘリへの収容が始まり、子どもから先にヘリコプターで機体に吊り上げられた。 落合さんは最後に担架ごとクルクルと回転しながら十三時二十八分に無事収容された。 生存者四名を収容した自衛隊ヘリのパイロットは十五分で到着するはずの上野村の本部の場所がわからないという。 そこで医師が必死に地図や地上の風景を見ながら場所を指示し、十三時五十分にようやく到着した。 結局、「生存者発見から猛暑の炎天下で三時間以上もかかってしまった」と述べていたのは、四名を救出した前橋赤十字病院外科部長の饗場庄一医師である。 さらに上野村役場から救急車で二時間近くも揺れるのは大変危険だと判断をした饗場医師は、子ども二名を再度別のヘリに乗せた。 最終的に生存者四名が藤岡の多野病院に着いたのは十四時二十分と記録されている。 前日の十八時五十六分二十八秒に墜落してから、すでに二十時間が経過していた。 なお、生存者は川上慶子さん(十二歳)、吉崎美紀子さん(八歳)、吉崎博子さん(三十五歳)、落合由美さん(二十六歳)の四名である。 当時、スチュワーデスと呼ばれていた客室乗務員だった私は、日本航空株式会社客室乗務員女子寮、通称スカイハウス(品川区港南)に住んでおり、生存者の一人、落合由美さんと同じフロアに部屋があった。 私の同期と落合さんが同じグループで親しかったこともあって、仲間と部屋で開く鍋パーティーにひょっこり顔を出してくれたこともあった。 陽気でカラカラと明るい声で笑う親しみやすい先輩であった。 一九八五年八月十二日のこの日、私は明日からのヨーロッパフライトに備えて寮の食堂で夕食を取っていた。 食堂のテレビでは、NHKの七時のニュースが流れていたが、突然、緊急放送が入った。 日航羽田発大阪行きの飛行機が行方不明という報道であった。 その時、食事をしていた全員の箸が一斉に止まった。 私も背筋がひやっとしたのを覚えている。 そのままテレビを見つめていた直後、スカイハウスのすべての部屋にひかれていた三百三十六台のダイヤル式黒電話のベルの音が一斉に響き渡った。 それぞれの家族や友人、知人たちが心配して電話をかけてきたのである。 ジリリリリーン、ジリリリリーン……。 怒りにも聞こえるものすごい音で、外を歩く人々が建物を見上げるほどであった。 一晩中電話が鳴り止まない部屋は、落合さんの部屋であった。 そして事故機に乗っていた客室乗務員は、私が新人時代に仕事を教えてもらった同じグループの先輩たちだった。 圧力隔壁修理ミスが事故原因だと公式発表されているが、現場でこの事故に関わった人たちの中には、腑に落ちない出来事が多数あり、それが今なお心の奥底に大きな疑問となって渦巻いていることにも気付かされた。 事故原因については一部の過激な陰謀説、根拠の薄い憶測も多々あり、それがかえって再調査への道を妨げていることもある。 私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた。 しかしながら、現場を知る人たちへのインタビューや膨大な新聞等の資料を読み込み、目撃情報や現場の証言をもとに考察を深めると、公式発表に対して違和感を覚えるようになっていった。 そして、それを語るとすぐに陰謀説と烙印を押されかねない状況を感じた。 もっとも、一般の人々には圧力隔壁修理ミス説が事故原因という報道しか届いていないこともあってしかたがないが、三十二年前の事故時の情報や状況にいまだに疑問を持ち続けている人たちがいることを知った以上、私の果たすべき役割はなにかを考えてきた。 逆に事実を一つずつ積み重ねていけば、新たな真実が見えてくるのではないだろうか。 そう思い、墜落現場となった上野村へ行き、当時の村長や消防団の方から話を聞いた。 当時の上野村の村長・黒澤丈夫氏には、取材時にあの日の記憶を語っていただいたが、十二日の晩にすぐ墜落現場は自分たちの村だとわかり、村民にも村内放送をして情報提供を呼び掛けていたという。 上野村に落ちたと政府関係者や県に連絡してもまったくテレビに反映されず、長野県やら小倉山やら偽の情報が流れていたことに怒っておられた。 また、川上慶子さんら生存者を最初に発見して救出した地元消防団の方や、歯型から遺体の身元を確定して検死を行った群馬県警察医の大國勉氏にもお会いして、たくさんの資料を見せていただき、話を聞かせていただいた。 大國氏も遺体の状況に大きな疑問をお持ちだった。 このように詳細に調べていくと、ますます事故調査委員会発表の事故原因は違うのかもしれないと大きな疑念を抱いた。 ちょうどその頃、日本航空が経営破たんし、負債総額二兆三千二百二十一億円というとてつもない金額で、会社更生法を申請したのである。 単行本 - ノンフィクション•

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日航機墜落事故の真相オレンジエアとは?ミサイル攻撃の可能性もあるって本当?!

日航 機 墜落 事故 原因

機体後部の圧力隔壁が以前の尻餅事故の済、十分な補修点検がされず、気圧の変化に対応出来ず、破壊破裂したのです。 この公式発表は真実でしょうか? ジャンボ旅客機の客室は、乗客が快適に過ごせるように、1気圧が保たれています。 ジャンボ旅客機が飛んでいる高々度は空気が薄く、4分の1気圧です。 そこで、その差0. 75気圧で、ジャンボ旅客機の尾翼を吹っ飛ばせるのかどうかが問題となります。 さて、ちょっとした物理学の問題です! 墜落したボーイング747は重量が、162. 4 tあります。 それに、524名の人が乗っていました。 平均体重を55kgとして計算すると、28. 82tとなります。 それに燃料とか乗客の荷物とかを合わせると、ざっと計算して200tぐらいになりますね。 その飛行機が時速約1000kmで空を飛んでも、壊れないように出来ているのです。 その機体の尾翼を破壊するためには、どのぐらいの力が必要になりますか? 計算も糞も要らないですね。 そもそも隔壁が一気に外れたから垂直尾翼が吹っ飛ぶような力が生まれるかというと不可能です、一気圧しかないのだからそれが4分の1気圧との差0.75気圧で垂直尾翼が飛ばせるかというと不可能ですね。 機体の中ではかなり頑丈です、時速1000キロで飛べるだけの力が働いてびくともしない尾翼が飛ぶわけがないですね。 では、真相は? 自衛隊のパイロットは、大型旅客機のパイロットをバカにしています。 それはF1レーサーが、大型バスの運転手をバカにしてるのと同じ理屈です。 (パイロット養成機関で良い成績を取った人が、自衛隊の超音速ジェット戦闘機のパイロットになり、そうでない人が、大型乗合旅客機のパイロットになるのです) そこで自衛隊のパイロットは、慢性的に大型旅客機を仮想敵機にして、射撃訓練をしています。 そして日航123便のときは、安全装置が解除されていたのに気付かずに、火薬の入っていない訓練用ミサイルを発射してしまったのです。 1971年7月30日、全日本空輸の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落しました。 自衛隊機の乗員は脱出に成功しましたが、旅客機は空中分解、162名全員が犠牲となった事故も、大型旅客機を仮想敵機にして接近しすぎたことが原因でした。 また、1952年4月9日、日航の「もく星号」が墜落したのも原因は同じだったのです。 自衛隊は同じ事故が重なって発生している為、真実を隠蔽するためことに躍起になっています。 このサイトにも、真実を隠蔽するための自衛官の書き込みが沢山ありますよ。 (私のこの書き込みに反論する輩も、自衛隊の隠蔽工作員です!) 私は、真実を隠蔽するために、救助を遅らせ、大勢の生存者を殺害した、自衛隊の隠蔽工作が何より許せません! (直ちに救出すれば、大勢の生存者の内の誰かの口から、ミサイルの誤発が世間に広まってしまいますから・・・) 陰謀論なんてのは東大卒のあるキチガイレベルの天才哲学者とか含めてマスコミに出てるそこらへんの凡人レベルの学者よりはるかに天才の人たちが、とっくに20年以上も前から本とか出して発表してた類のものなんですよ・・・でもマスコミが反日だからそういう情報がテレビでは長年放送禁止だっただけです。 凡人たちの集まりである一般社会はそういう天才たちの出している本とかには見向きもしないで仕事やら趣味やら恋愛やら遊びやらそんなことしか興味がなかったわけです・・・それがネット社会になってそういう情報がネットでやたら出回るようになった途端に凡人たちは陰謀論に夢中になり出しました・・・ ネットというのはテレビやマスコミと違って規制がまったくなく何でも情報を流せる無法地帯のフリーダムな世界なので 笑 そして陰謀論が流行り出した途端にそんなの常識だとか言い出すようになりました 笑 そしてああでもないこうでもないって今ネットで言い争ってます 笑 凡人たちは天才のいう非常識の世界をとことんバカにしてこき下ろして見下すくせに、それが流行し出したりある程度認められるようになるととたんに「そんなの常識だ」とか言い出します 笑 それが凡人の特徴です。 凡人は世間に評価されないキチガイの天才は理解できないからとことん嫌いですが、世間に評価された天才は「あーすげー俺も天才の気持ちわかる」っていう感じで認めてあげたくなるのです。 凡人と天才の愚かな歴史は繰り返されてます。 ネットで「凡人 天才」とかで検索すればそういうことが分かります。 特に最近の若者はネットのお陰で自分たちだけこそ真実が分かってるみたいに勘違いしている陰謀論中毒者が多いですので困ります。 1985年8月12日の日航123便墜落事故について、事故当日、相模湾で、海上自衛隊が実施していた誘導ミサイルの検証実験中の事故に巻き込まれたために、発生したと考えられます。 生存者の方の証言、クルーが酸素マスクを着用しないで、20分間、高度約7000㍍を維持したまま、操縦を継続したこと、機内を撮影した写真、乗客の方が遺書を書ける状況であったこと等から、日航機内に、頑強な垂直尾翼を破壊するような空気の流れは発生しなかったと思われます。 異常事態直後、機長は、気圧のことには言及しないで、「まずい、何か、分かったぞ。 」と発言した上で、「ギア、見て、ギア」と指示したのは、減圧兆候が見受けられなかったためであり、作動したのは、客室高度警報音ではなく、車輪の異常を報せる離陸警報音であったと考えられます。 日航機は、機体を安定させるために車輪を出し、山梨県大月市上空で右旋回をしながら高度を下げ、横田基地への緊急着陸体制に入っていましたが、地上での二次災害を回避するためとして、断念したと思われます。 山腹への不時着でありながら、事故直後には、衝撃が緩和された後部座席を中心に多数の方が生存し、結果的に、4名の方が救出されたのですから、最後まで諦めなかったクルーの姿勢は、高く評価させるべきであると考えます。 長野県川上村梓山地区に住む女性からの通報、米軍Cー130輸送機の搭乗員及び航空自衛隊員からの連絡により、事故直後に、現場は特定されていましたが、長野県御座山が事故現場であると、誤った情報を流すことにより、意図的に救助活動を遅らせ、証拠隠滅を図っていたと思われます。 事故翌朝、午前8時49分に、空挺部隊 習志野 が、現場に降下していますが、もっと早く救助活動を行っていれば、多くの方の命を救うことは可能であったと考えられます。 陰謀論はまずありえません。 自衛隊のミサイルが命中したなどと言う事もないです。 当時、相模湾では「やまゆき」が公試中で、同艦がたまたま123便の尾翼の破片を発見しました。 ですがその「やまゆき」はまだ自衛艦籍に入っておらず、試験は計画通りの最大速力が出るか、舵を切ったら問題無く旋回できるか、と言った船としての性能を測るものであってミサイルなど搭載しておらず、もちろんミサイルの試験など不可能です。 更に123便に異常が発生してから墜落するまで30分です。 この間に管制塔との間でも状況を把握するためのやりとりが必死で行われていますが、パイロットも尾翼が吹き飛んだといった被害状況を把握出来ていませんでした。 当然ながら担当の省庁である運輸省の航空局も正確な事態を把握するのに苦慮しており、多くの誤報に振り回されていました。 日航機にいかなる異常が生じたのかも分からない、墜落するかどうかも分からない、墜落するにしてもいつどこに落ちるかも分からないわけです。 もちろん中曽根総理に入る情報は、運輸省でまとめたものですから「日航機に異常があった」という以上の情報が当日に入ったとも思えません。 これでいかなる陰謀を実行出来るのでしょうか? しかも事故の翌月にはボーイング社が「しりもち事故の修理が不完全だった」事を認めています。 この事故はアメリカ政府も重視し、調査委員会にはアメリカから10人の国家運輸安全委員会のスタッフが送り込まれています。 つまり自衛隊による誤射だとするなら、世界的巨大企業であるボーイング社だけでなくアメリカ政府まで、そのような陰謀を了承させる必要があります。 日本政府が 「自衛隊の誤射でボーイング社の飛行機を打ち落として何百人も死者が出たけど、その責任をボーイング社の修理ミスのせいにしていいですか?」 と問うたとしてアメリカ政府が了承する可能性があるでしょうか? このように少し考えれば陰謀などあり得ない事が明らかです。

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日航機墜落事故の謎と原因が超ヤバい!関係者よ!真実を語れ!

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1985年(昭和60年)8月12日、東京・羽田発大阪・伊丹行きの日本航空123便が、群馬県の御巣鷹山尾根に墜落しました。 乗員、乗客合わせて524名を乗せたJAL123便の「日航機墜落事故」は、520名もの犠牲者を出した史上最悪の航空機事故となったのです。 また、日航機墜落事故は、520名もの犠牲者が出た一方で、重傷を負いながらも命が助かった生存者がいました。 生存者に至っては、当時、墜落現場に向かった自衛隊員が、ヘリコプターを使って救出しているところを、テレビニュースで見た人も多いかと思います。 この事故で生き残ったのは4人の女性。 ただ、当初の報道では、生存者は7人いるとか8人いると混乱していたようです。 そこで今回は、そのときの生存者4人の内の1人、川上慶子さんの現在や嫌がらせがあったこと。 また、日本航空123便が墜落して救助に向かった自衛隊員が射殺された、生存者を殺害したというウワサについても調べてみました。 日航機墜落事故の生存者に嫌がらせ 日航機墜落事故は、520名の犠牲者を出しましたが、4人の生存者が発見されました。 奇跡的に助かったのは、日航客室乗務員で、当日客として乗り合わせていた落合由美さん、吉崎博子さんと美紀子さんの親子、当時12歳だった川上慶子さんの女性4人で、全員が機体後部の座席にいた乗客だったのです。 ただ、墜落事故直後の日本経済新聞には、「生存者7人発見」、朝日新聞には、「生存者は8人」との見出しが飛び交ったのでした。 しかし、これらの情報は結局、誤報だったことが判明するわけですが、なぜ新聞各社は当初、生存者を7人や8人と報道したのでしょうか。 その原因は、人数確認のミスでした。 最初は「生存者3名」と報道され、続いて「男の子とみられる1名を発見」で4名。 そのあとに少女1名が生存と判明し、女性が計4名に。 続いて「女性3名発見」で7名となり、「男の子の見られる1名」が追加されて8名になったのです。 このように、現場は当初、混乱して生存者の「ダブルカウント」が発生。 その後になって、ようやく生存者は女性4名と確定する報道に切り替わったのです。 そこで生存者4人の現在を調べてみると、親子で助かった吉崎博子さんは現在68歳、美紀子さんは42歳になっていて、今もいっしょに東京都内にある母方の実家で元気に暮らしているといいます。 落合由美さんは現在59歳になっていて、大阪府内で暮らしているとか。 それに落合由美さんは、事故から長くして取材には答えていないようです。 ただ、何年にもわたる日航側の講演要請に対し、安全教育セミナーを開いて、事故前後にあった自身の近況などを語ったということです。 そして、北海道旅行の帰りに家族で123便に搭乗していた、川上慶子さんは現在46歳になっています。 家族の中で唯一助かった川上慶子さんは、事故後、島根県で祖母と123便に搭乗していなかった兄の3人で生活していました。 しかし、墜落事故のニュースで有名になったため、嫌がらせの電話がかかってきたり、ストーカーまがいの行為に長く悩まされたといいます。 その後の川上慶子さんは、保健士だった母親の遺志を継いで、兵庫県の病院で看護士となって働き始めたとか。 そんな慶子さんは、やがて趣味のスキューバダイビングがこうじて、アメリカで現地の男性と知りあい、2002年秋に結婚。 現在は、看護師を辞めて、会社員の夫と2人の息子、娘といっしょに、西日本の都市でひっそりと暮らしているそうです。 日航機墜落事故の原因と自衛隊が殺害? 1985年(昭和60年)8月12日、JAL123便が相模湾上空で垂直尾翼を失い、制御不能となって群馬県の御巣鷹山に墜落しました。 ところがこの「日航機墜落事故」は、原因に不可解なことが多いため、陰謀説もささやかれるのです。 中でも「自衛隊のミサイル誤射」、「米軍の撃墜」などの陰謀説がネット上に駆けめぐっているわけですが、いまだ墜落原因の真相究明には至ってません。 また、墜落原因の「自衛隊のミサイル誤射説」を唱える青山透子氏の著書には、自衛隊が生存者を殺害したかのようなことも書かれています。 ただ、自衛隊がJAL123便を撃ち落とし、生存者を殺害したというのは考えられないことなので、この話はまったくのデマでしょう。 その証拠に後の事故調査報告書では、123便の墜落原因として次の3つが考えられると公表しています。 1、 圧力隔壁の損壊 飛行中に事故機の後部圧力隔壁が損壊、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に漏れ出した。 これに伴い機体尾部と垂直尾翼が破壊された。 また、4つの油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出。 機体は操縦機能を失った。 2、 金属疲労と亀裂 圧力隔壁の損壊は、接続部の金属疲労により亀裂が生まれ、隔壁の強度が低下。 そのために、与圧に耐えられなくなったことで生じたと推定できる。 3、 過去のしりもち事故 当該機は1978年に「しりもち事故」を起こしている。 その際、ボーイング社による修理が不適切だったこと。 また、点検で、これらの異常を発見できなかったことも事故原因の一つである。 しかし、この事故調査報告書は、1999年11月に廃棄処分されています。 さらに、機長の声が入っているボイスレコーダーの録音テープなどの資料も処分されたというのだから、「政府にとって都合が悪いことを隠ぺいしてる」と思われても仕方ありません。 とりあえず、日航機墜落事故の陰謀論は、この先も続くだろうし、真実についても一生語られることはないのかもしれないのです。 その中で100パーセント分かっているのは、4人の生存者がいたということだけです。 日航機墜落事故 自衛隊の射殺報道とは? 日航機墜落事故は、もっと早く現場に救出に向かっていたら、ほかにも助かった人がいたはずだと言われています。 事故直後は、生存者4人以外にも、生きている人たちがいたという証言もあるようです。 しかも、米軍が墜落した場所を特定していたのに、救助せずに突如現場を引き返すという謎の行動もあったのだとか。 このように、あまりにも不可解なことが多い「日航機墜落事故」ですが、ニュース速報に流れたときにも不思議な出来事があったそうです。 私自身は知らなかったことですが、123便が墜落したした際、NHKニュースが「長野県警によると、待機していた自衛隊員が何者かに銃撃されて、射殺されました」というテロップを出したといいます。 しかし、後になって、「自衛隊員が射殺されたというのは誤報でした」というテロップが流れたのだそう。 この誤報テロップは、3回ほどニュースの中で流れ、アナウンサーが謝罪していたということなのですが、はたしてそんなことが本当にあったのだろうか。 ネット上では「そのようなテロップは流れていない」という声や、「待機命令を無視して救助に向かった自衛隊員が、1名射殺された」とニュースが流れていたという声もあります。 どちらが本当にせよ、個人的には「自衛隊員が射殺された」というニュースが流れたのは、誰かの作り話で、デマだった可能性の方が高いと思います。 日航機墜落事故で亡くなった著名人と搭乗する予定だった芸能人 日航機墜落事故では、著名人も犠牲者となりました。 『上を向いて歩こう』で知られる歌手の坂本九さんが、日航機墜落事故の犠牲者ということは有名です。 ほかにも、宝塚歌劇団の北原遥子さん、阪神タイガース球団社長の中埜肇さん、ハウス食品代表取締役社長の浦上郁夫さんら財界人も、123便に搭乗していて亡くなったのです。 一方、墜落したJAL123便に搭乗していたはずが、予定変更になって搭乗しなかったため、命が助かった芸能人もい、ました。 事故した123便に搭乗する予定だった話で、有名なのは明石家さんまです。 さんまは事故当日、「オレたちひょうきん族」の収録があって、その後に123便で大阪入りするはずだったとか。 ところが、収録が早く終わったため、1つ早い便に変更して難なく事故を免れたのだといいます。 自分の子供・いまるは、日航機墜落事故から生まれた座右の銘「生きてるだけで丸儲け」から名付けたそうです。 ほかにも稲川淳二が当日、体調が悪くなって123便の搭乗を回避。 大阪入りを次の日にして、飛行機から朝一番の新幹線に変更していたのです。 また、1993年にがんで亡くなった逸見政孝さんも、家族4人でJAL123便に搭乗する予定だったとか。 しかし、息子の逸見太郎が「4人なら新幹線の方が安い」と直前に言いだしたため、大阪へは新幹線を利用して事故を回避したということです。

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