ベルリン の 壁 崩壊。 知ってた?ベルリンの壁は、ある男性の「勘違い」によって崩壊した

ベルリンの壁の歴史をわかりやすく説明します。なぜ作られたのか。なぜ崩壊したのか。

ベルリン の 壁 崩壊

1990年1月8日のライプツィヒ月曜デモ。 「我々は一つの新しいドイツを求める」「我々は一つの民族だ」といったプラカードや、が入った旗が掲げられている 1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は、たんに国境の開放に留まらず、東ドイツという社会主義統一党体制の終焉を意味していた。 11月13日、内閣が発足した。 モドロウは政治・経済の改革を表明し、23日には社会主義統一党がホーネッカーの不正調査の開始、在野勢力への開催の呼びかけ、第1条に定められている「」条項の削除を表明し、を放棄した(12月1日に憲法改正)。 12月3日、社会主義統一党は緊急中央委員会総会を開催し、クレンツ以下政治局員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員辞任し、ホーネッカー、シュトフ、(前)らは党を除名された。 クレンツは6日に国家評議会議長も辞任し、わずか2か月足らずでクレンツ政権は終わった。 12月8-9日に開かれた社会主義統一党の党大会は、党名を SED-PDS に改名し、1990年1月にはクレンツやシャボフスキーも党から追放された。 こうして社会主義統一党の一党独裁制は崩壊し、モドロウは政治・経済の改革を表明すると同時に早急な東西ドイツ統一を否定し、条約共同体によるを提唱した。 しかし、壁の崩壊後1日約2,000人の東ドイツ国民が西へ流出し、の価値は10分の1に暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった。 12月、モドロウはコールに対し150億の支援を要請したが、コールはこれを拒否した。 また、知識人たちは「民主的な社会主義国家」としての存続を模索していたが、民主化の過程で明るみに出たホーネッカーら社会主義統一党の旧幹部達の不正や贅沢行為に一般労働者たちは怒り、社会主義そのものに対して否定的になっていった。 やの機能は停止し 、国民を抑圧していた国家保安省の出先機関が群衆に襲撃されるようになっても、東ドイツ政府は何の手を打つこともできなかった。 結局、東ドイツの旧政権幹部たちが恐れていたように、「社会主義のイデオロギー」が崩壊した東ドイツは国家として存続できなくなり、崩壊していったのである。 東西ドイツ統一 式典() ベルリンの壁崩壊に対して、、、などから祝辞を送られ、そして壁崩壊時の混乱と不手際、西側への流出の増大で経済状況が逼迫した東ドイツの急速な弱体化が、東西ドイツの統一に向けて動き始めた。 それはのソビエト連邦とイギリス、アメリカ、フランスによる以降、にとっては悲願であった。 は、ベルリンの壁崩壊に反対していたに、統一ドイツはよりも広大な領土を手に入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになると語った。 ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが(NATO)に参加することを恐れていた。 のであった(父ブッシュ)も、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。 西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。 東ドイツのモドロウ政権は円卓会議を開き、自由選挙の実施、新国家のための新憲法草案の作成まで決定していた。 しかしながら3月、が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求めるを中心とした勢力が国民の支持を受けて勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定した。 こうして東西ドイツの統一は、ソ連、ヨーロッパ諸国、アメリカ、そして西ドイツ首脳が考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。 この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」、そして東ドイツの国家としての崩壊であった。 結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年、悲願の東西ドイツの統一が実現した。 10月3日の統一式典では、ベルリンのに「」が揚げられ、のが演奏された。 しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。 東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。 これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。 統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。 ドイツの再統一は、東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。 結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。 世界屈指のであった旧西ドイツと旧東ドイツのは一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。 現在でも東西の格差は残されたままである。 また旧東ドイツではに適応できなかった旧のによって者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへのなどが足かせとなっての低迷を招いた。 このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。 東西ドイツの統一に関する法的な見方については「」を参照。 冷戦終結 ベルリンの壁の一部をブッシュに贈るドイツ外相の ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させるを展開していたが、ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。 ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立った。 壁崩壊から1か月後の1989年、アメリカの父ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフの両首脳がし、冷戦の終結を宣言した。 東欧全域への民主化革命の波及 ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたややのみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。 ベルリンの壁崩壊の同日、でがを辞任し、その後国家評議会議長の職も辞した。 には、でが発生し、ポーランドのでは(の前身)の設立者の銅像が三つ裂きにされて撤去された。 そして、マルタ会談の直後のにはが発生した。 また、東欧同様、ソ連の衛星国であったでも、壁崩壊後の一ヵ月後の、を中心とする民主化デモが発生した。 にかけては進展し、の一党独裁体制が崩壊し新憲法制定、複数政党制の導入が実現した。 そして、ベルリンの壁崩壊から2年後のにはが独立し、1991年にはの元祖であった。 ベルリンの壁のその後 壁が撤去された後の路面に残された刻銘 壁の倒壊後、壁自体が変貌した。 破壊された壁の断片が盛んに取引され始め、東ドイツの末期の最大の輸出ヒット商品となった。 ハンマーと鑿で東ドイツ政府が所有する建造物に叩きつけて破片を持ち去る人が後を絶たず、東ドイツは壁は民主共和国の人民財産であるとして無秩序な壁の破片の売り出しの阻止に動いた。 そして民主共和国の貿易商社に壁の商品化を委任し、真贋証明書を発行して売り出し、その販売利益で国の健康保険制度を立て直す予定をしたが、やがて国自体が消滅した。 それでも60トンの「ベルリンの壁のパーツ」が海路でアメリカに運ばれ、ボストンとシカゴのラジオ局が「自由の石塊」として破格の安値30ドル売り出した。 多数の西ドイツ人が数千ドイツマルクで壁の一区画をそっくり買い取った。 ロンドンの競売所がで大量の壁区画延べ100mを一区画当たり最高で3万ドイツマルクで競売にかけ200万ドイツマルクを荒稼ぎした。 購入者の中には「鉄のカーテン」という言葉を作ったイギリスの元首相のの孫娘もいた。 その後には、ベルリン市がベルリンを表敬訪問した外国の賓客に壁の残骸をプレゼントし、世界中に配った。 その中にはロナルド・レーガン、ジョージ・ブッシュのアメリカ大統領の名もあった。 しかし国の消滅とともに無秩序になり、壁破砕装置を使って多くの場所でたちまち粉砕されて道路建設の基盤材として使われ、東西間の道路網に敷かれたりした。 往時の壁の95%以上は壁撤去時に破壊されて、わずか数百の壁区画がそのまま保存され、ベルリンのいろんな場所に総延長1. 5キロの壁が存在するだけで大半が失われている。 東ドイツそのものが、ソ連に政治的にも軍事的にも依存し、その経済的支援とともに軍事的支援(国内にソ連軍が存在すること)がホーネッカー政権を支えていた。 この日ゴルバチョフは駐東独のソ連大使コチュマソフを通じて、東ドイツ市民のデモ隊の制圧に駐独ソ連軍を使わないよう、駐独ソ連軍の司令官スネトコフに指示していた。 (ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P485)• この声明は社会主義統一党『』に12日に掲載された。 シュトレーレッツは「」と訳されているがでは旧で上級大将を意味した "Generaloberst"は「大将」で、は" "Armeegeneral"。 ホーネッカーが中央委員会で解任され失脚した日時を、10月18日とする出典も散見される。 これは17日の政治局会議で中央委員会に対して解任を求める動議を提出することが可決され、翌日の中央委員会総会で解任動議が可決されたことにより正式に退任したからである。 この措置は、それまでと違い、二国間協定に基づくものであったので、その意味は大きく、西ベルリンの新聞「ターゲスツァイトゥンク」紙の記事でジャーナリストのクラウス・ハルトゥングが「誰も正しくは気付いていない。 壁が崩れたということを」として「象徴が崩れたのではない。 現実が崩れたのだ」と記している。 チェコと東ドイツ国境が開放され、続いてチェコと西ドイツ国境が開放されたことで、もはや後戻りはできず、その次の選択は西ベルリン及び西ドイツとの国境を開放するしか東ドイツの選択は残っていなかった。 この決定の不可避的帰結がわずか6日後の11月9日であった。 このモドロウが閣僚評議会議長(首相)に正式に就任したのは5日後の11月13日である。 この8日時点で政治局員が総辞職し、内閣の閣僚も総辞職したと各資料に述べているが、そうであるなら8日から13日まで首相は不在であったことで、11月9日夜は全く政権が機能していなかったことになる。 このドイツ民主共和国の政権交代時の空白の時間が壁の崩壊に多分に影響があったと解される。 出典によって表現が違う。 そんなことをしたら、支離滅裂な対応になり、一度に大量の東ドイツ国民が国を去り、国が崩壊すると予想した。 直前のハンガリーやポーランドでの事態では「追放」で再入国を認めないものであった。 クリストファー・ヒルトンは昼12時に中央委員会に提出されて、12時30分に中央委員会で承認され、すぐに閣僚会議に付託され、午後3時30分にクレンツの下にゴム印の押された提案書が戻ってきたとしている。 H・A・ヴィンクラーは、これによって「11月10日という報道解禁日」は事実上なくなったと述べている。 また閣僚評議会から発表すべきとの内相の発言は政令が「閣僚評議会議長令」だからであることが、その理由であった。 そうであればシャボフスキーは政府スポークスマンとして閣僚評議会の発表を行ったことになるが、実は閣僚評議会のスポークスマンは別にいたことになっている。 ただしこの記者会見の場での他の発表内容は中央委員会での討議内容であった。 シャボフスキーは元(党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」編集長)で弁舌が巧みであったため、マスコミや在野団体に応対する役割をしていた(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24)。 なお、当時の彼の役職は党中央委員、政治局員、ベルリン地区委員会第一書記(党のベルリン支部長)、人民議会議員であった。 クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」 下巻 181Pではクレンツは彼に紙切れを手渡し「これを発表するように。 爆弾発表だ」と言った、シャボフスキーはこの時にその内容を読まなかったという。 他に 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』24P ではシャボフスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡され、「こいつを発表しろよ。 こいつは大当たりするぞ」と言われたという。 これはシャボフスキーの回想によるものだが、クレンツの回想によればシャボフスキーが発表しても良いかどうかを尋ねたことになっている。 中央委員会が行われた党本部から、この各国の記者が集まった会見場 国際記者会館 までは、直線距離でわずか200~300mの近さであったが、道路を走るため公用車を使っていた。 但し資料によっては100人の記者が出席していたとするものもある。 エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」では閣僚評議会の諸決定の報告をしていたと記している。 エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207P参照• 2009年6月10日閲覧。。 但しエールマン自身はこの報道を否定しているという情報もある。 それぞれ出典が違うが、前後関係からシャボフスキーの言い方はこのような流れであったと思われる。 この質問をしたのは、エールマンでなくアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者であるとヴィクター・セベスチェンは書いている。 ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』509-510P• この言葉は、他に「私の知る限りでは、今からすぐにです」 、「私が知っている限りでは、即座に遅延なくです」 グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P 、「私が承知している限りでは、直ちに遅滞なく発効します」 エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P と訳されている。 クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」では、政令案はこの日午後に中央委員会から閣僚会議に付託されて、午後3時30分にクレンツの元に書類が戻ってきている、と述べている。 エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」ではシャボフスキーは「閣僚評議会」の諸決定を報告したとしている。 1961年8月12日の壁建設時に夕方に中央委員会で決定し、夜の園遊会で酒を飲んでいた閣僚連中にウルブリヒトが突然署名を求めた歴史の経過から、閣僚会議が全く形ばかりの組織であることは明らかだ。 首相の任免は中央委員会で行っており、中央委員会が閣僚会議より上位に位置していることで、実際アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」でシャボフスキー自身が寄稿した文では、彼が記者会見に持っていった文書は政府通達の草案で、新しい旅行法が不十分で抗議の動きが強まっていたために政令の発表を急ぐ必要があったと記し、「我々の決定について政府は何も知りませんでした」と書いている。 (アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」136-140P 参照)ましてシュトフ閣僚評議会議長(首相)が前日に解任されて後任にモドロウが決定したが正式就任が13日であることで、この場合は閣僚会議の議決の可否は大きな問題ではなく、シャボフスキーは勘違いではなく、形だけの閣僚会議のことは全く考えていなかったと解される。 ベルリンでは電波が相互にするため、という言説は正確ではない。 余分に電波が飛んでいる状態ではなく、政治的に対立している地域ではお互いに電波が遠くまで届くようにするもので、東西ドイツ間では相互に認めている状態である。 それが自由主義の宣伝にもなり、東ドイツの人々は西側の番組を知っていた。 「ボルンホルマー通り」と表記する資料もある。 通称チェックポイント・チャーリーとして有名であり、1961年10月に米ソで戦車を動員にして対峙した所であり、また西側3ヵ国の軍関係者はここだけ通過が認められている検問所である。 国境検問所には直接窓口で対応するパスポート審査官と、外で保安活動を行う国境警備隊とは現実に任務が分かれていた。 国境警備隊はあくまで検問所の外側でのいわゆる治安維持を含めた規制などの警備を行い、パスポート審査官は検問を通過する者のチェックや認証などの窓口業務を取り仕切った。 そしてこのパスポート審査は国家保安省 シュタージ の管轄であり、市民が出入りする場所である検問所の全ての責任はこのパスポート審査官が負っていた。 従って現場での最高責任者は国境警備隊ではなく、パスポート審査官であった。 ただし、異説として、この11月9日夜に限って各検問所のパスポート審査の責任者全員が内務省の会議に呼び出されていたために、この夜は各検問所も副官が留守を守っていたとして、決断を下すべき本来の責任者はどこの検問所にも居なかったとしている。 残っていたメンバーで一番経験の長い者がこの困難な状況下で歴史的な決断を下す夜になったことになる。 そして1989年11月9日夜のボルンホルマー通りの検問所の最高責任者はパスポート審査官であるハラルト・イエーガー司令官であった。 後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになった ハラルト・イエーガー ()。 Yannick Pasquet 2014年11月9日. 2014年11月11日閲覧。 ギュンター・メルと表記する資料もある。 チェックポイント・チャーリーで最終的に彼が国境の開放を決断することになるが、彼はパスポート審査官ではなく、警備隊の指揮を取っていたと思われる。 またモルはイエーガーと違ってシュタージには在籍しておらず、チェックポイント・チャーリー内ではシュタージでもあったイエーガーとはまた別の立場であった。 1936年のベルリンオリンピックのメイン会場となったスタジアムである。 戦後は連合軍の施設となり、西側の軍関係者が集まる社交場でもあった。 チェックポイント・チャーリーのあるフリードリッヒ通りの地下に地下鉄の駅はあるが、それは西側の駅であり、東側には壁付近に近い駅はない。 越境や逃亡を防ぐためである。 西側3ヵ国の軍関係者は1961年の壁建設以後も東ベルリンに行くことは可能であった。 戦後の4ヵ国協定で米英仏ソの4ヵ国はベルリンの東西を往来することは認められていて、相互に軍用車に自国の旗を立てて、他国の占領管理地区をパトロールを行っていた。 当初アメリカ軍は1日おきに昼間と夜間に4~5台が東ベルリンをパトロールし、その後毎日実施していた。 これはソ連占領地域に出入りする権利を持つことを誇示し、その権利を行使することを示していたが、ソ連側も同じように西ベルリンをパトロールしていた。 同じに起こったの影響もあり、すでに東ドイツの全ての軍隊はあらゆるデモに対して武力制圧をすることを拒否していたため、武力をちらつかせての威嚇や武力制圧という手段はまず不可能であった。 ベルリンの国境検問所は東側は東ドイツが管理しているが、元はソ連であり、米英仏の西側3ヵ国とソ連とでベルリンを管理している形は戦後変わらずにきている。 東ドイツが何としようとベルリンの管理は米英仏ソの4ヵ国が取り決めていることで、アメリカ軍の相手は東ドイツでなく、ソ連軍であった。 そしてこの時にソ連軍は50万人の兵士が東ドイツにいた。 ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ではモル司令官が「独断」でゲートを開かせたと述べているが、正確には「独自の判断」と表現しており、勝手に動かした訳ではない。 しかもこの時点はボルンホルム通りのイエーガーの決断から1時間も過ぎており、他の検問所もすでに開き、しかもチェックポイント・チャーリー内のパスポート審査官 シュタージ の同意を得ており、独断とは言えない。 なおマイケル・マイヤー著「1989 世界を変えた年」ではこのチェックポイント・チャーリーの国境開放は11時17分としている。 この西ドイツの国会で自然発生的に国歌が歌われたことについて、11月9日夜ではなく、翌日の11月10日とする説もある。 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」では11月10日の午前中の出来事で、歌われた国歌は『すべての上に君臨するドイツ』で始まる一番であった。 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」249P参照• あくまで的なを否定しただけでありマルクス・レーニン主義自体を放棄した訳ではない。 正式な楽曲リリースは1992年のアルバム『JOURNEY THE ALFEEのアルバム JOURNEY』• アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」145P• アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」194P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」104P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」105P• , p. メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』56P参照• , pp. 272-273. 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』( 1992年 )P3-4• 北島瑞穂 著「ドイツ現代史探訪」第4章 もうひとつのドイツの記憶 144P• , p. , pp. 89-90. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」198-199P• ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」 372-376P参照• ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」 453-454P参照• マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』184P• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P82• マイヤー『1989 世界を変えた年』P206• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P6• グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」プラハの西独大使館 253P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」200P• Hasan Suroor. Hindu 2009年9月15日. 2011年11月3日閲覧。 Michael Binyon 2009年9月11日. Times UK. の2011年7月16日時点におけるアーカイブ。 2011年7月16日閲覧。 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P83• アンケ・シュヴァルタウ、コルト・シュヴァルタウ、ロルフ・シュタインベルク共著『ベルリンの壁崩壊 フォト・ドキュメント1989. 「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である。 ドイツ民主共和国は 労働者階級とその政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。 」 Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9• ヴィクター・セベスチェン著 三浦元博・山崎博康訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』(白水社 2009年 )P484• ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P484• マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P249-250• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11• 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』( 1990年)P100-101• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11-14• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P14-15• ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P494• 三浦・山崎『東欧命-権力の内側で何が起きたか-』P18-21、P26-29• ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」497-499P• ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」500-501P• ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」502P• 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』P101• マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』265P• マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』266P• グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P• マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』274P• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P21-22• アンケ・シュヴァルタウ、コルト・シュヴァルタウ、ロルフ・シュタインベルク共著『ベルリンの壁崩壊 フォト・ドキュメント1989. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P20-21• マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』271-272P• マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』272-273P• グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P• ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』507P• ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』507P• , p. 172. マイヤー『1989 世界を変えた年』P275• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P23• グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P• マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』274-275P• ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』508P• マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』275P• グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207P参照• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207-208P参照• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」208P参照• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」208P参照• 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』102P参照• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」209-210P参照• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24 マイヤー『1989 世界を変えた年』P275-277 Hans-Hermann Hertle: Chronik des Mauerfalls. Auflage. Links, Berlin 2006, S. 145 参照• 186. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24-P25参照• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P25• , pp. 118-119. , p. 187. ヴィクター・セベスチャン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』510P• , p. 224. 190. , p. 227. Yannick Pasquet 2014年11月9日. 2014年11月11日閲覧。 , pp. 189-192. , p. 188. , pp. 197-198. , pp. 192-193. , pp. 199-200. , p. 201. , p. 208. , pp. 208-210. , pp. 8-9. , p. 200. 210. , p. 211. グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P• , pp. 211-212. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P511-512• , p. 215. , pp. 215-217. , p. 219. , pp. 219-220. , pp. 213-215. , pp. 222-223. , pp. 223-225. , pp. 227-229. , p. 223. 232. , p. 234. , pp. 235-236. , p. 237. , p. 236. 245. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P514• , p. 247. , p. 251. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512-513• アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」139-140P参照• マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』279P• 『ベルリンの壁崩壊 フォトドキュメント』5P及び 49P参照• グレゴーア・ショルゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』249-250P参照 三元社 2015年• ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」515-517P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」215P• アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」193P• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」214P参照• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P29-33• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P33-34• 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P37• メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P120• Helen Nugent 2009年9月10日. Times UK. の2011年5月12日時点におけるアーカイブ。 2011年5月12日閲覧。 朝日新聞 1989年11月19日付 7頁• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」217-218P参照• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」218P参照• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」219-220P参照• エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」220P参照• , p. 194. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P515• 『ダライ・ラマ自伝』• 2014年11月8日.

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【ベルリンの壁崩壊の語呂合わせ】年号(1989年)の覚え方を紹介!【おすすめ5選】

ベルリン の 壁 崩壊

ベルリンには「壁」まつわるスポットがいくつも残されています。 写真はアーティストが壁画を描いた「イーストサイドギャラリー」 町が東西に分裂されたうえに壁が建設されるという、波乱万丈の歴史を持つベルリン。 ベルリンの壁をたどることは、この街の歴史、ドイツの歴史をたどることにもつながります。 壁が崩壊して30年を迎える2019年。 ベルリン観光のハイライトとしてベルリンの壁めぐりはますます人気を集めています。 ベルリンの壁とはいったい何だったのか……ここでもう一度おさらいしておきましょう。 2019年は壁崩壊から30周年を記念して様々なイベントが開催されます。 この機会にぜひベルリンを訪れて壁をたどり、当時に思いを馳せてみてください。 壁ができる直前のブランデンブルク門付近 写真はポストカードより) 第二次世界大戦後、連合軍(米・英・仏・ソ連)によって西ドイツと東ドイツとに分割された敗戦国ドイツ。 東ドイツはソ連が統治しましたが、そのなかにあったベルリンはさらに分割され、西ベルリンを米・英・仏が、東ベルリンをソ連が管理することになりました。 つまり、東ドイツ国内にありながらも西ベルリンだけは西ドイツに属するという、まさに陸の孤島のような状態になったのです。 資本主義の西ドイツと、ソ連社会主義の東ドイツの経済格差は徐々に大きくなっていきました。 東ドイツの経済が悪化していくのに対して、西ベルリンが属する西ドイツの経済は成長を続け、市民の生活も格段に豊か。 当初は東西ベルリンの行き来は自由だったので、自由で良い暮らしを求め東ベルリンから西ベルリンへ亡命する人は増える一方でした。 壁ができた1961年当時の写真(Bernauer通りの野外展示場より) 兵士のなかにも西へ逃げる人がいました 東ドイツから切り離されて文字通り「陸の孤島」となった西ベルリンですが、事実上この壁は東ベルリン市民を東側に閉じ込めるためのもの。 有刺鉄線が張り巡らされた3mの高さの壁には厳重な警備が置かれ、東ベルリン市民は近づくことも許されませんでした。 ベルリンは東西冷戦の中心地となり、その象徴であるベルリンの壁がなくなる日は永遠に来ないものと思われていました。 自由化デモ、平和運動の広がり 80年代後半になるとデモが拡大(チェックポイントチャーリー付近のパネル写真より) 1980年代後半になると、ハンガリーやポーランドなど東欧諸国で改革の動きが見られるようになりました。 1985年にソ連の書記長に就任したゴルバチョフ氏が実施した改革「ペレストロイカ」をきっかけに、自由化を求める声はますます高まっていきました。 1989年にハンガリーとオーストリアの国境が解放されると、東ドイツからチェコスロバキア、ハンガリーを経由して西ドイツへ渡る人が増加。 同時に東ドイツでは自由を求めるデモへの参加者が増え、どんどん拡大し広がっていきました。 なかでもで1982年から毎週月曜日に行われていた平和運動は有名で、壁崩壊への導火線となったといわれています。 その後の記者会見でギュンター・シャボウスキー政府報道官は、いつから発効するのかとの質問に「ただちに」と回答してしまいます。 じつはこれは混乱のなかでおきた彼の勘違いで、本来なら発表と発令は翌日行われるはずでした。 シャボウスキーによる世紀のうっかり発言(後に「 歴史上最もすばらしい勘違い」と称されます)をきっかけに「今すぐ壁を越えて自由に出国できる」との報道が広がり、東ベルリン市民が大挙して壁に押し寄せ国境が解放されることとなりました。 こうして、28年間存在し続けた「越えられないもの、変えられないもの」の象徴だった巨大な壁がついに崩壊したのでした。 そして一年後の1990年、10月3日に東西ドイツの再統一が実現。 国民による非暴力革命が成し遂げられたのです。 ベルリンの壁の跡 かつての検問所、チェック・ポイント・チャーリー。 隣の壁博物館では壁にまつわる悲劇や逃亡の様子を知ることができます ベルリンの壁崩壊後、そのほとんどは撤去されたものの一部記念碑として残されているところもあります。 有名な「イーストサイドギャラリー」や「壁博物館」などにくわえ、この数年でまた新たな施設もオープン。 ベルリンの壁を知ることは、ベルリンとドイツの激動の歴史を知ること。 ひいては人類の負の歴史を知り「平和」について考えるきっかけにもなります。 崩壊30年を迎えてますます注目を集めるベルリンの壁。 無料で公開されているところもたくさんありますのでぜひ訪れてみてください。 こちらを参考にどうぞ>>> 【関連記事】•

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ベルリンの壁、建設から崩壊までと今 ドイツ/ベルリン特派員ブログ

ベルリン の 壁 崩壊

「ベルリン」と聞くと多くの人が「ベルリンの壁」という言葉を思い浮かべますが、じゃあそれは結局何だったのか?を知っている人は少ないと思います。 10月3日のドイツ統一記念日も間近ですし、今回はベルリン特派員ブログ6年目にして初(!)の、ベルリンの壁に関する記事です。 現在はベルリンで最も人気の観光スポットのひとつになっている「 」。 現存する最長のベルリンの壁で、世界各国のアーティストがペイントを施したオープンギャラリーとなっている。 <ベルリンの壁とは?> まず、ベルリンの壁はどこにあったのでしょうか?この図を見るとよくわかります。 *ポツダマー・プラッツにある壁に関する展示物の写真に、私が補足を書き込んでいます そうです、壁に囲まれていたのは「西ベルリン」で、これは要するに「東ベルリン(東ドイツ)」の人たちが西側に入れないように、と建てられた壁だったのです! では、なぜそんな壁が必要だったのでしょうか? <ベルリンの壁が建設された理由> 第二次世界大戦後、敗戦国となったドイツは連合軍(米、英、仏、ソ連)によって占領され、東西に分断されました。 首都であったベルリンはソ連統治となった東ドイツの中心に位置していましたが、同じように分断されて4か国の管理下に置かれることになったため、米、英、仏が管理する西ベルリンは東ドイツの中にぽつりと浮かぶ西ドイツの離れ小島のような位置づけになってしまったのです。 こうして西ドイツと東ドイツという2つの国家が生まれましたが、資本主義の西側と社会主義の東側の経済格差は開く一方だったので、自由な暮らしを求めて東から西へ亡命する人が後を絶ちません。 実際に、1961年に壁が建設されるまでに東ドイツ市民の6分の1が西側に逃げたとのことで、「このままでは東ドイツ市民がいなくなってしまう!」と危機感を抱いた東ドイツ首脳部によって、「壁をつくって東西の人の行き来を阻む」という強硬手段がとられたのです。 最初は鉄条網によって分断された東西ベルリンの境界線は、やがて3mの高さのコンクリートでできた「ベルリンの壁」となります。 東側の市民は壁に近づくことすらできないように緩衝地帯が設けられ、壁を越えて西側に逃げようとした多くの東ドイツ市民が監視の東ドイツ兵により射殺されました。 ベルナウアー通りにある、当時の緩衝地帯を再現した場所。 手前がいわゆるベルリンの壁、その向こう側は幅数十メートルの更地で、監視塔から常に東ドイツ兵が東ドイツ市民を見張っていた。 <壁の崩壊> このまま東西間の冷戦は続き、ベルリンの壁がなくなる日など来ないのではないかと思われた1985年。 ソ連でゴルバチョフが ペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)をスローガンとする国内改革を実施したことにより、その影響が東欧諸国にも広がりました。 徐々に民主化の波が広がり、1989年には東ドイツ市民の間でもデモや民主化運動が激化。 その波を抑えきれないと判断した東独首脳部の判断により、11月9日の夜に 国境ゲートを開放。 集まった東ドイツ市民はベルリンの壁によじ登って歓喜の声を上げました。 これが、事実上のベルリンの壁の崩壊だったのです。 現在も、壁があった場所には石が埋め込まれていてどこが壁だったのかわかるようになっている。 <ベルリンの壁の現在> 壁の崩壊から約1年後の1990年10月3日に、東西ドイツは再統一を果たしました。 ベルリンの壁の跡はほとんどが撤去されましたが、一部記念碑として残されており、無料で見学できるようになっています。 今はドイツ人だけでなく世界中からの観光客が壁の跡地を訪れて、その激動の歴史に思いを馳せています。 資料館にある展望台に上がると、前述した緩衝地帯の様子を上から見ることができます。 こちらはビジターセンター。 2階で無料上映されている20分ほどのビデオは必見。 壁の成り立ちや、どのように壁が作られたかなどがわかりやすくまとめられています。 余談ですが、有料の「壁博物館 チェックポイントチャーリーハウス 」は展示がわかりにくく商業的なので個人的にはおすすめしません。 ライター:ベルリン個人ガイド 松永 明子 2003年からベルリン在住。 2011年~。 ベルリンを「自分基準でワガママに」満喫したい!という女性のための&をしています。 特派員プロフィール• ベルリン特派員 松永 明子 ベルリン個人ガイド&女性限定ホームステイオーナー(詳細はこちら )。 ベルリン育ちの夫と共に2003年から現地在住。 ベルリンは歴史的・文化的にも見所の多い街ですが「本当の魅力は日々の生活の中にあり!」がモットーで、短期旅行でもこの街を「暮らすように楽しむコツ」や、ガイドブックに載らない「ベルリンらしさ」を綴っていきます。 コラムの依頼や、その他のお問い合わせはから。 ドイツの今• ドイツを旅する• ドイツの詳細情報• 旅の準備• おすすめ特集•

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