明智 光秀。 明智光秀の家臣一覧表・明智一族・明智家臣団リスト

明智光秀の領地と石高をカンタン解説!動員兵力は2万人で重税だった

明智 光秀

明智光秀 の生誕には諸説あるが、最も有力とされているのが、美濃の土岐氏支流明智光綱(みつつな)の子として1528年 享禄元年 頃に美濃明智城に誕生したという説だ。 1556年 弘治2年 にが息子の斎藤義龍に討たれた長良川の戦いで、明智光秀は道三に味方したため、明智城を攻められ一族離散の憂き目に遭う。 その後、浪人として諸国を流浪したのだとか。 浪人時代はもちろん苦しい生活を強いられる。 正室である煕子(ひろこ)が、自分の黒髪を売って明智光秀を支えたと言う話も伝わるほどだ。 ちなみに、明智光秀は一途な男として知られ、生涯、正室である煕子以外に側室を持たなかったとも言われている。 浪人生活を経て、母方のつてから越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕官する。 そのとき、朝倉家に将軍である足利義昭が亡命してくることに。 それがきっかけで、足利義昭(あしかがよしあき)の幕臣となる。 1568年 永禄11年 頃、その義昭の使者として織田信長と接見。 織田信長の家臣にもなり、1571年 元亀2年 の比叡山焼き討ちで功を上げ、織田信長より近江坂本5万石を与えられる。 これを機に義昭と袂を分かち、正式に織田信長の家臣となる。 織田家中では、北陸方面軍の、次席家老の丹羽長秀、関東方面軍の滝川一益、中国方面軍のと並ぶ実力者として存在感を発揮。 その才覚はのちに織田信長をも脅かす存在となっていくのだ。 織田信長から度重なるパワハラを受けてしまうのも、明智光秀の才覚あってこそのことであったのだろう。 南光坊天海 前述の通り、山崎の戦で自害したと言われている明智光秀だが、その遺体は発見されていない。 そして、天海が歴史の表舞台に顔を出すのは、1608(慶長13年)、で徳川家康と対面したとき。 このとき徳川家康は65歳、天海は72歳。 徳川家康はこの遅すぎた出会いを嘆いたともされる。 それでは、明智光秀と天海同一人物説の一部をご紹介しよう。 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」。 それぞれ明智光秀の名前から1文字ずつ取ったのではないかという説。 明智光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日が本能寺の変の20年後であるという説。 明智光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になったという説。 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」。 それぞれ明智光秀の名前から1文字ずつ取ったのではないかという説。 明智光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日が本能寺の変の20年後であるという説。 明智光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になったという説。 日光東照宮 そして最も気になる説が、江戸幕府初代将軍・徳川家康が眠る「」にある。 天海は日光東照宮に深くかかわっていた。 日光東照宮には、なぜか明智家の家紋である桔梗紋が多く見られるのだ。 また日光東照宮の近くには「明智平」(あけちだいら)と呼ばれる地があるのだが、その命名をしたのが天海だと言われている。 他にも、筆跡鑑定を行なうと、明智光秀と天海の文字は非常に似ているという。 明智光秀と天海。 二人とも謎の多い人物という意味では間違いなく共通点があるようだ。 明智光秀が優れた武将であったならば、政治の表舞台に立つのではなく、天下人のサポートをするという立場で裏から天下を動かし、自分の手腕を試したというのもやぶさかではないだろう。

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【刀剣ワールド】明智光秀は「天海」として生き延びた!?|日本史の珍説

明智 光秀

23本篇配信 「討厭?說謊。 妳很喜歡被捉弄吧?」 第1話 前半• 然後我知道了--在亂世中倒底是怎麼回事。 【光秀】「NAME,你可以捂上耳朵,但一定要睜開眼睛看著。 」 【光秀】「這是純潔無邪的妳,不得不接受的事實。 」 後半• 」 (花了好幾個小時講的內容,還只是前言嗎 ……!?) 但是不僅僅是他壞心眼的一面,還能窺視到光秀作為信長左腕的樣子…… (試著認真面對那個人吧。 秀吉因為擔心我,所以來找我。 【秀吉】「那傢伙究竟是怎樣的人、究竟隱藏了什麼,真想窺視一下他腦袋裡的想法啊。 」 以這句話為契機,我開始在城下採訪對光秀的看法,但是…… 【城裡的姑娘】「一但愛上便會萬劫不復--安土的姑娘們都是這麼說的。 」 後半• 」 意料之外的發展情況,和光秀的學習暫時中止。 (總覺得,好像缺少了點什麼……) (……才不是因為寂寞。 ) 在某天,我聽到了某個傳聞。 【武士】「光秀閣下雖然聰明,但卻是個殘酷的人。 」 前半• 對於一直以來都被光秀嬌縱著的我來說,真是難以置信。 【政宗】「妳就用你自己的視角,來評定他到底是個怎樣的男人吧。 」 對敵人毫不留情的『明智光秀』、嚴厲而溫柔地教導我的『明智光秀』,那個身姿,始終無法捉摸…… (我想要解開那個人身上的謎團……) 後半• 光秀從不表露自己的真心。 (真的,太壞心眼了。 ) 對於陷入這股焦急感的我,光秀…… 【光秀】「NAME,好久沒陪妳練習騎馬了,我們明天就去練習吧。 」 【光秀】「我們要遠行,讓我看看妳練習的成果,做好覺悟吧。 我可沒有妥協。 【光秀】「聽我說。 」 【光秀】「妳什麼都沒有看到。 」 想要相信的心情隨著聲音而崩潰。 我為了告訴大家我親眼所見所聞,一個人造訪了秀吉先生的御殿。 但是-- 【光秀】「這麼晚了,真是抱歉啊,秀吉。 不做任何動作。 等待反擊的機會。 到秀吉身邊。 【光秀】「妳得知了我的秘密,我也得知了妳的……」 【光秀】「過了今晚,我準備更加嚴密地監視妳。 」 數日後--來訪的政宗向妳說起城下的傳言。 【政宗】「似乎在城邑中也引起了很大的轟動,說『明智光秀癡迷NAME,不捨離開片刻。 就算在一起,也沒發生任何事。 」 和光秀先生商量後,總算平息了當時發生的事情。 騷動告一段落後,光秀又有了新的使命。 【光秀】「NAME,這會是一段漫長的旅程,要謹慎準備。 」 【NAME】「欸?我也要去……!?」 後半• 因為成為臨時夫妻,光秀對我的惡作劇也增加了,更加擾亂了我的心。 我隱藏著亂七八糟的心情,繼續潛入…… 【NAME】「……發生什麼事了?」 【光秀】「大老爺來查看舞台狀況了。 」 【光秀】「還帶來了『特別的客人』呢。 」 前半• 」 【光秀】「謀反的證據已經收集全了。 」 【光秀】「明天的節日就要結束啦。 」 【光秀】「快樂的即興表演開始了。 」 我也為了光秀的計畫而四處奔走,遇到了意外的人們……? 【佐助】「NAME……!」 【幸村】「妳……在這種地方幹什麼啊!?」 後半• 」 (他是打算在戲劇結束的瞬間行動啊。 ) 【NAME】「請多加小心啊。 」 【光秀】「嗯--那我去了。 」 (什麼……!) 光秀被囚禁在監獄裏。 對於嘗試申訴的我,信長大人的回答是…… 後半• 呼喚他的名字。 默默目送。 追上他。 【NAME】「我等你回來。 」 (終有一日,我一定要將你所堅信的道義……展現出來。 ) 另一方面,在京都藏身的義元身邊,出現了一個人物。 【元就】「呦,就是你負責照顧我?那就好好相處吧,夥伴。 」 前半• 」 在安土城發生越獄騷動的隔天。 我為了尋找線索,前往光秀的御殿探訪。 出來迎接我的人,是九兵衛…… 【九兵衛】「--髮簪很適合您呢。 」 【九兵衛】「您知道嗎?對於明智一族而言,水色桔梗是特別之花。 」 後半• 」 【信長】「除他之外不做他想。 」 為了探明關於光秀的黑幕。 --周遭所有的一切都開始行動起來。 【信長】「NAME,我再說一遍,與我一同赴京。 」 【NAME】「……我要去,請讓我一起去。 」 前半• 那一晚已經下定了決心。 」 (如果『義昭大人』一直在等待時機的到來,那他絕對不可能放我們離開京城。 ) (不管是以怎樣的形式,請一定要讓我見到光秀。 ) 每個人都堅持著理想,揚著公義的大旗,搭建了最後的舞台-- 【光秀】「--敵人就在本能寺。 」 後半• 即使當個笨蛋也沒關係。 」 【信長】「……光秀。 」 【NAME】「光秀……!」 【義昭】「幹掉他。 」 【光秀】「--是。 」 光秀的刀揚起-- 前半• 」 漫長的夜晚終於迎來破曉,和平的時刻到來了。 【秀吉】「光秀,NAME,我進來了!」 【光秀】「怎麼了,一大早就吵吵鬧鬧的。 」 【秀吉】「馬上把手伸出來,混帳東西。 」 【光秀】「你在說些什麼啊……」 【秀吉】「趕緊伸出來。 」 【光秀】「……!」 (這、這是……!?) 後半• 以毒攻毒,空前絕後的黑暗英雄展開了攻擊! 「妳就隨心所欲地生活吧。 就算妳想離開,我也會搶先把妳抓回來。 」 狂奔於濃厚的黑霧中,在盡頭等待的,是耀眼的黎明。

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明智光秀の子孫を家系図から解説

明智 光秀

細川ガラシャと細川忠興の銅像 しかし平穏な日々は続きませんでした。 父・光秀の謀反、 本能寺の変が起きると玉子 珠 の運命は一転してします。 玉子 ガラシャ は「謀叛人の娘」となり、丹後国の味土野 みどの (京都府京丹後市弥栄町)で幽閉生活を強いられることになります。 後に、羽柴秀吉の執り成しにより、細川家の屋敷に戻ることができましたが、夫・忠興との間には溝ができてしまったようです。 拠り所を求めたのか、 キリスト教の教えに触れたガラシャは、キリスト教に魅かれていきます。 そして、洗礼を受けて ガラシャという洗礼名を名乗ります。 後に、天下人・豊臣秀吉が亡くなるとガラシャに危機が訪れます。 徳川家康らと石田三成らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発する寸前になっていました。 夫・忠興は徳川家康方につき、留守にしていた時に、石田三成がガラシャを人質に取ろうと細川屋敷を包囲します。 ガラシャに人質になるよう迫りますが、ガラシャはこれを拒絶し、壮絶な最期を遂げ亡くなります。 戦国時代ではありますが、悲しい運命となってしまったガラシャ。 このガラシャの悲運は、戦国の悲惨さを伝える話として知られています。 それでは、ガラシャと光秀両方の子孫をまず紹介します。 光秀の孫、ガラシャの子・細川 忠隆 ガラシャと細川忠興の長男 光秀の孫 は、 細川忠隆(ほそかわ ただたか)といい、前田利家の娘・千世を正室に持ちます。 母・ガラシャが壮絶な死を遂げた時、長男・忠隆(ただたか)の妻・千世は、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の屋敷に逃れ事なきを得ます。 千世の姉が宇喜多秀家の正室で、姉の指示で宇喜多屋敷に逃れたようです。 宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで石田方についた代表的な大名です。 しかし、関ヶ原の戦い前後の頃は、忠隆が後継ぎと見なされていたようです。 その後、妻・千世が実家の前田家に逃れた為とも、徳川家が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていなかったためとも伝わりますが、父・忠興は忠隆に千世との離縁を迫ったと伝わります。 しかし、忠隆は離縁に納得できませんでした。 父の命令に従わず 廃嫡されてしまいます。 そして、出家して長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号し、祖父・細川幽斎の助けを得て暮らします。 その後、千世の実家である前田家の援助も受けられず、千世とは結局離縁することになってしまいます。 ) 忠隆は後に、継室・喜久を迎え、後に父・忠興と和解したと伝わります。 光秀の曾孫、ガラシャの孫・長岡忠春と子孫 次は、只今お話した細川忠隆 ガラシャの子 の子供、子孫の話です。 細川忠隆と継室・喜久との間に、忠恒 ただつね 、 忠春 ただはる という男子がいます。 二人は熊本藩主・細川光尚 みつなお の招きにより、 熊本藩の一門家臣になります。 (細川光尚も細川ガラシャの孫で、熊本藩主の系譜です。 ) 忠春の子・忠季 ただすえ 別名、忠重 は、内膳家と言われ、代々、熊本藩の一門家臣首座に列したとされます。 長岡姓を名乗っていたため、長岡内膳家 細川内膳家 と言われ6,000石を得て、明治時代に細川姓に復し、光秀の血脈を現代に伝えています。 内膳家の家紋は、細川家の 細川九曜紋の他に、裏紋として明智家の血統を意味する 土岐桔梗紋を使用しているそうです。 土岐桔梗紋 また、忠春の正室はガラシャが亡くなった時に、介錯を務めた細川家の家老・小笠原秀清(おがさわら ひできよ)の孫にあたる長之の娘・三です。 では、明智光秀の曾孫で、細川ガラシャの孫である長岡忠春の系譜を記します。 その藩校の初代総長に、忠春 ガラシャの孫 の曾孫に当たる細川内膳家当主・長岡忠英 ただふさ が務めます。 (熊本藩主・細川重賢も光秀、ガラシャの子孫です。 ) また、政治評論家で 元衆議院議員の細川隆元氏(ほそかわ たかちか)や、その甥の細川隆一郎氏(ほそかわ りゅういちろう) 政治記者、評論家 は、忠隆の子孫で、光秀やガラシャの子孫でもあります。 そして、細川隆一郎氏の娘の細川珠生氏(ほそかわ たまお )は、政治ジャーナリストであり、キリスト教の信者で洗礼名は ガラシャとのことです。 細川ガラシャの本名は細川玉子 珠子や玉とも ですので、細川珠生氏は、ガラシャと一字違いで、洗礼名のガラシャは同じですね。 因みに、細川隆一郎氏の兄に新京成電鉄会長、二人の父の細川隆志氏は、東京電力取締役を務めた輝かしい経歴の一家です。 光秀の曾孫、ガラシャの孫・徳と子孫 細川忠隆と千世の娘・ 徳 ガラシャの孫 は、西園寺実晴(さいおんじ さねはる) 左大臣 の正室になり、西園寺公満(さいおんじ きんみつ)を生みます。 そして、孫・西園寺実尚(さいおんじ さねなお)にも恵まれますが、西園寺実尚には実子がなく叔父が相続したため、西園寺家での光秀の子孫は途切れます。 ですが公家の西園寺家、血脈は高貴な家に広がります。 西園寺公満の娘は、久我 通名(こが みちな)の正室になり、 広幡豊忠(ひろはた とよただ)を生みます。 豊忠の養父・広幡忠幸(ひろはた ただゆき)は、 旧皇族であり、従一位(じゅいちい)・内大臣の官位を持ち、跡を継いだ豊忠も従一位・内大臣になる人物です。 この広幡豊忠から、 孝明天皇(こうめいてんのう)へ繋がり今上天皇へ辿り着きます。 今上天皇は、明智光秀、細川ガラシャの子孫だったということになります。 また最初の正室・千世は、前田利家の娘ですので、今上天皇は前田利家の子孫でもあります。 細川 忠利 肥後熊本七代藩主・治年 はるとし の代まで、光秀の子孫でしたが、治年に実子がなく斉茲(なりしげ)を養子として迎えたため、細川本家での光秀の血脈は途絶えることになります。 光秀、ガラシャの子孫・熊本藩主の系譜は以下の通りです。 しかし、肥後国熊本藩4代藩主・細川 宣紀(ほそかわ のぶのり)の娘・八代は、讃岐高松藩 香川県 の第5代藩主・松平 頼恭(まつだいら よりたか)の正室となり子孫は明治まで続くなど、光秀とガラシャの血脈を継ぐ細川家の血脈は広がりをみせ繁栄します。 肥後細川家の第18代当主・細川護熙氏 細川護熙総理 出典元:Wikipedia 第79代 内閣総理大臣である細川護熙(ほそかわもりひろ)氏は、肥後熊本藩主の子孫で、肥後細川家の第18代当主であるといいます。 系図上は肥後熊本藩主の子孫にあたりますが、光秀とガラシャの子孫ではありません。 先に述べたように養子を迎えていますので、光秀とガラシャの血筋としては途絶えています。 ただ、細川護熙氏の祖母・細川博子氏が光秀の血を引いているため、光秀の子孫とする説もあるようですが、定かではありません。 私なりに調べてみましたが、この説は、仙台藩第5代藩主・伊達吉村(だて よしむら)の正室である冬姫が、光秀の子孫であったらという前提があると思います。 冬姫の父は久我通名(こが みちな)であり、正室は光秀の血を引く西園寺公満(さいおんじ きんみつ)の娘ですが、冬姫の生母は側室の松向殿と伝わっています。 ですので、冬姫から光秀の血筋か伝わったということなら、細川博子氏が光秀の血を引くというのは、個人的な見解としては誤りだと思います。 ですが、冬姫以外のところで、光秀の血が入っている可能性もあるため、「定かではない」とさせていただければと思います。 光秀の孫、ガラシャの娘・多羅と子孫 ガラシャの娘・多羅 たら は、豊後国 ぶんごのくに 臼杵藩 うすきはん 大分県 3代藩主・稲葉 一通(いなば かずみち)の正室になります。 そして、豊後国臼杵藩の第4代藩主・稲葉信通(いなば のぶみち)を生みます。 稲葉信通の正室には、織田信良 のぶよし の次女・光浄院を迎えます。 織田信良とは、織田信長の次男・信雄 のぶかつ の四男ですので、信長の曾孫に当たる方です。 光秀の曾孫が信長の曾孫を娶ったことになります。 後に信通は、正室に先立たれたようで継室を迎えますが、継室にも織田信良の三女・天量院 信長の曾孫 を迎えています。 意外な戦国武将の子孫同士の結婚ですが、他の武将の系譜を見ても孫、曾孫あたりから和解してるかのように結婚してたりしますね。 その後も光秀とガラシャの子孫は続きます。 そして、豊後国臼杵藩の第7代藩主・稲葉恒通(いなば つねみち)の娘は、公家の勧修寺顕道の正室となり勧修寺経逸(かじゅうじ つねはや を生みます。 勧修寺経逸 かじゅうじ つねはや の娘・ 勧修寺 婧子(かじゅうじ ただこ)は、光格 こうかく 天皇の典待 てんじ となり、 仁孝 にんこう 天皇を生み、今上天皇まで受け継がれているそうです。 仁孝天皇 この系譜からも今上天皇に繋がります。 では、明智光秀と細川ガラシャの子孫の系譜です。 ですが、私が調べた限りでは、松平時章の息子・平松時門の正室になった娘・筭がいるようです。 その本によると松平時章との間にできた娘が、有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の側室になり、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)、喬子女王(たかこじょおう)、吉子女王(よしこじょおう)の母となった旨の記載があります。 喬子女王 たかこじょおう は、第12代将軍・ 徳川家慶(とくがわ いえよし)の正室になる方です。 そして、吉子女王は、水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の正室になり江戸幕府最後の将軍である、第15代将軍・ 徳川慶喜 とくがわ よしのぶ を生んだことは史実とされていますが、本当に光秀、ガラシャの子孫であるかは疑問が残ります。 調べてみると、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)の母は家女房、つまり使用人です。 一方の、喬子女王(たかこじょおう)の母は「高木敦子」、吉子女王の母は、「家女房安藤清子」となっています。 「家女房」と「家女房安藤清子」が同一人物である可能性があると思いますが、「高木敦子」は流石に別人ではないでしょうか…。 また、光秀の血を引く勧修寺経逸 かじゅうじ つねはや の娘が松平家に入ってできた娘なのに、名前が「安藤」や「高木」なのも引っかかりますね。 当時の方は、名前が複数あることは珍しくないので、全員同一人物である可能性もありますが…。 系譜は辿れませんし、本に出典元の記載もないので、信頼できる情報か疑問に思っています。 本に紹介されていた通り、「 第15代将軍・徳川慶喜は、明智光秀の子孫だった!?」となれば、とても興味深い話ですが…、少なくても定説にはなっていませんね。 光秀、ガラシャの子孫・勧修寺経逸の子供達 いずれにせよ、勧修寺経逸 かじゅうじ つねはや の子供達は、公家に嫁ぐなど華麗なる一族という感じです。 勧修寺 徳子(かしゅうじ なりこ) 光秀の子孫 は、姉で仁孝天皇(にんこうてんのう)の生母である婧子の縁により、仁孝天皇の典侍になります。 そして、後の徳川家茂 とくがわ いえもち の正室である和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)など、皇子・皇女の養育に努めたといいます。 勧修寺経逸の娘・吉子 光秀の子孫 は、仁孝天皇、孝明天皇(こうめいてんのう)に仕えた公家である、堀河 康親(ほりかわ やすちか)の正室になります。 堀河 康親は、明治維新に尽力したの公家の政治家でとても有名な 岩倉 具視(いわくら ともみ)の実父に当たる人物です。 岩倉 具視の系譜が凄いですが、堀河 康親の子供達の生母がはっきりしていないようです。 勧修寺吉子以外の妻 側室 がいたとは伝わっていません。 なので、岩倉 具視の生母が、光秀とガラシャの子孫の勧修寺吉子となれば、面白いと思います。 解明されて欲しいものです。 明智光秀の娘婿・津田信澄と子孫 明智光秀の娘を妻に迎えた人物として、定説ではないですが、 津田信澄(つだ のぶずみ) 織田信澄 が挙げられます。 光秀の娘婿説を採用する専門家もいますので、娘婿であったとして子孫を追ってみました。 まず、津田信澄とはどのような人物であったかというと。 津田信澄の父は、織田信長の弟である織田信行(おだ のぶゆき) 織田信勝の名前で知られています)です。 しかし、父は兄・信長と家督を巡り争い、信長に滅ぼされてしまいます。 信澄は信行の嫡男ですので、信長に滅ぼされたり、出家を命じられてもおかしくありませんでした。 ですが、信長は信澄を遇しました。 信長の命令で柴田勝家に養育され、やがて信長の右腕と言われる位に力を発揮し、信長の子供の次に遇された人物であったと伝わります。 ですが、本能寺の変が起こると光秀の娘婿である為、光秀と共謀したと誤解され織田信孝 おだ のぶたか 信長の息子 らに襲撃され討ち取られてしまいます。 光秀と津田信澄の子孫 信澄の嫡男は、織田姓に復して織田昌澄(おだ まさずみ)と名乗ります。 昌澄は藤堂高虎 とうどう たかとら に仕えた後、豊臣秀頼に仕え大坂の陣に出陣します。 ですが豊臣家は敗北します。 織田昌澄は、豊臣家の滅亡と自身の敗北により、死罪を懇願したと伝わります。 ですが、藤堂高虎の執り成しにより助命され、やがて徳川家の旗本になります。 明智光秀の本を出版した明智憲三郎氏 「本能寺の変 431年目の真実」などの著書で知られている 明智憲三郎(あけち けんざぶろう)氏は、明智光秀の息子である 於寉丸 おづるまる の子孫であると伝わるそうです。 於寉丸は、本能寺の変の後、死亡したとも名を変え生き延びたとも言われています。 ですが、明智憲三郎氏によると京都山城 やましろ に匿われ、神官の子として育てられたそうです。 以後、逆賊・明智姓ではなく明田 あけた 姓を名乗ったそうですが、明治の世になり明智姓に復したそうです。 光秀の直筆の短冊、明智家家臣の高禄台帳、系図なども伝来していたそうですが、関東大震災の時に消失してしまったそうです。 明智憲三郎氏は、明智姓のため幼少期に辛い出来事も経験されたそうで、本能寺の変の真実を知りたいと思うようになったそうです。 そうして、慶應義塾大学大学院を経て、三菱電機株式会社に入社し、後に株式会社第一情報システムズ常務取締役を務め、会社に勤めながら本能寺の変の研究や調査を続けているそうです。 明智姓に復す時に「曾祖父が伝承品を添えて政府に明智姓への復姓を願い出て改名したという経緯」があるとのことで、伝承品が光秀ゆかりの物であると認められたということでしょうか。 明智光秀の子孫である可能性は高かそうですが、於寉丸 おづるまる 自体の存在に懐疑的な専門家もいらっしゃり、定説には至っていないようです。 母方の祖母から、「あなたは明智光秀の末裔なのよ」と聞かされて育ったそうです。 以前、TBSのバラエティー番組「7時にあいましょう」で調査を依頼し、明智光秀の子孫である可能性があることが分かったそうです。 クリス・ペプラー氏の母方の姓が「 土岐」氏であり、家紋も土岐氏の「土岐桔梗」であるといいます。 明智光秀は、土岐氏の分家であると伝わりますが、明智光秀と土岐氏については、こちらの記事にまとめています。 👇 クリス・ペプラー氏の高祖父と伝わる「土岐頼敬」は、美濃国の守護大名であった土岐頼芸(とき よりのり)の系図の最後に記されており、菩提寺も一致しているそうです。 土岐頼芸(とき よりのり)は、清和天皇の子孫である清和源氏 せいわげんじ の嫡流とされ、美濃の守護を200年務めた名門です。 ですが、戦国時代の下剋上により、重臣であった斎藤道三 さいとう どうさん によって、土岐頼芸は美濃を乗っ取られ追放されてしまいます。 詳しくはこちらの記事に記載しています。 👇 クリス・ペプラー氏の高祖父と伝わる「土岐頼敬」が、土岐氏であることは間違えなさそうです。 ですが、光秀と同族であっても光秀の子孫とは言えないのではないか、という疑問がでてきます。 つまり、明智光秀は土岐氏の一族と云われていて、クリス・ペプラー氏は土岐氏を祖先に持つらしいです。 ですが、 「土岐氏の子孫」イコール「光秀の子孫」とは限らないと思うのです…。 その件について、歴史研究家で光秀の子孫と伝わる明智憲三郎氏の見解があります。 土岐頼芸の後を継いだ土岐頼次(とき よりつぐ)の長男 次男とも の頼勝が、落ち延びた光秀の実子ではないか!?という仮説をたてていたそうです。 光秀の実子が土岐頼勝に名を変え、土岐家の家督を継いだ!?というものだそうです。 ロマンのある話ですが、立証するものがなく何とも言えませんね…。 結論は、クリス・ペプラー氏は、土岐氏の子孫であると考えられ、明智光秀の子孫である可能性はあるものの、断定も否定もできないという感じのようです。 クリス・ペプラー氏がテレビで仰っていましたが、年に1~2回明智の子孫が集まる「明智の会」があるそうです。 土岐頼芸については、こちらに詳しく書いています。 ですが、明治時代の小説家が書いた坂本龍馬の 伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』が出典元とする説が有力です。 子孫である根拠とされるものを記します。 ですが、元々、龍馬は「丸に田紋」を使用していて、途中から「桔梗紋」に変えたそうです。 何故、「桔梗紋」に変更したのかは不明とのことです。 また、明智家や土岐家も「桔梗紋」を使用していましたが、「桔梗紋」を使用する武家は珍しくない為、根拠として弱いですね。 これは、こじ付けというか…、根拠にならないですね。 明智光秀の娘を娶ったとされ、一説には、明智光秀の従兄弟 いとこ 説もある人物です。 明智左馬之介 明智秀満 が落ち延びて、土佐 とさ 龍馬生誕の地 の 長宗我部元親 ちょうそかべ もとちか を頼り土佐に定住し、その子孫が坂本家になったという伝承があるそうです。 長宗我部元親の正室は、光秀の家老・斎藤利三 さいとう さんり の縁者であるとされ、光秀の縁者を匿う可能性はあると思います。 光秀との仲も深く、本能寺の変の遠因に長宗我部元親を守る為だったとも云われる位です。 詳しくはこちらです。 また、明智左馬助の子供に三宅重利(みやけ しげとし)という人物がいるようです。 母は明智光秀の娘とも云われますが、光秀の血を引いていないとする説もあり、定かではありません。 山崎の戦い後細川家に保護され、天草の乱で亡くなったそうです。

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