煉獄 きょう じゅ ろう 誕生 日。 鬼滅の刃の柱の名前や年齢一覧!強さと能力と技を画像付きで解説!

鬼滅の刃の柱の名前や年齢一覧!強さと能力と技を画像付きで解説!

煉獄 きょう じゅ ろう 誕生 日

鬼滅の刃 呼吸とは何か 作品に登場する「呼吸」とは、鬼殺隊員が身体能力向上を目的として使う「呼吸法」を指す。 使えなくても最終選別を突破すれば鬼殺隊員になることは可能。 この呼吸法には流派が存在する。 鬼滅の刃 呼吸法の種類別 呼吸派生図 呼吸法別の種類・流派だが 「日の呼吸」を開祖として「水」「雷」「炎」「岩」「風」の五流派が誕生。 そこから更に多くの流派に別れている。 呼吸法の種類 呼吸派生の図 鬼滅の刃 柱の名前 一覧 現在の鬼殺隊には9名の柱がいます。 岩柱 悲鳴嶼行冥• 炎柱 煉獄杏寿郎• 水柱 冨岡義勇• 風柱 不死川実弥• 蛇柱 伊黒小芭内• 恋柱 甘露寺蜜璃• 霞柱 時透無一郎• 音柱 宇随天元• 蟲柱 胡蝶しのぶ その他に、かつて柱だった人も作品中に登場しています。 炎柱 煉獄槇寿郎(煉獄杏寿郎の父)• 水柱 鱗滝左近次(炭治郎の師匠)• 雷柱 桑島慈悟郎(善逸の師匠)• 花柱 胡蝶カナエ(蟲柱 胡蝶しのぶの姉)• はじまりの剣士 継国縁壱(日の呼吸)• はじまりの剣士 継国巌勝(月の呼吸 上弦の壱 黒死牟) 鬼滅の刃 呼吸法別 柱・主要キャラクターと技一覧 日の呼吸 竈門炭治郎(かまど たんじろう)が使用する。 竈家に代々伝わる「ヒノカミ神楽」として継承されていた。 全13の型があると歴代の炎柱の書にしるされていたが、炭治郎は12個しか伝承されていない。 日の呼吸の技 一覧• 円舞(えんぶ)• 碧羅の天(へきらのてん)• 烈日紅鏡(れつじつこうきょう)• 幻日虹(げんにちこう)• 火車(かしゃ)• 灼骨炎陽(しゃっこつえんよう)• 陽華突(ようかとつ)• 火輪陽炎(ひりんかげろう)• 斜陽転進(しゃようてんしん)• 輝輝恩光(ききおんこう)• 日雲の龍・頭舞い(にちうんのりゅう・かぶらまい)• 炎舞(えんぶ)• 日の呼吸 十二連撃(名前不明) 日の呼吸 13番目の型について詳細は「」をご覧ください。 妹・竈門禰豆子のかわいいイラストを特集しています。 上限の壱 黒死牟が使用する呼吸。 黒死牟 は「始まりの呼吸の剣士」の一人だったが、技を極めるために永遠の命を求めて鬼となった。 黒死牟の人間時の名は継国巌勝(つぎくに みちかつ)。 日の呼吸の使い手、継国 縁壱の兄に当たる。 月の呼吸は日の呼吸からの派生だと思われるが明らかになっていない。 月の呼吸の技 一覧• 壱ノ型 闇月・宵の宮(やみづき・よいのみや)• 弐ノ型 珠華ノ弄月(しゅかのろうげつ)• 参ノ型 厭忌月・銷り(えんきづき・つがり)• 伍ノ型 月魄災渦(げっぱくさいか)• 陸ノ型 常夜孤月・無間(とこよこげつ・むけん)• 漆ノ型 厄鏡・月映え(やっきょう・づきばえ)• 捌ノ型 月龍輪尾(げつりゅうりんび)• 玖ノ型 降り月・連面(くだりづき・れんめん)• 拾ノ型 穿面斬・蘿月(せんめんざん・らげつ)• 拾肆ノ型 兇変・天満繊月(きょうへん・てんまんせんげつ)• 拾陸ノ型 月虹・片割れ月(げっこう・かたわれづき) 水の呼吸 水柱・冨岡 義勇(とみおか ぎゆう)と竈門炭治郎(かまど たんじろう)が使用する。 「凪」は冨岡 義勇が編み出した独自の技。 コミックス17巻で鬼殺隊員の村田も水の呼吸を使うことが明らかにされました。 参考: 水の呼吸の技 一覧• 壱ノ型 水面斬り(みなもぎり)• 弐ノ型 水車(みずぐるま)• 参ノ型 流流舞い(りゅうりゅうまい)• 肆ノ型 打ち潮(うちしお)• 伍ノ型 干天の慈雨(かんてんのじう)• 陸ノ型 ねじれ渦(ねじれうず)• 漆ノ型 雫波紋突き(しずくはもんづき)• 捌ノ型 滝壷(たきつぼ)• 玖ノ型 水流飛沫(すいりゅうしぶき)• 拾ノ型 生生流転(せいせいるてん)• 拾壱ノ型 凪(なぎ) 冨岡義勇の個人情報・プロフィールについては別記事でまとめています。

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70~83話 ―お釈迦様のご生涯―

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煉獄杏寿郎VS猗窩座のきっかけ…無間列車編 40人以上の行方不明者を出している「無限列車」。 炎柱・煉獄杏寿郎が送り込んだ剣士も消息不明となってしまいます。 このため煉獄は自ら 無限列車に乗り込み鬼の討伐へと出向くのでした。 煉獄と同じく無限列車に乗り込んだのは炭治郎・善逸・伊之助の3人。 鬼の情報がないまま敵地へと赴いた煉獄たちは、乗車して早々術にはまり眠らされてしまうのでした。 無限列車に巣食っていたのは 「下弦の壱」である眠り鬼・魘夢。 幸せな夢で人間をたぶらかし、いいなりとすることで煉獄たちを術にはめたのです。 しかし、 炭治郎が魘夢の術を破ったことで形勢逆転!炭治郎は禰豆子と協力して魘夢の術を破り全員を夢の世界から覚醒させます。 そして、誰一人犠牲者を出すことなく魘夢の討伐に成功するのでした。 炭治郎はヒノカミ神楽の情報を求めていた 炭治郎が煉獄を訪ねてきたのは、父から教わった 「ヒノカミ神楽」の情報を求めていたため。 「炎の呼吸」は「火の呼吸」と呼んではならないとされている…このため、炎の呼吸の使い手である煉獄が何か知っているのではないかと訪ねてきたのです。 しかし、煉獄自身はヒノカミ神楽についての情報を持っていませんでした。 しかし、 煉獄家に伝わる「手記」に何らかの情報があるやも…と可能性を示唆するのでした。 関連記事をご紹介! 煉獄杏寿郎の過去?!鬼が煉獄に見せた夢 いやめっちゃ意味深な台詞言ってたし回想楽しみにしてたら呆気なく殺された上に空気にされては?って感じだったんだけど魘夢 無惨様とにかく累くんがお気に入りだった説 — みかふぁる mikafaru 煉獄が魘夢の術中にはまってる最中に見たのは、 父に柱になったと報告をする夢でした。 しかし、父は背中を向け「どうでもいい」と煉獄のほうを見ることすらしてくれませんでした。 かつては鬼殺隊で柱にまでなった父。 熱心に剣術の指導をしてくれた熱い人だったのに、ある日突然剣士を辞めてしまった…。 自分を認めてくれない父に、煉獄は少なからず傷ついていたことでしょう。 それでも、 煉獄は者ごごろつくまえに母を亡くした弟・千寿郎の方が不憫だと考え直します。 自分と違って剣術の才能がなく、それでも「柱になれば父に認めて貰える」と希望を抱いている千寿郎に「どんな道を選んでも立派な人間になる!」兄は信そうじている、と煉獄は熱く弟に語ります。 「頑張って生きて行こう!寂しくとも!」 豪快で熱い男・煉獄の意外な一面が夢に現れているのでした。 炎柱!煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)とは 鬼殺隊における最上級の隊士・柱。 煉獄はその中でも 炎の呼吸を極めた「炎柱」!煉獄家は代々炎の呼吸を伝え継いでおり、煉獄は 炎の呼吸のサラブレッド的な存在ともいえるでしょう。 そして煉獄の強さは化け物級。 魘夢を倒した際脱線した列車の衝撃を、煉獄がやわらげたことで死者はゼロ。 ケタ外れのパワーですね! 性格は闊達としていて、駅弁を食べれば「うまい!」、鬼を連れた炭治郎を見れば「鬼もろとも斬首!」と爽やかな笑顔。 笑顔ではありますが、表情が変わらないのが逆に怖い…。 しかし、炭治郎と禰豆子が無限列車で乗客を守るために命を賭けて戦う様を見て考えが変わります。 規律を重んじると同時に、一番大切なことを見失うことのない柔軟性も持ち合わせているのです。 上弦の参の番号をあたえられており、その恐ろしさは普通の鬼の比ではありません。 猗窩座が使う血鬼術は「破壊殺」。 身体能力を高めるだけの能力と侮ることなかれ。 極限にまで高められた体術は「厄災」級の威力。 虚空を拳で打つことで衝撃波を発生させ遠距離への攻撃も可能。 体一つで近距離から遠距離までの攻撃をすることができるのです。 それに加えて傷はすぐ癒え死ぬことのない鬼の丈夫な体。 さらに、 百年以上にわたって生きていることで戦闘経験も豊富です。 強い体と長い寿命にだけでなく、強さを愛し求める性質がより猗窩座を強い鬼としているのです。 しかし、猗窩座の目的は煉獄を殺すことではありませんでした。 「鬼にならないか?」 煉獄の強さを「至高の領域」に近いと称賛し、煉獄を勧誘したのです。 鬼になれば老いて死ぬこともない…より強さを追求できる。 弱者のことは虫唾が走るほど嫌いな猗窩座は、強さを求めることこそが喜びなのでしょう。 しかし、煉獄はこれをあっさりと断ります。 「強さとは肉体の強さに対してのみ使う言葉ではない」…煉獄と猗窩座の価値観は全く異なっていたのです。 「鬼にならないなら殺す」 その言葉を皮切りに煉獄VS猗窩座の戦いがスタートします!戦えば戦うほど、失うには惜しい煉獄の剣技…。 「死んでしまうぞ杏寿郎 鬼になると言え!! 」 猗窩座は煉獄を命を奪う寸前まで追い詰め、鬼になるよう詰め寄るのでした。 強く生まれたものは、その力を人のために使わわねばならないのだと。 「 弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」 命が燃え尽きようとしている瞬間、煉獄が思い返したのは母のこの言葉でした。 猗窩座の腕が自分の胸を貫いている中、煉獄は猗窩座の首を落とそうと剣をふるいます。 ここにきて、間もなく夜が明けようとしていました。 十二鬼月といえども、日光にさらされればただではすみません。 それに気が付いた 猗窩座は一時撤退しようとしますが、煉獄は最期の力を振り絞り猗窩座を抑え込むのでした。 煉獄を助けたい!炭治郎と伊之助は… 煉獄と猗窩座の戦いのすさまじさのあまり、なすすべなく固まっていた炭治郎と伊之助。 しかし、命を燃やすように戦う煉獄を助けるべくついに動き出すのです。 「伊之助動けー!煉獄さんのために動けー!」 そして 伊之助は猗窩座の腕を切り落とし炭治郎が投げた刀は猗窩座の胸を貫きます。 しかし、この攻撃は猗窩座を逃がしてしまうことに繋がります。 腕が切れることで自由になった猗窩座は、 太陽から逃れるため逃走するのでした。 そして、胸を貫かれた煉獄はもう助かる見込みがないのでした。 死は負けにあらず!炭治郎の咆哮 鬼滅の刃 ネタバレ 63話 この展開は熱い!煉獄VS上弦の参・猗窩座 あかざ 開幕、兄貴死ぬなー!!【画バレ 64話 感想 画像】 — マンガ速報! pontamanga 逃げる猗窩座に向かって炭治郎は言います。 「逃げるな卑怯者!」と。 鬼は日光に当たると死んでしまう…人間たちは鬼に有利な夜の闇で戦っているのだと。 そして、 誰も死なせることなく守り抜いた煉獄がこの勝負の勝者だと叫びます。 「お前の負けだ!煉獄さんの勝ちだ!」 炭治郎は 煉獄の誇りを主張するように叫び続けるのでした。 関連記事をご紹介 煉獄杏寿郎、笑顔の死 WJ39号本日発売です! 『鬼滅の刃』第123話が掲載されています。 煉獄はもう自分の命が幾ばくも無いことを悟っていました。 そして、煉獄は家族に向けての遺言、そしてこれから鬼殺の剣士として戦ってゆく3人に言葉を残すのです。 何があっても心を燃やして前を向いていくこと、 柱が後輩の盾になるのは当然だから自分の死を気にしないこと…。 「そして今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ 俺は信じる」 そして、最期の瞬間煉獄が見たのは死んだ母。 「やるべきことは全うできたか」と尋ねる煉獄に「立派にできましたよ」と微笑みながら答えてくれます。 自分の使命を全うした煉獄は、穏やかに眠るように死んでいくのでした。 自分は煉獄のようになれないのではないか…そんな不安が心を支配する中、泣きじゃくる炭治郎と善逸に伊之助は喝を入れます。 「弱気なこと言ってんじゃねえ!! 」 どんなに恥ずかしくても惨めでも生きてかなければならない。 悔しくても泣くんじゃないと。 そう言う 伊之助の目にも涙がこぼれていました。 同じ悔しさと悲しみを共有し、そして それぞれの方法で乗り越え、3人は成長してゆくのでした。 そして、 「自分の心のまま 多々しいと思う道を進むように」と兄の遺言を聞いた 千寿郎は剣士としての道を諦めそれ以外の方法で人の役に立てる道を探すことに決めます。 杏寿郎はの死は衝撃を与えるとともに、それぞれの生き方を決める転機となったことでしょう! 涙せずにいられない…煉獄杏寿郎の死は悲しすぎ! 100話達成記念のツイートでは たくさんのお祝いの言葉 ありがとうございました! これからもよろしくお願いします!! 本日はWJ15号発売です。 『鬼滅の刃』第101話、掲載中! ぜひチェックしてください! そして今週のアイコンは… 心はいつまでも燃え続ける…! みんなの兄貴・煉獄さん!! そんな経緯で鬼殺隊に入った炭治郎は異端の存在…温かく迎えてはもらえませんでした。 しかし、 煉獄は命を賭けて戦う炭治郎と禰豆子目の当たりにし、炭治郎を鬼殺の剣士だと認めるのでした。 理解者を得、そしてすぐに失ってしまった炭治郎…その悲しみは計り知れません!ちょっと変わり者だけど、 強くて優しくい煉獄にまだまだ活躍して欲しかった!! 猗窩座との対戦で煉獄のファンになった方も多いのでは…? 【鬼滅の刃】は2シーズンでのアニメ化が決定しています。 煉獄の死を悼みつつ、アニメでの活躍を楽しみに待ちましょう…!.

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店舗営業状況(6月8日現在)

煉獄 きょう じゅ ろう 誕生 日

第70話 花まつり(はなまつり) 釈尊(しゃくそん)は今からおよそ2500年前、北インド(現在はネパール)にお生まれになりました。 釈尊の教えは、どれほど世の中が変わっても、人間というものの本質には変化がないということを示され、今もなお、人々の心に深い感動を与え、生きていくための指針となっています。 伝説では、釈尊がお生まれになる前のある夜、母の摩耶夫人(まやぶにん)は、不思議な夢をご覧になります。 「真っ白い大きな象が天から降りてきて、夫人のお腹に入った。 」と伝えられています。 夫人と父の浄飯王(じょうぼんのう)は、さっそく、この夢の意味を学者に尋ねました。 学者は「これはおめでたい。 やがてすばらしい男の赤ちゃんがお生まれになるにちがいありません。 」と言いました。 それから1年ちかくたちました。 夫人は、おともをつれてカピラ城の東方のルンビニー園に行かれました。 夫人は池で沐浴し、枝もたわわに咲き匂う無憂樹(むゆうじゅ)という木の下に立たれた時、男の赤ちゃんが誕生されました。 その時、天から「甘露(かんろ)(甘い水滴)」の雨が降り注ぎました。 不思議なことに、赤ちゃんは7歩(迷いの世界を超えることを表す)歩き、右の手で天を左の手で地を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)(1人ひとりの命の尊厳)」と言われました。 この赤ちゃんが成長されてお釈迦様になられたのです。 これは4月8日のこととされていて、この日を記念して「花まつり」のお祝いをするようになりました。 アシタ仙人は王子を見た瞬間、「こんなに立派な王子さまを見たことがない。 きっと世界の人々を救われるすばらしいお方になられることでしょう」と言って涙を流して喜びました。 王子さまはシッダッタ太子(目的を達成した人)と名づけられました。 しかし、大変悲しいことがおこりました。 太子がお生まれになってから7日後、母の摩耶夫人(まやぶにん)が突然病気で亡くなってしまわれたのです。 こうした悲しみも乗り越えられ、父の浄飯王(じょうぼんのう)や義母や、その他の人々の慈愛をうけて、立派に成長されてゆかれました。 ある日、太子は、なにげなく田んぼの方に目をやりました。 農夫が掘りかえした土の中から、ミミズやカエルなど、小さな生き物が出たり入ったりしていました。 すると空から鳥が舞いおりて、サッとくちばしにくわえて飛び去っていきました。 きっとあの鳥に喰い殺されることであろうと心から悲しまれました。 そして、人間も動物もどうしたら争いがなくなるだろうかと、深くお考えになりました。 心のやさしい王子さまであったのでしょう。 だから、すべての人々を救わなければならないと、太子は自分自身が苦しまれ、やがて、このお心が、私たちへの願い、お念仏(ねんぶつ)の教えとなって今に伝えられています。 しばらくの間、夢のような楽しい月日を過ごされましたが、世の無常や弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)の世の争いの姿をみることによって、心の中に世のはかなさが、いっそう広がっていきました。 父王も太子の心を明るくさせようと、いろいろ苦心されました。 ある日のこと、太子は、お供をつれて東の門から出られました。 途中でシワだらけの老人に出会いましたが、その姿を見て、老いることの現実に驚かれました。 数日して、太子は、南の門から出ることがありました。 そこには髪(かみ)を乱し、顔色は土のようで、手足をふるわす病人をご覧になりました。 また西門から出たときは、見慣(みな)れない行列に出会いました。 それは葬式(そうしき)の列でした。 太子は、私の一番恐ろしいものに出会ったといって、城の中に逃げ帰られました。 「人とは歳をとり、病人となり、そして、死んでいくものなのか、このようなつらい悲しいことのない世界はないのだろうか」と、考え込みました。 最後に北の門から出たときは、質素(しっそ)だが、気高く、堂々とした修行者に出会いました。 その姿にうたれた太子は、「そうだ、私の求めている道もあそこにあるのだ。 この修行者のように、自分も城を出て修業をつもう。 そうすれば、老・病・死の苦しみから逃れる道が見つかるかもしれない」と、心に決められ、ただひとり、悟りの世界に向かって大きな歩みを開始されたのです。 いとしい、妻(つま)と子どもにそっと別れを告げ宮殿をあとにされました。 お供には愛馬カンタカと馬の世話係のチャンナだけです。 夜通し走り続け、朝方にアノーマー川につきました。 そこで、身につけていた宝石や衣服をぬぎすて、カンタカやチャンナとも別れ、ひとり川を渡られました。 この時、お釈迦さまは、どうすれば「生老病死(しょうろうびょうし)」という四つの苦しみから逃れることができるのか、過去未来現在(かこみらいげんざい)の三世にわたる道理を見極めるまでは城には戻るまいと決心されたのでした。 お釈迦さまは、粗末な小屋で雨露をしのぎ、巨樹(きょぼく)の下や、洞穴、岩の上など瞑想(めいそう)する場所を変えながら断食(だんじき)をして、自ら苦行に向かって精進されました。 この頃、道理を見極め、悟りをひらく道は自らの苦行しかないと信じられていたのです。 骨と皮ばかりになって幾度も生死の境をさまよったといわれます。 このような修業(しゅぎょう)が6年間続きました。 「ゴーダマ(当時、お釈迦さまはこう呼ばれていました)は死んだぞ」という噂さえたったのでした。 体力をつけて健康を回復せねば、真理に到達することはできない。 」ということに気づかれました。 そこでお釈迦さまは、6年にわたった苦行(くぎょう)を捨てて、新しい道に進もうと決心され、尼蓮禅河(にれんぜんが)に入って沐浴(もくよく)をし、体を癒して菩提樹(ぼだいじゅ)のほとりに休まれました。 ちょうどその時、村長の娘スジャータが通りがかりました。 スジャータは衰弱(すいじゃく)しきった中にもおごそかなお姿のお釈迦さまを見て、牛乳で炊いたお粥(かゆ)をささげられました。 そのおかげでお釈迦さまの体力は徐々に回復し、心の疲れも次第にとれて落ち着きがでてきました。 そして、お釈迦さまは、今までの長い苦行を振り返りながら、ひとり静かな森の中へ入っていきました。 時代こそ違いますが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)もよく似た体験をしておられます。 比叡山で20年間修業に励まれましたが、修行すればするほど煩悩にまどわされて、安心の生活ができませんでした。 そこで、山を降り、六角堂に参籠(さんろう)され、その結果、吉水(よしみず)におられた法然上人(ほうねんしょうにん)を尋ねられ、「念仏より他に往生の道はない自分」に気づかれました。 お釈迦さまも、親鸞聖人も、いよいよ人間苦悩の世界を乗り越え、真実の道へと進んでいかれたのです。 そして、今度はブッダガヤにある大きな菩提樹(ぼだいじゅ)のもとで瞑想(めいそう)に入られました。 悪魔は相変わらず押し寄せてきて、精神統一をしているお釈迦さまの邪魔をしました。 悪魔とは、私たちの眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)〔六根 (ろっこん)〕から入ってくる誘惑のことです。 例えば、美味しい食物の匂いがすると食欲がそそられるといった具合です。 自分に都合のよい意見や話には耳を傾けてしまうし、世間の学説や評判を常に気にすることなどは、修行しているものにとってはすべて悪魔なのです。 しかし、お釈迦さまは、今度こそ見事に、これらの悪魔に動ずることもなく誘惑を断ち切って、遂にさとりを開かれたのでした。 さとりとは、 あらゆるものは、縁によって生まれ、縁によって変化し、 縁によって滅するという「縁起(えんぎ)の道理」によることを 明らかにされたのです。 お釈迦さまは、このようにさとられて、私たちに救いの道を説かれることになりました。 さとりをひらいて仏陀(ぶっだ)となられたとき、お釈迦さまは35歳でした。 また、さとりをひらいた日が12月8日だったので、この日を「成道(じょうどう)の日」と呼んでいます。 お釈迦(しゃか)さまが仏陀となられました。 縁起(えんぎ)の法則があらゆる変化、現象のもとになっている。 人間はすべて老い、病み、死んでいく。 これも縁起の法則によって変わっていく姿なのだ。 また、苦の原因がどこからくるのか。 貪欲(とんよく)(むさぼり)、瞋恚(しんに)(いかり)、愚痴(ぐち)(おろかななげき)の三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)もまた、縁起の法則に依って起きてくるのだが、これを人間自身の力で失わせるかどうか。 ここまで確かな実証の裏付けがないと人間の救いはありえない。 果たして自分の力でできるかどうか。 たとえできないとしても仏陀は、この縁起の法を自分だけにとどめておけるものではない。 すべての人々に伝え、浄土に救いとるのが仏陀の役割ではないか。 お釈迦さまは、仏陀となられてからも、7週間という長い間瞑想(めいそう)を続けて、仏陀としての使命についてお考えになったといいます。 「自分が悟った真理は、非常に奥深く、極めて難しい。 たとえ人々に説いても、理解する者はほとんどいないだろう。 」と躊躇(ちゅうちょ)していると、梵天(ぼんてん)(天の神の代表)が現れて、「真理はいかに難しくても、それを理解するものは必ずいます。 どうか、真理を説いてほとけになる道を明らかにしてください。 」と頼みました。 これを「梵天の勧請」といいます。 そこで、仏陀は、この梵天の声に強くゆり動かされて、ようやく立ち上がり、以後45年間の苦難の多い伝道の旅に出発されることになりました。 35歳の時であります。 教法を説く最初の相手を誰にするか。 かつて苦行(くぎょう)を共にしていたが、お釈迦さまの苦行放棄を堕落(だらく)と勘違いして去っていった5人に思い付かれました。 ガンジス川を渡りベナレスの町外れ鹿野苑(ろくやおん)に着かれました。 5人は、はじめお釈迦さまを堕落僧として無視しようとしたのですが、お釈迦さまの堂々たる威容に接し圧倒され、しらずしらずのうちにひざまずき、み教えに耳をかたむけはじめました。 お釈迦さまは5人に向かって説かれました。 「人間は老い病み死んでいく。 すべての存在するものは、因縁(いんねん)によって生まれ、因縁によって移ろい変わってゆくものだ。 人間が本当の幸福に到達する道は欲望を捨て、自分に対する執着(しゅうちゃく)を棄て、清らかに生きることだ。 私が苦行を棄てたのは決して世俗に還ったのでも、精進努力を怠ったのでもない。 私が覚(さと)れる法をあなたたちに教えるでしょう。 教えられた通りに行えば出家の目的は達せられて無上の覚りを得ることができるでしょう」と。 ここで、5人はいよいよお釈迦さまの説法に随喜(ずいき)し弟子となりました。 この説法を初転法輪(しょてんぽうりん)といいます。 転法輪(法輪を転ずる)とは、法を説くことで、教えの輪がだんだんと世の中にひろまっていくことをいいます。 それが最初の説法でした。 そうしてあの成道(じょうどう)(さとり)の地ウルベーラを目指され、やがて千人の弟子たちを率いて王舎城(おうしゃじょう)に入られました。 ここは頻婆娑羅(びんばしゃら)王の領地で6年ぶりの再会に王はもとより王妃韋提希(いだいけ)も大変喜ばれました。 それは成道の暁には必ずお会いしますとの約束をはたされたからです。 感激された王は、城の近くの竹林の地を選び、釈尊やお弟子たちのためにお寺(精舎)を寄進されました。 これが有名な竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)です。 以後ここを拠点としてみ教えは益々広がってゆきました。 そして、舎利弗(しゃりほつ)や親友の目犍連(もっけんれん)をはじめ多くの弟子たちもお釈迦さまのもとに入門しました。 更に忘れてはならないのが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)です。 お釈迦さまの故郷カピラ城に近いコーサラ国の首都舎衛城(しゃえじょう)に給孤独(きっこどく)という長者がいましたが、彼は熱心な信者で釈尊にお寺を献上したいと考えました。 そうして舎衛城近くの森が最適と思い、地主のジェータ王子に交渉しましたところ、黄金を敷き詰めたら売ってやろうとの難題をもちかけました。 しかし、長者は早速に牛車で黄金を運び敷き詰めたのです。 地主もその行為が尊いも のと気付き自分も協力したいと申し出たのです。 こうして見事な精舎は、ジェータ王子の樹園〔祇樹(ぎじゅ)〕・給孤独の園という2人の名を冠して祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)、略して祇園精舎として釈尊最愛のお寺となりました。 長者こそ初期仏教教団を物心両面で支えた代表的在家信者といえるでしょう。 2、300メートルの高さの岩山で、その城壁は今でも残っています。 この王舎城で大変な悲劇がおこったのです。 王舎城等を中心にお釈迦(しゃか)さまの弟子は数え切れないほど増えてきました。 その中に提婆達多(だいばだった)という人がいました。 お釈迦さまの従弟にあたり、頭の鋭い反面、嫉妬心が強く、教団を乗っ取ろうと企み、お釈迦さまを亡き者にしようと恐ろしい計画を立てました。 山から岩を落としたり、象に酒を飲ませて踏み殺そうとしましたが、いずれも失敗しました。 そこで、王舎城の頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)と韋提希夫人(いだいけぶにん)に阿闍世(あじゃせ)という王子がいるのに目をつけた提婆達多は、その出生にまつわる指の傷が、父王があなたを殺そうとした証であるとそそのかしたのでした。 怒った阿闍世は直ちに父王を牢に入れ死を待つことにしました。 しかし、一向に亡くなる気配のないことを不審に思って牢番に尋ねると、夫人が隠し持った食物をしばしば運んだことが分かり、母といえども我が敵であると剣を抜いて殺害しようとしましたが、大臣や侍医にいさめられ、やむなく母も王宮の奥深く幽閉したのでした。 韋提希夫人は阿闍世を産んだ宿業(しゅくごう)の深さを嘆き、身悶えながらお釈迦さまに救いを求めました。 そこでお釈迦さまは夫人や未来悪世の衆生のために、極楽世界に生まれるための様々な方法があること、しかし最も大切なことはお念仏を喜ぶ身になることだと教えられました。 この教えが『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』であります。 そしてその生活は、み仏の心をいただき、それを人々に説き広めるためのものでした。 毎日の生活も、その目的にそって、朝早く起きて瞑想(めいそう)し、托鉢(たくはつ)し、求めに応じて法を説くことでした。 質素な衣と托鉢用の鉄鉢(てつはち)だけで、履き物を用いず、乗り物にも乗らず、雨季の3ヶ月は祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)などに滞在された以外は、町から町へ、村から村へと旅をして、み教えを説き廻られたのです。 1カ所にとどまらず、足の赴くままに旅をする、いわゆる一所不住のご生活だったのでした。 しかし、さとりを開かれてからの45年間は、ことに因縁の深かった場所で説法されることが多かったようです。 たとえば『阿弥陀経(あみだきょう)』はお釈迦さまが最も好まれた祇園精舎で説かれたと、お経の最初に述べられていますし、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』や『法華経(ほっけきょう)』などは王舎城(おうしゃじょう)、耆闍崛山(ぎしゃくせん)〔霊鷲山(りょうじゅせん)〕で説かれたと、やはりお経のはじめに出ています。 その耆闍崛山は、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』が説かれた王舎城の牢獄(ろうごく)から歩いて3、40分のところにある岩山でした。 こうしてお釈迦さまのご生涯をたずねてみますとき、親鸞聖人(しんらんしょうにん)もまた、京都から越後へ、越後から関東へ、そして帰洛(きらく)へと一所不住のご一生であったように思います。 インドには3ヶ月も雨季がありますから、そんなときには祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)などで説法をされ『阿弥陀経』もそこで説かれました。 『阿弥陀経』は私たちには大変親しいお経です。 これはお釈迦さまが74歳のときに、舎利弗はじめ1250人の弟子や、生きる苦しみ、悩み、死んでいく不安にさいなまれている人々に、たとえ死んでいっても、お先真っ暗ではないよ、こんなすばらしい世界があるんだよと、大きく三つのことを説かれました。 第一は、お浄土には池に車輪のような蓮の花が一杯命を輝かせ、すばらしい音楽がどこからともなく聞こえ、こよない鳥の鳴き声が聞こえてくる。 それはみな如来(にょらい)が今も説法していてくださることなんだよ。 第二は、そのお浄土に生まれるには、ただ仏さまが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と言葉になって呼びかけてくださる、それに応えて私が「南無阿弥陀仏」と申す時、その声は私からでたのではなく、仏さまの声の山彦と考えてお念仏しなさい。 そうしたら、お浄土に生まれることができる。 第三は、以上のことは私の独断ではなく、東、南、西、北、下、上方のあらゆる世界の諸仏がたも、私の説いたことをほめたたえてくださっています。 これらを聞いていた人々は、心に一杯の歓びをいただき、お釈迦さまにお礼をして去っていきました。 今その疲れ切った老躯(ろうく)をおし、なおインドの大地を歩むお釈迦さまの姿に、私たちは言いようのない畏敬(いけい)と真実への燃えるような熱情に驚嘆し、かえってそこにまた親愛の情さえおぼえます。 お釈迦さまはガンジス河を北にわたり、そしてバイシャリーという街へはいられました。 そして、阿難をはじめとする弟子たちに、説法をして過ごされましたが、お釈迦さまはここで激痛をともなった重い病気にかかられました。 その苦痛を堪え忍ぶ中で、最後の教えを請う阿難に「私は誰彼の差別なく教えを説いてきた。 私は年月を重ねて老衰し、このお身はあたかも古ぼけた車が皮紐の助けによってようやく動いているよう なものだ。 阿難よ、それゆえ私の死後も他を頼りとせず、誰もが、ただ自己と法とのみをよりどころとせねばならない」と説かれました。 これが「自らを灯明とせよ。 法を灯明とせよ」と言う有名な教えです。 親鸞聖人もこの教えを心とされ、「自灯明」のこころを「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)によって、仏のいのちを我が命とする輝かしいいのちを果たす人間となれ」、また「法灯明」のこころを「仏の教える真実の道を、己の計(はか)らいを捨てて教えのままに生きよ」と教えられました。 そしていよいよこの街を去られる時に、はるかにバイシャリーの街を見て、「これがバイシャリーの見納めになるだろう。 さあ、阿難(あなん)よ、旅に出よう」といって出発されました。 かねてからお釈迦さまを尊敬していた鍛冶屋チュンダの供養を受けられたお釈迦さまは、多くの美味しい食事の中のきのこ料理が禍して、激しい下痢と腹痛を伴う重い病になりました。 お釈迦さまはこの痛みをこらえつつ、阿難とともにクシナガラに入られましたが、ついに「阿難よ、私は疲れた。 休みたい」と言われ、サーラ樹の間に身を横たえ、頭を北に、顔を西に、右脇腹を下にして足を重ねられました。 その時、サーラ樹は時ならず色が変わったといわれます。 お釈迦さまの臨終が迫った時、悲しみの極みにあった弟子たちに「もろもろの事象は移ろい無常である。 放逸に堕することなく、修行せよ」と諭され、悲痛な思いで号泣する阿難に対し、これまでの奉仕を謝しそのまま静かに80年の生涯を終えられました。 時に2月15日の満月の日でした。 完全な煩悩の滅したさとりのことを涅槃といい、お釈迦さまの入滅を涅槃会(ねはんえ)として、3月15日には高田本山では大きな涅槃図を掲げてお勤めをいたします。

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