田畑政治 朝日新聞。 『いだてん』田畑政治が朝日新聞を去るまで

田畑政治の経歴と家系図について!妻と息子は?名言もチェック!

田畑政治 朝日新聞

浜松町成子(現・成子町)出身。 長きに渡り会長を務めた他、の招致活動におけるキーマンの一人として知られている。 朝日新聞社時代の田畑(1929年) 田畑は(31年)、浜松町成子(現・浜松市成子町)にて生まれた。 実家は造り酒屋であったという。 実家の跡地は現在に面した浜松成子町店となっている。 、(現・東京大学教養学部)を経て、法学部政治学科を卒業後 、(13年)に()に入社する。 その後は政治経済部長などを務め、(22年)に東京本社代表に就任し 、(24年)に常務に就任した。 新聞記者としてはを体当たり取材し、朝日新聞社が右翼の襲撃を受けるような記事を書いた。 この時、多額の過勤料を支給されたが、実家が裕福で給与に無関心であったため、初めて朝日新聞社に過勤料という制度があることを知った。 また大阪をエリアとする放送局であるが設立される際には、常務取締役時代の田畑自身が東京と大阪を往復するなどして奔走したと伝わり、朝日新聞社から朝日放送へ移籍する社員については「本社からの出向という形」にすることを田畑が認めたという記録が残っている。 1952年2月22日、田畑は朝日新聞社を退社した。 (昭和28年)のに、朝日新聞社時代のかつての上司だったが所属している公認でから立候補し、30,345票を獲得するも次々点で落選した。 スポーツ指導者として [ ] 一方で、田畑は水泳指導者としても活動し、(昭和7年)のなどの大きな大会で日本代表の監督を務めた。 新聞記者でありながら水泳に全力を尽くせたのは、上司の緒方の理解があったからである。 (昭和14年)には、日本水泳連盟(当時の名称は大日本水上競技連盟)会長のが大日本体育会(後の)理事長に就任したことから、田畑も末弘を支えるべく新たに設けられた理事長に就任した。 戦後の(昭和23年)には日本水泳連盟の会長に就任、同年の参加を断られた当時の日本代表(・ら)の実力を見せつけるべく、日本選手権の決勝をロンドン五輪と同日開催とする などの策士ぶりを発揮、翌(昭和24年)の(FINA)復帰につなげるなど大胆な組織運営を行った。 その後も田畑は(昭和27年)の、(昭和31年)のと二大会連続で日本選手団の団長を務めた。 戦後間もない時期から東京へのオリンピック招致を訴えており、五輪招致活動においては中心人物の一人として以前から親交のあったなどの人物を招致委員に引き込むなど活躍する。 (昭和34年)に1964年(昭和39年)のが決定すると 、田畑もその組織委員会の事務総長に就任し開催に向けて活動した。 正式種目に女子を加えるロビー活動の陣頭指揮にも立ったという。 だが、1962年(昭和37年)のでホスト国のがとの参加を拒否し、それに対して(IOC)がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることになった。 最終的に日本選手団は(競技自体が中止された)を除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で田畑もJOC会長で組織委員会会長のとともに辞任することとなった (組織委員会事務総長はが後継)。 この時の心情について、後年自らの著書に「血の出る思いをして、われわれはレールを敷いた。 私が走るはずだったレールの上を別の人が走っている」と記している。 田畑は東京オリンピックにおける競泳陣惨敗を受け、水泳日本復活に向けた強化策として(昭和43年)の設立に関わった。 のちに東京スイミングセンターから・・ら複数のオリンピックメダリストが誕生した。 その後、田畑はにも関わり 、(昭和48年)には出身のの後を受けて第10代(JOC)委員長 に就任した〈 - (昭和52年〉)。 (昭和59年)、85歳で死去した。 田畑の棺はオリンピック旗で覆われた。 河野一郎との関係 [ ] とは朝日新聞社の同僚であったが、田畑は政治部、河野は経済部(農政担当)に所属し、スポーツでは田畑が水泳、河野がと対抗する場面が多かったため、世間からは「犬猿の仲」と思われていた。 しかし実際には朝日新聞社時代の河野とほとんど会話する機会がなく、一緒に食事をしたこともなかったといい、不仲説は世間が作り出したイメージであった。 田畑と河野の深い関係が始まるのは、が解除された河野が、追放中の兄の一郎の代役でで当選していた弟の(兄の没後に会長を引き継ぐ)との間で国政選挙の選挙区調整が必要になった際に田畑が兄弟間の仲介を行ってからである (田畑は河野謙三と親しかった。 これ以降、田畑は河野一郎の会長就任時に祝辞を述べたり、2人で日本スポーツ界の改革のためにを改正しようと画策したりした。 競馬法改正のもくろみは、河野の死によって実現できなかった。 親族 [ ] 長男に元理事の田畑和宏がいる。 関連作品 [ ] 映画• 『』(、演:) テレビドラマ• 『1964東京五輪を招致せよ 〜祖国復興に賭けた男達〜』(、演:)• 開局55周年記念スペシャルドラマ『』(、演:)• www. city. hamamatsu. shizuoka. 2019年3月4日閲覧。 杢代哲雄『評伝 田畑政治』(国書刊行会、1988年、新装版2018年)に詳しい。 浜松経済新聞. 2019年2月5日. 2019年7月10日閲覧。 笹川スポーツ財団. 2019年12月19日閲覧。 朝日新聞社. 1-3. 2019年12月1日閲覧。 国立国会図書館デジタルコレクション. 衆議院議員総選挙 第26回. 衆議院事務局. 233 1953年10月. 2019年10月27日閲覧。 , p. 131. - 国際留学生協会• Stefan Huebner, Pan-Asian Sports and the Emergence of Modern Asia, 1913-1974. Singapore: NUS Press, 2016, 147-173ページ所収. - 産経ニュース 2013. 237. , pp. 237-238. , p. 238. , pp. 238-239. , pp. 239-240. 朝日新聞、2018年8月5日 参考文献 [ ]• 杢代哲雄『評伝 田畑政治 オリンピックに生涯をささげた男』〈新装版〉、2018年6月25日、289頁。 外部リンク [ ]• - 浜松市 先代: 委員長 10代:1973年 - 1977年 次代:.

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東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝

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NHK大河ドラマ「いたでん」のモデルとなる田畑政治の生涯を描く立志伝です。 田畑政治の立志伝 田畑政治(たばた・まさじ)は、明治31年(1898年)12月1日に静岡県浜松市中区成子町の造り酒屋「八百庄商店」で生まれた。 父親は高額納税者だったようで、相当裕福な家だった。 しかし、早くに祖父や父を結核で死去しており、田畑政治も体が丈夫な方では無かったので、幼い頃に「30までには死ぬだろう」と言われていた。 このため、母親が健康に気使ったのか、田畑政治は小学校に入る前から、夏と冬の休みになると、舞阪町の弁天橋付近にある別荘で過ごした。 そして、別荘の近くには浜名湾があり、田畑政治は子供の頃から浜名湾で泳いでいた。 浜名湾は水泳が盛んな場所で、地元中学の卒業生らが「遠州学友会水泳部」を創立すると、田畑政治は「遠州学友会水泳部」に入り、頭角を現した。 ただ、この頃の水泳は「古式泳法」であり、1等を競うことはあっても、波の影響もあって条件は同じでは無く、現在のようにタイムを競うような競技ではなかった。 スポンサードリンク 指導者への道 子供の頃から泳いでいた田畑政治は、かなりの上前で、「遠州学友会水泳部」でもエースとして活躍していたが、旧制浜松中学校(浜松北高校)4年生の時に慢性盲腸炎と大腸カタルを併発し、医者から「泳いだら死ぬ」と言われたため、水泳を断念する。 しかし、水泳を断念した田畑政治は、旧制浜松中学校を日本一にしようと考え、指導者という道を選び、後輩の指導に力を入れ、旧制浜松中学校を大会で優勝に導いた。 すると、今度は浜名湾を日本一にしようと考え、大正5年に周辺の水泳部と統括する「浜名湾遊泳協会」を設立した。 田畑政治は、旧制浜松中学校を卒業して一高へと進み、一高から東京帝国大学に進学するという当時の典型的なエリート街道を進む一方で、旧制浜松中学校の卒業後も、休みの度に浜名湾へ戻って水泳の指導をして、後輩の育成から水泳の普及や発展に努めた。 全国大会の開催 ハワイで誕生したと言われるクロールは、大正時代の初期に日本にも伝わっていたが、普及はしておらず、せいぜい50メートルを泳ぐ短距用の泳法だと考えられていた。 しかし、内田正練・藤兼吉が水泳としては初のオリンピック参加となる大正9年のアントワープ・オリンピックに参加すると、既に外国人選手はクロールのみで長距離を泳いでおり、日本水泳界は大きな衝撃を受けた。 この衝撃を受けて、大阪の茨木中学がいち早くクロールを取り入れて大会で優勝すると、田畑政治も浜名湾にクロールを採用し、打倒・茨木中学を掲げて浜名湾の日本一を目指すのだった。 しかし、日本一になるためには、全国大会を開かねばならず、田畑政治は全国大会の開催を目指して奔走し、地元有力者の協力を得て、大正10年に北弁天島に海水プールを作った。 海水プールは、横幅30メートル、長さ100メートル、海辺の木の枠組みを杭で固定した簡易なものだが、大きな人気を呼んだ。 こうして、田畑政治は日本各地から有力選手を招いて全国大会を開催するが、期待とは裏腹に、日本一の称号は宿敵の茨木中学校にさらわれてしまった。 しかし、大正12年の全国大会で浜名湾が全国大会で茨木中学校を制して優勝すると、田畑政治の野望は日本一から世界一へと移っていった。 朝日新聞に入社 田畑政治は、大正13年3月に東京帝国大学を卒業すると、「政治に興味がある」という理由で、同年4月に朝日新聞に入社した。 当時の新聞社は縁故採用が主で、他の新聞社に先駆けて、朝日新聞が大正12年に一般採用を開始していた。 一高から東京帝国大学へと進んだエリートは官僚を目指すのが一般的で、当時の感覚では朝日新聞はエリートコースから外れており、朝日新聞に就職した田畑は異例だった。 田畑政治は、朝日新聞の政治部で政友会を担当し、鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)に気に入られて故意にしていた。 また、田畑は朝日新聞の政治記者として働く一方で、暇を見つけては浜名湖に帰って、後輩の指導や育成に奔走し、浜名湾から続々と強豪選手を誕生させる。 また、日本体育協会から競技ごとに独立する動きがあり、水泳界は大正13年10月に「日本水上陸上競技連盟」を創立。 田畑政治は東海代表として「日本水上陸上競技連盟」の創立に参画し、理事に就任した。 スポンサードリンク オリンピック第一主義 「日本水上陸上競技連盟」の理事として日本水泳界の中枢に進出した田畑政治は「オリンピック第一主義」を唱えて、昭和3年のアムステルダム・オリンピックに向けて執念を燃やした。 これは日本水上陸上競技連盟が発足して初のオリンピックであり、今度の日本水泳界を占うことになる。 田畑政治は政治記者としての鳩山一郎に気に入られており、鳩山一郎の紹介で時の大蔵大臣・高橋是清と会うことができた。 そして、高橋是清から補助金の約束を取り付けることに成功し、アムステルダム・オリンピックに水泳選手10人を送り込み、競泳男子200m平泳ぎで、鶴田義行が見事に金メダルを取得した。 さらに、男子800m自由形リレーで銀メダル、男子100メートル自由形で高石勝男が銅メダルを取得し、日本水泳初のオリンピックは華々しい活躍を見せた。 しかし、運が悪いことに、鶴田義行が金メダルを取得する3日前に、陸上男子三段跳の織田幹雄が、日本初の金メダルを取得したため、鶴田義行の金メダルは若干、インパクトに欠けてしまった。 昭和7年のロサンゼルス・オリンピックを目指して アムステルダム・オリンピックでの活躍を得た田畑政治は、次のロサンゼルス・オリンピックを目指して4つの目標を掲げて実行した。 ・水泳の組織を1本化する ・専用プールをつくること ・信頼するに足る監督を早い段階に決めて、全責任を与える ・アメリカのベストチームを招いて、地の利を活かして、徹底的にやっつける。 日本水泳は、アメリカのベストチームを招いた日米水泳大会で、アメリカに勝利した勢いに乗り、ロサンゼルス・オリンピックで金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個という輝かしい成績を収め、世界に水泳大国日本を印象づけた。 この日本水泳界の活躍は、アメリカで差別を受けていた日系人に大きな勇気と希望を与えた。 妻・田畑菊枝と結婚 田畑政治は朝日新聞に入った後、大阪の大道易者に占ってもらったところ、易者に「30歳で死ぬ」と言われた。 田畑政治は、易者は金を貰って占っているのだから、悪い事を言うはずが無いと思っていたので、「30歳で死ぬ」と言われて驚いた。 そして、祖父や父も早死にしていたこともあり、占いを信じてしまった。 このため、田畑は結婚しないことを決め、生涯を水泳に捧げることを誓っていた。 ところが、30歳になっても何も無い。 生きていた。 31歳の時に「田畑が死んだ」という噂が流れたが、生きていた。 田畑政治は、父も兄も34歳で死んでので、それまでには死ぬだろうと思っていたが、生きていたので、ロサンゼルス・オリンピックの翌年の昭和8年に妻・田畑菊枝と結婚した。 スポンサードリンク 昭和11年のベルリン・オリンピック 田畑は、アメリカのベストチームに勝利してオリンピックに望んだことがロサンゼルス・オリンピックで好成績をあげた要因だと考えた。 そこで、田畑は、昭和10年にアメリカのベストチームを招いて第2回・日米水泳大会を開催してアメリカに大勝し、その勢いに乗って昭和11年のベルリン・オリンピックに出場した。 そして、日本水泳は、ベルリン・オリンピックで、金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個という華々しい成績を収め、アメリカを抑えてオリンピックを連覇した。 このとき、前畑秀子が200m平泳ぎでドイツのマルタ・ゲネンゲルと接戦を繰り広げ、1秒差で勝利して、日本女性初となる金メダルを取得。 NHKアナウンサー河西三省の「前畑頑張れ」という有名な実況も生まれた。 昭和15年の幻の東京オリンピック 東京都は紀元2600年記念行事の一環として、東京にオリンピックを招致することを決めた。 開催候補地は「東京」「ローマ」「ヘルシンキ」で、ローマに勝つことは難しいと考えられていたが、日本はイタリアのムッソリーニ首相に働きかけて、ローマに辞退してもらうことに成功し、ヘルシンキを抑えて東京での開催を勝ち取った。 しかし、昭和12年に日中戦争(シナ事変)が勃発したため、日本政府は東京オリンピック開催派と反対派に別れて大いに揉めた。 このようななか、商工省が「紀元2600年記念日本万国博覧会」の中止を決定したことから、厚生省も東京オリンピックの開催中止を決定し、日本政府は東京オリンピックを返上した。 こうして、オリンピックの開催地はヘルシンキになったが、第二次世界大戦の影響で、ヘルシンキ・オリンピックは中止となった。 しかし、田畑は、日本は経験不足だと考えていたようで、東京オリンピックを返上しても落胆しなかった。 閉ざされた道 戦時中、日本のスポーツ界は軍部の統制下に置かれてスポーツは禁止され、各競技団体は解散を命じられて「大日本体育会」に集約された。 しかし、田畑政治は、日本水上陸上競技連盟を解散せず、そのまま丸ビルに残しており、終戦の2月後の昭和20年10月に「日本水泳連盟」と改称して理事長に就任し、早くも国際水泳連盟への復帰を目指して水泳の復興に向けて動き出す。 そして、田畑政治は昭和21年に日本体育協会の常任理事となり、昭和22年には日本オリンピック委員会の総務主事に就任した。 さて、日本はオリンピック組織委員会を発足して、ロンドンオリンピックに向けて準備を開始したが、イギリスが日本とドイツの参加を拒否。 「政治とスポーツは別」というきれい事は通用せず、日本は参加の断念を余儀なくされた。 このようななか、後に「フジヤマのトビウオ」の異名を取る古橋廣之進が、日本選手権の400m自由形で4分38秒4という世界新記録を樹立するが、日本水泳界は国際水泳連盟に復帰していた無かったことから、公式記録として認められなかった。 怒った田畑政治は、オリンピックという晴れ舞台で古橋廣之進の実力を証明するため、水泳だけでも、戦後初となる昭和23年のロンドン・オリンピックに出場できないかと奔走したが、無理だった。 そこで、田畑政治は昭和23年のロンドン・オリンピックと同じ日に、神宮プールで日本選手権を開催したのである。 その結果、古橋廣之進と橋爪四郎が、日本選手権の1500メートル自由形で世界新記録を樹立。 この記録は、ロンドン・オリンピックの優勝者を上回る記録であり、世界に日本水泳の健在を示した。 しかし、オリンピックへの道は依然として閉ざされていたのだった。 「」へ続く。

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『いだてん』の田畑政治って?朝日新聞の記者だった?浜松の実家は?

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NHK大河ドラマ「いだてん」は、日本水泳の父と呼ばれる元朝日新聞記者の田畑政治(阿部サダヲ)が主人公の二部が始まっている。 田畑は忙しいはずの政治部記者でありながら、日本水泳連盟の代表も務めて後進の指導にあたり、2回の五輪に選手団を率いて現地入りするという二足のわらじをはいていた。 決して大らかではなかった当時の記者、長期の無断欠勤はクビ 「いだてん」には田畑が何日間も職場を留守にして、上司が「田畑は? (水泳連盟ですと聞き)あいつ!もう!すっ飛ばすぞ」と怒鳴る場面が出てくる。 当時の新聞社はよほど大らかだったのだろうか。 最新号の朝日新聞社報「エー・ダッシュ」(2019年夏号)が、この「田畑の謎」を取り上げた。 「田畑の謎」については、現代の後輩の朝日新聞記者も不思議なようだ。 朝日新聞コラム天声人語(2019年6月28日付)はこう羨ましがっている。 「おおらかと言えば、おおらかな時代である。 『田畑は記者半分、水泳半分だから』とかばう声が社の上層部にあったようだが、いまの新聞社ならとても認められまい」 ところがどうして、決して大らかな時代ではなかったという。 朝日新聞社史編修センター長が執筆した社報の特集「『いだてん』主人公 田畑政治三つの疑問」によると、当時の政治部でも行動は厳しく律せられていた。 田畑の入社前後の1923年、中国視察後に許可なく引き続き1か月余旅行した部員が減俸処分、27年には無断で中国に旅行に行った部員が減俸処分を受け、2人とも直後に依願退職している。 ましてや「社外活動」は当時の「服務内規」でも禁止されていた。 ただし、「特に総務局の認可を得たる者はこの限りにあらず」とあり、田畑の場合はこれに該当し、「水泳活動を社内でしっかり認知・認識されていた」という。 田畑は、ロス五輪に行った際、記者としてではなく、「水上連盟代表者 田畑政治」として何度も通常の紙面に登場しているというのだ。 朝日新聞は野球とともに水泳も販売戦略にしたかった? 社報では、「水泳は記者活動の妨げにならなかったのか?」と、現代の記者として当然の問いを投げかけている。 ドラマでは記者の仕事そっちのけで水泳活動にまい進する姿が描かれているからだ。 しかし、実際は優秀な政治部記者だった。 当時の政治部長が先鞭をつけた「夜討ち朝駆け」を率先して実行、政治家の懐に飛び込む。 つかんだネタを後輩記者に伝えて特ダネにさせる。 もう1つは、当時の朝日新聞のスポーツ報道事情もあったようだ。 朝日新聞は1915年から全国中等学校野球大会(現在の夏の甲子園大会)を主催、新聞販売面でも役立った。 28年のアムステルダム五輪で、水泳の日本選手が金・銀・銅メダルを獲得、にわかに水泳が注目されるようになった。 そこで、同年10月、朝日新聞は「国際水上競技大会」を主催する。 結局、野球大会に加えて水泳まで社の事業にする余裕がなかったのか、翌年以降大きな水泳大会を主催していない。 しかし、証拠資料は残っていないが、「社として花形コンテンツとなった水泳の中心人物を抱え続けていく方針を立てたとしても不思議ではない」と特集記事では推論している。 田畑の上司の緒方竹虎はこんなコメントを残しているという。 「田畑はエラくならなくってもいいんだよ。 田畑には水泳があるんだから」 田畑の「二足のわらじ」の背景に、こんな新聞社事情もあったことを頭に入れておくと、「いだてん」を見る楽しみも増すかもしれない。 (テレビウォッチ編集部).

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