ち てい りゅう の けん ぎょ く。 西方浄土筑紫嶋: 乾隆帝(けんりゅうてい)

西方浄土筑紫嶋: 乾隆帝(けんりゅうてい)

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ヌルハチは『後金(こうきん)の創始者』であり、清の前段階の後金の皇帝でした。 しかし、金(満州族)というのは漢民族を襲撃して支配している過去があるので、 漢民族にとっては屈辱的な名前でした。 そこで国号を『清』に改名するなど、様々な工夫をして中国を統治しようとしました。 ちなみに、実際に当時の中国『明』の皇帝、李自成(りじせい)を倒して明を乗っ取ったのは、3代目順治帝(じゅんちてい)の時代です。 そして4代目の 康熙帝(こうきてい)は、中国皇帝史上最長の61年の在位を誇り、『 中国の歴代最高の名君』として語り継がれています。 『中国の歴代最高の名君』康熙帝• 再興の環境に恵まれた乾隆帝• 彼につないだ雍正帝 は、『 清の黄金期を作った3帝』と言われています。 『 李自成(りじせい)の乱』だった。 李自成は北京を占領し、明の皇帝たちを自殺に追い込み、明を滅亡させ、皇帝を名乗るようになる。 1644年のことだ。 李自成はせっかく明の皇帝になったのに、すぐに北方の女真族が作った『 清』に支配されることになる。 山海関の防備をしていた呉三桂(ごさんけい)が北方の清を引き込み、李自成軍を北京から追い出してしまい、清王朝が勢いをあげてしまうのである。 呉三桂は『周』を建国して清に反旗を翻すが、滅亡し、清の中国支配が確定することになる。 ヌルハチ 清の初代皇帝は『ヌルハチ』だが、彼はどちらかというと『後金の創始者』であり、清の前段階の『後金』の皇帝だった。 ヌルハチは、満州文字を創製し、軍事・行政制度としての『八旗の制』を確立させ、 1616年に後金国を成立させた。 [ヌルハチ] 八旗の制軍隊を8つに分け、赤、白、青等部隊ごとに色の違う旗を持たせた。 ホンタイジ そして2代目のホンタイジになって、1 636年、国号が『金』から『 清』に変わる。 後金時代の満州族の総数は、わずか30~60万人ほどだったが、それで2億人以上の漢族を支配しなければならなかったので、『八旗の制』や減税措置等の様々な工夫で、彼らを治めようとした。 また、国号だった『金』は、下記の記事で書いたように、 漢民族にとっては屈辱的な名前だったため、それが『清』に変わるというところにも、工夫があったのだ。 初代皇帝 ヌルハチ 1616~1626年 後金を建国 2代目 ホンタイジ 1626~1643年 『清』に改称 3代目 順治帝(じゅんちてい) 1643~1661年 呉三桂の導きで北京に入城。 李自成を倒す。 4代目 康熙帝(こうきてい) 1661~1722年 イエズス会以外の布教を廃止 5代目 雍正帝(ようせいてい) 1722~1735年 キリスト教の布教を廃止 6代目 乾隆帝(けんりゅうてい) 1735~1795年 貿易制限令 順治帝 つまり、李自成を倒して『明』を乗っ取ったのは、順治帝の時代だったわけだ。 そしてホンタイジは、それを見越して先に『清』へと国号を改称していたのである。 もともと明と後金は仲が良かったのだが、李成梁(りせいりょう)の失脚とともに状況が一変し、明が討伐の為に大軍を送り込み、ヌルハチらは、これを『ジャイフィヤンの戦い』で殲滅した。 康熙帝(こうきてい) そして4代目の 康熙帝(こうきてい)は、中国皇帝史上最長の61年の在位を誇り、『 中国の歴代最高の名君』として語り継がれている。 [康熙帝(こうきてい)] ロシアのピョートル1世から尊敬され、フランスの太陽王、ルイ14世からも熱烈な手紙をもらうなど、各国のトップからも一目置かれていた。 元々ロシアは、清の領土である黒竜江に侵入してしまっていた。 ロシア側からすれば、侵入した国の王を尊敬することになるとは思っていなかっただろう。 そして両国はのちに『 ネルチンスク条約』を結び、互いの国境を定めるようになった。 雍正帝(ようせいてい) 次の5代目皇帝、 雍正帝(ようせいてい)は、その康熙帝の第4子だった。 [雍正帝(ようせいてい)] 激しい後継者争いがあったが、康熙帝の指名によって44歳で帝位に就くのである。 しかし、彼は帝位を争った兄弟や、反目だった重臣たちを粛正。 相変わらず、権力のそばには常に血の流れる話が存在していたのである。 しかし、人格的には良心的であり、先代、そして次の6代目皇帝、 乾隆帝(けんりゅうてい)とともに、『 康熙、雍正、乾隆』と3人セットで『 清の黄金期を作った3帝』と言われることになる。 乾隆帝(けんりゅうてい) 乾隆帝は、• 土地税、塩税、内地関税の大幅な増収• 平和にともなう軍事費の減少• 素朴な宮廷生活による内定費の節減• 官僚の不正に対する厳しい取り締まり• イギリスやヨーロッパ諸国との茶・絹貿易により大量の銀が流入 といった条件によって、とても 懐が豊かになった皇帝だった。 [乾隆帝(けんりゅうてい)] 今までの歴史を見てきても、たとえば『 明』は朝鮮に救助を求められ、日本との長期戦を強いられる。 しかし、軍事費が重なり、財政難に陥る。 更に、宦官の横領が発覚する。 『 宗』は、『西夏(さいか)』や契丹族の『遼(りょう)』相手に、防衛費たる『荒い金遣い』で、財政難を招くことになる。 そして、茶番のように権力に溺れる皇帝たち。 女性に溺れて王朝を滅亡させた皇帝たち 殷(紂王) 妲己に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 周(赧王) 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 晋(司馬炎) 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 唐(玄宗) 楊貴妃に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 そうしたことを考えても、乾隆帝の時代がどれだけ安定しているかということがよくわかるはずである。 また、• モンゴル系のジュンガル王国• 東トルキスタン• 四川省北西部と台湾の反乱• ネパール• ミャンマー• ベトナム こういった反乱を押さえたり、他国の領域を制圧し、しかもすべてを勝利に収めるなど、自ら『十全老人』と名乗るほど、多岐にわたる活躍をしてみせた。 その結果、清の領土は2倍になり、彼の時代に清は最大領域となった。 『 中国の歴代最高の名君』の康熙帝といい、乾隆帝といい、彼につないだ雍正帝といい、この3帝が統治した時代の清は、最も輝いていたということなのである。 また乾隆帝は、『 四庫全書(しこぜんしょ)』、『 欽定二十四史(きんていにじゅうしし』を作り上げたことでも有名だ。 前者は10年、後者は30年以上の時間をかけて、これを作り上げた。 四庫全書は、実に3万6384冊という膨大な数の、中国にあったありとあらゆる本を、一つにまとめるミッションである。 [四庫全書(荘子の書)] だが、清の最盛期もいつまでも続かなかった。 結局、やはりそうした積極的な遠征が重なり、財政難に陥るのだ。 そのころ、イギリスが世界を先駆けて産業革命を達成し、貿易路を拡大させていた。 そして乾隆帝時代の末期、インド産の アヘンが中国内に持ち込まれるようになってしまう。 これが、後の『 アヘン戦争』の原因となる。 [乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年、アーノルド・J・トインビー『歴史の研究』より)].

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乾隆帝 【けんりゅうてい】の作品を秘密厳守で現金買取り:東大赤門前で40年 本郷美術骨董館

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生涯 [ ] と側妃の熹貴妃ニオフル氏(、出身)との間の子(第4子)として生まれる。 祖父に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、を経て即位した。 質素であった祖父、父とは違い派手好みの性格であった。 父の死去後、25歳で即位すると父雍正帝の時代に助命された ()をとともに逮捕しに処して、その一族も処刑するなどその存在感を示した。 乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「」と呼ばれる10回の外征である。 (、 - 、)、の( - 、 - 、 ())、( - 、 - 、、戦闘は、で行なわれた)に2回ずつ、()および( - ())、( (、))、( - 、)、(、)に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自身を 十全老人と呼んだ。 これにより清の版図は最大規模にまで広がり、また、 、 、、まで朝貢するようになった。 十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南、緬甸など実質的には負けの遠征もあった。 また、の反乱( ()、 ())やなどが起こった。 さらにこの時期に中国におけるの活動を禁止し、完全な体制に入ったことで、のちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。 、の使節としてが入朝したのは乾隆帝の代であるが、は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。 国内政治においては、雍正帝の時代に置かれたが恒常的な政務機関となっていった。 ・期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。 また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。 この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くのを作った。 乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在もに残る多くのコレクション を収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。 これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。 自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。 宮廷画家たちを重宝したことでも大きく有名である。 帝,帝の頃までは宮廷画家たちのための確たる組織というものはなく、養心殿造辧処という、諸々の職人たちをまとめる組織の中に「画画処 画を画く処 」という部門があるにとどまっていたが、乾隆帝は即位とともに「画院処」を設けた。 この「画院処」が「画院 がいん 」の大本であったと言う指摘もされている。 さらにそれとは別にヨーロッパの画家などが仕事をする場としての「如意館」があった。 画院の歴史においてもこのように同時代に2つのが設けられているのは極めて特異である とされる。 さらにに篤く帰依していた。 チベット語のをモンゴル語と満州語に翻訳し、北京や熱河に多くのチベット寺を建て、チベット仏教僧を供養するなどといったことを行っていた。 チベット仏教に関連する重要な事績は大きく3つある。 1つ目は、皇城に接する北海の北に国家鎮護の仏であるを祀る寺を建てたこと。 2つ目は、北京初のチベット僧院ガンデン・チンチャクリンを設立したこと。 3つ目はチャンキャ3世が乾隆帝にチャクラ・サンヴァラ尊のを授けたことである。 灌頂 かんじょう とはサンスクリット語でアビシェーカ、チベット語ではワンと言い、「仏の力を授かること」を意味している。 その一方で退廃の芽生えもあった。 乾隆帝は奸臣の(和 珅)を重用し続けた。 ヘシェンはと他の臣たち全てに憎まれていた。 と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、も厳しく実施した。 1738年 乾隆三年 、10月に正室との皇二子である永璉 えいれん を9歳で亡くした。 その2月後の12月、という画家に「歳朝図」の作成を命じ、皇帝と皇子たちの団欒のさまを活写させたという。 その出来上がった「歳朝図」には永璉の姿も描かれていたという。 この際皇二子を亡くしているが、元々乾隆帝には17人の皇子がいた。 下の「后妃」の欄を参照 しかし乾隆帝が85歳にて退位しようとした時には50歳の皇八子永璇 えいせん ,皇十一子永瑆 えいせい ,皇十五子永琰 えいたん ,皇十七子永璘 えいりん の4人しかのこっていなかったという。 、治世60年に達した乾隆帝は祖父の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永 琰()に譲位しとなったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷く一方でヘシェンに政治権限を委ねた。 いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。 晩年の乾隆上皇は認知症を疑われる行動をし、王朝に老害を撒き散らした。 に崩御。 陵墓は内の裕陵。 ヘシェンは乾隆上皇の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分 に達したという(当時の世界のGDPの3割が清である)。 期のに国民党の軍閥によって東陵が略奪される事件が起き()、乾隆帝の裕陵及びの定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。 これは最後の皇帝だったにとってはに紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの建国および彼のへの再即位への布石にもなった。 文化事業 [ ] この節のが望まれています。 主に: 出版事業など ( 2020年1月) 后妃 [ ]• 長女(夭逝)、三女:固倫和敬公主、二男:端慧皇太子永璉(夭逝)、七男:哲親王永琮(夭逝)• ()(ナラ氏、那拉氏):江南巡幸における杭州の視察の際、当時の満洲族としては禁忌であった断髪をしたことで皇帝及び皇太后への呪詛とみなされ(断髪をした理由は諸説あり)、皇后を事実上廃された。 没後、葬儀は皇貴妃の格式で執り行われ、皇后であったが乾隆帝の裕陵には附葬されず、純恵皇貴妃の園寝に埋葬され、諡号もつけられていない。 十二男:貝勒永璂、五女(夭逝)、十三男:永璟(夭逝)• 七女:固倫和静公主、十四男:永璐(夭逝)、九女:和碩和恪公主、十五男:永琰()、十六男(夭逝)、十七男:慶親王永璘• (ガオギャ氏、高佳氏)• (蘇氏)• 三男:循郡王永璋、六男:質親王永瑢、四女:和碩和嘉公主• (陸氏)• (フチャ氏、富察氏)• 長男:定親王永璜、二女(夭逝)• (ギンギャ氏、金佳氏)• 四男:履親王永珹、八男:儀親王永璇、九男(夭逝)、十一男:成親王永瑆• (陳氏)• (バリン氏、巴林氏)• (ダイギャ氏、戴佳氏)• 六女(夭逝)、八女(夭逝)• (ケリェテ氏、珂里葉特氏)• 五男:栄親王永琪• (イルゲンギョロ氏、伊爾根覚羅氏)• 晋妃(フチャ氏、富察氏)• ()(ホージャ氏、和卓氏)ウイグル族。 ()のモデル。 舒妃(イェヘナラ氏、)• 十男(夭逝)• 惇妃(汪氏)• 十女:固倫和孝公主 ほか• 和碩和婉公主 - 父は和親王弘昼 出典・脚注 [ ]• 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。 乾隆30年代にビルマに内乱が起こり、乾隆帝はこれに介入して乾隆34年(1769年)にビルマを朝貢国とした。 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。 乾隆53年(1788年)ベトナムが王朝交替で乱れると、これに介入して同じく朝貢国とした。 『乾隆帝のコレクション』15、日本放送出版協会〈故宮博物院〉、1999年。 で紹介放映され、書籍化。 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』文春新書、2007年4月、第1刷、90-91頁。 石濱裕美子『清朝とチベット仏教-菩薩王となった乾隆帝』早稲田大学学術叢書、2011年9月30日、第1刷、150-168頁。 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』文春新書、2007年4月、第1刷、41頁。 寺田隆信『『紫禁城史話 中国皇帝政治の桧舞台』』中公新書、1999年3月、初版。 日本語文献 [ ]• 『清朝とチベット仏教 菩薩王となった乾隆帝』 出版部、2011年、。 『乾隆帝 その政治の図像学』 〈〉、2007年、。 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』 〈〉、2000年、。 『東洋の歴史9 清帝国の繁栄』(人物往来社、1967年)を文庫化。 『宮崎市定全集13 明 清』(、1993年)にも収録。 『大清帝国』 、2002年、• 『』(、1974年)を文庫化。 石橋崇雄 『大清帝国への道』 講談社学術文庫、2011年。 『大清帝国』(講談社選書メチエ、2000年)を文庫化。 『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』講談社、2007年/講談社学術文庫、2018年• 『乾隆皇帝』 、1961年• 『乾隆帝伝』 、2016年。 初刊版は生活社(1942年)。 新版は、新居洋子校注・解題『円明園の研究』を収録 以下は史料文献• 『中国訪問使節日記』 訳注、東洋文庫。 訳注 『士中国書簡集3 乾隆編』• 矢沢利彦 『西洋人の見た中国皇帝』 東方書店、1992年。 史書の編訳解説• 『』 長谷川強校注、(全3巻)、1991年 江戸時代の随筆。 乾隆帝についての逸話を収録。 登場作品 [ ] 小説• () - 著者の故郷で伝わる民間伝承をもとにして、「乾隆帝漢人説」を設定された小説。 映画化• (1981年、香港、演:)• 第1部 紅花党の反乱/第2部 シルクロードの王女・香妃(1987年、香港・中国、演:) テレビドラマ化• (2002年、中国、演:)• (2008年、中国、演:)• () 映画• ()(2012年、中国・香港、演:) テレビドラマ• (1998年、中国、演:)• 乾隆與香妃(2004年、中国、演:)• (2009年、中国、演:)• (2011年、中国、演:)• ()(2013年、中国、演:)• (2017年、中国、演:)• (2018年、中国、演:) 漫画• モンスターバンケット() 関連項目 [ ]• - にある夏期の別荘宮殿• - にある乾隆帝が建てさせたチベット様式の寺廟で.

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乾隆帝 【けんりゅうてい】の作品を秘密厳守で現金買取り:東大赤門前で40年 本郷美術骨董館

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