明智光秀 長良川の戦い。 明智光秀の正室の妻木氏は、長良川の戦い後、光秀に従って落ちの...

麒麟がくる17話あらすじ、感想 長良川の戦いと明智城に迫る危機

明智光秀 長良川の戦い

長良川の戦いとは? (長良川 出典:) 長良川の戦いとは、 1556年4月に美濃長良川付近で起きた合戦です。 詳しい出自は不明ながら、豊臣秀吉同様低い身分から成り上がり美濃の国主となった斎藤道三とその息子義龍親子による壮絶な喧嘩です! 結果的には、息子義龍の勝利となり、父道三は討ち死にと言う結末を迎えるのでした。 しかし、道三と 義龍は、折り合いが悪かったと言われています。 (子「斎藤義龍」 出典:Wikipedia) 背景としては、道三は義龍の弟にあたる孫の四郎や喜平次を溺愛していたことにあります。 斎藤道三は義龍を追いやり、孫の四郎達に家督を継がせたいと考えていたと言われています 義龍も我が子ではないかと思うかもしれませんが、実は、義龍にはある噂があったのです。 義龍の生母深芳野は、道三の側室ですが、元々美濃の国主 土岐頼芸の側室で、道三に貰い下げられた直後に懐妊したと言われており、もしや前の夫頼芸の子なのではないかと言う疑惑があったのです! DNA鑑定のないこの時代では、確かめようがありませんし、もしかしたら頼芸の子はたまた本当に道三の子であったかもしれません。 ましてや、かねてより折り合いの悪い義龍が道三の進言など聞く訳がありません。 また、この家督相続自体親子の不和により義龍を担ぎ出した家臣達に、より強行された物だともされており、道三としてはそもそもこの家督相続自体が不満だったのでしょう。 次第に道三は、義龍を無能と悪口を言い始め、幼い孫の四郎たちを家督に就ける事で自身が後見として実権を握りたいと考えるようになります。 また、道三自身本当に我が子か分からぬ義龍よりも我が子と確定していている孫の四郎たちを大切にし、本当の継承者として相応しいと考えていたのでしょう。 血を残す事を大事に考えていたこの時代、我が子か分からぬ義龍は、 道三にとっても脅威だったと言えます。 勿論義輝本人は、そのような悪巧みを聞けば面白くありませんし、道三を排除したい義龍にとって溺愛する弟たちは、自分を脅かす存在です。 長良川の戦いのはじまりと経過 孫の四郎たちの惨殺を契機に自らへの身の危険を感じた道三は、合戦へと流れ行きますが、父である道三は、圧倒的に不利な布陣となりました。 かねてより道三の遣り口に不満を持っていた家臣も多かったのです。 この一件には、家臣でもあり叔父ともされている 長井道利も関与しており、二人を誘き寄せる使者となり、対面の席でも刀を置くように諭したとされています。 信頼する身内が居たからこそ、孫の四郎達も気を緩めたのでしょう。 この惨殺事件は、義龍が用意した使者により道三にも告げられると身の危険を感じた道三は、自分の居城を後にし、城下を焼き払って 長良川の先まで逃れます。 そして、これをきっかけに合戦へと流れ行きます。 義龍側は、 1万 7500、中道三側はたったの 2700と言われており、数から見ても道三が家中では、もはや全く相手にされていない存在ともいってよかったでしょう。 ただ、道三の秘策は斎藤家の同盟相手でもあり、娘婿の 織田信長です。 (織田信長 出典:Wikipedia) 信長は、道三の娘で義龍の妹である 濃姫の夫でした。 信長を普段からかっていた道三は、信長に応援要請を出すと信長は、舅道三救援のため、出陣します。 しかし、信長の軍を含めてあまりにも道三の兵が少なく、到底義龍の数にはかないません。 しかも信長達援軍が到着するやいなや、道三が討ち取られたと言う報告がもたらされるのでした。 しかし、人数面では圧倒的に不利な道三は、義龍側が長良川を渡り、一斉に道三の本陣へとなだれ込むともはや太刀打ち出来る人数差ではありません。 道三本陣へと出撃してきた 長井道勝により生け捕りにされそうになった道三でしたが、乱戦の末、功績を急いだのかその場にいた他の家臣によって首を取られたと言われています。 道三の首がはねられた事に対し、道勝が激怒したとも言われており、当初は生け捕りにする気だったのかもしれません。 しかし、義龍側が戦に勝利した事で士気が上がっておりそのまま信長へと進軍して来るのでした。 信長としては、助けるべき道三が討たれた今、ムダな戦闘を起こす訳にはいきませんし、すでに士気が高まっている義龍相手では、勝ち目はありません。 そのため、体制を整えるべく 尾張への撤退を余儀なくされます。 その際、大将である信長は自ら殿を務め、その信長の乗る舟へ義龍軍が向かってきます。 しかし、鉄砲を撃ち込んだ事によって、これ以上義龍軍は追ってこず、無事に尾張へ逃れる事が出来ました。 殿は、本来大将や味方をスムーズに逃がすと共に自らも生きて戻ると言う大役でもあり、難役でこれをこなすと名をあげる事の出来る重要な役目でした。 ただ、当然最も敵に追われる身なので命の保証はありません。 それを大将自ら務めるのは異例とも言え、 信長にとって道三の死が衝撃的であったと推察されます。 その中には、無能と罵っていた息子義龍が思っていたよりも戦の戦法など出来る奴であったと伝えたと言われています。 道三は、義龍相手なら勝てるだろうと見くびっていましたが、思いのほか義龍は戦上手であったと言う事でしょう。 そもそも孫四郎達を溺愛していた道三は、義龍の事には興味が無く、家臣達はその力量に気付いていたのかもしれません。 しかし、義龍を疑う道三ただ一人がそれを分かっていなかったのかもしれません。 戦の中生き残った道三の末っ子 「斎藤利治」は、信長の元へ逃げ、延び信長の庇護下で暮らして行きます。 また、道三は首を討たれたとは言え、討ったのも元は道三の家臣でもあり、義龍軍によって厚く葬られました。 斎藤家のその後 (道三塚 出典:) 父道三を討った義龍は、 見事家中で自分を脅かす者を消す事に成功します。 ですが、良心の呵責がやはりあったのか、出家している事から何か思う所があったのでしょう。 この戦国の世、生きるか死ぬかそれは、自分次第と言う事ですね。 しかし、皮肉にも 35歳と言う若さで死去すると、息子である 龍興が家督を継ぐも敵対していた信長との戦で負けてしまい斎藤家は、 三代で滅びる事となるのでした。 後に道三の子孫は、藩士として仕えるなどし、家系は一部残ったとされています。

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麒麟がくる17話あらすじ、感想 長良川の戦いと明智城に迫る危機

明智光秀 長良川の戦い

小和田哲男 静岡大学名誉教授 昭和19年(1944)、静岡市生まれ。 昭和47年(1972)、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。 専門は日本中世史、特に戦国時代史。 大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証を担当。 著書に『明智光秀と本能寺の変』『明智光秀・秀満』など、近著に『戦国名将の本質 明智光秀謀反の真相に見るリーダーの条件』がある。 越前に赴いたのには理由がある 明智光秀が生国の美濃を離れ、越前に赴いたのは、弘治2年(1556)の「長良川の戦い」が原因だと考えていい。 長良川の戦いは、斎藤道三と息子の義龍が争い、道三が敗死した戦だ。 注目すべきはその後のことで、光秀の居城・明智城が、義龍の軍勢に攻められて落城しているのである。 つまり光秀は、勝者の義龍に敵視され、美濃にはいられなくなったので、越前に逃げ込んだ……。 そう考えてよいだろう。 江戸時代に書かれた『明智軍記』には、奥州の伊達氏や中国の毛利氏などを武者修行してまわり、越前に落ち着いたとあるが、それは信用できない。 美濃から越前に直接向かったはずだ。 そう考える理由は、美濃と越前が「近い」からである。 まず、距離が近い。 現在、岐阜県から福井県に行くには、鉄道も道路も迂回しているので遠いように感じる。 しかし、当時の標準的なルートは違う。 油坂峠や温見峠を越えれば、美濃から越前に直接入ることができ、文字通りの「隣国」なのだ。 それに加え、越前の戦国大名・朝倉氏と美濃の守護だった土岐氏は姻戚関係である。 また、土岐氏の居城だった大桑城の城下町には「越前堀」という名前の堀があり、越前の技術が美濃に入っていた形跡もうかがえる。 軍事技術の交流があったとすれば、「敵対していない隣国」だったことになる。 こうしたことを踏まえると、光秀が直接、美濃から越前に入った可能性は高い。 当時の越前は、朝倉氏初代の孝景から数えて五代目の義景が、一国をほぼ支配していた。 義景は、「信長に敗れた武将」というイメージで見られがちだが、一族を重要拠点に置き、家臣団はしっかりまとまっていた。 一向一揆との戦いはあったにせよ、他国から攻められることも少なく、越前は当時、比較的安穏な地域だったといえる。 さらに言えば、朝倉氏は単に安定した戦国大名というだけではない。 越前・一乗谷の朝倉文化は、周防・山口の大内文化、駿府の今川文化とならび、「戦国三大文化」と称される。 つまり文化面でも、繁栄を謳歌する大名であった。 光秀はこうした背景を踏まえて、越前に行こうと考えたのだろう。 越前での謎の十年間 『明智軍記』には、明智光秀が朝倉義景から五百貫の知行を与えられ、鉄砲寄子百人を配下に置いたとある。 しかし、一乗谷に光秀の屋敷跡は見あたらないため、それほどの厚遇を得たとは考えにくい。 私が史実とみているのは、時宗の称念寺(現在の福井県坂井市丸岡町長崎)の門前に十年住んだ、という記録だ。 これは、称念寺の関係者である同念上人が、『遊行三十一祖京畿御修行記』に記したものである。 天正8年(1580)、同念が奈良で遊行する際、梵阿という僧に取りなしを依頼し、梵阿は織田家で立身していた光秀を通じて、奈良を領する筒井順慶に頼む。 そのとき梵阿が光秀と旧知の関係であることを説明する箇所に、「惟任(光秀)方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」とあるのだ。 同念は光秀と同時代の人であり、『遊行三十一祖京畿御修行記』は史料としての信頼性が高い。 また称念寺は街道沿いに位置し、他国からやって来た人間が住み着きやすく、その点でも説得力がある。 称念寺の門前で暮らしたとすると、そこは一乗谷から遠く、その時点では、光秀は朝倉氏に仕官できていなかったと思われる。 では、十年もの間、何をしていたのか。 いわゆる寺子屋の師匠のようなことをしていたのではないかと、私は推測している。 それというのも、越前の敦賀で、弘治元年(1555)に旅の僧を庵に住まわせ、子どもたちに文字を教えさせたという記録(「刀禰仁吉文書」『敦賀郡古文書』)があるからだ。 美濃から落ち延びてきた光秀にも、それと同様なことがあったのではないだろうか。 ともあれ、屋敷の場所、待遇など、史料的に裏づけられない点は多いが、光秀がやがて朝倉氏に仕えたことは確かであろう。 長良川の戦いがあった弘治2年に越前に入り、「称念寺の門前に十年住んだ」ことを前提に計算すれば、仕官の時期は永禄9年(1566)前後となる。 そして、足利義昭と細川藤孝が越前に転がり込んできたのは、永禄9年の9月のことであった。

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本能寺の変だけじゃない「明智光秀」の一生を元塾講師がわかりやすく解説!

明智光秀 長良川の戦い

年末の沢尻エリカが引き起こした事件を乗り越えてついに始まるNHK大河ドラマの新作は、「本能寺の変」で有名な明智光秀にスポットを当てた異色作。 あらためて注目される謎多き戦国武将の知られざる青年期から遺された資料、意外な素顔まで、歴史の常識を覆す光秀の「真実」に迫る! 19日よりスタートするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。 放送開始を待ち焦がれるドラマウオッチャーが、その魅力を解説する。 「織田信長の側近でありながら、天下統一目前で本能寺の変を敢行。 歴史上では裏切り者の烙印を押された格好の、悪人サイドの視点から描かれる歴史物は非常にマレです。 主人公の明智光秀を演じる長谷川博己がどのような光秀像を演じるのか。 時代を動かすほどの謀反に及んだ真相、歴史的資料が残されていないため謎の多い前半生がどのように描かれるのか、期待値の非常に高い作品です」 物語の最初の舞台は美濃国(現・岐阜県)。 最初の主君として本木雅弘演じる美濃の大名・斎藤道三に仕えるシーンが、前半生のハイライトになる予定だ。 しかし、このストーリーに待ったをかける人物がいる。 明智家の末裔であり、「明智継承会」代表理事を務める明智憲三郎氏は、 【1】斎藤道三は明智光秀の真の主君ではない と強く反論する。 「史実とは大きくかけ離れた設定で、むしろ、敵対する相手になります。 明智家は美濃を治めていた室町幕府の守護職である土岐氏に仕えていました。 その守護職を横取りしたのが斎藤道三です。 光秀も土岐氏の重臣として道三と戦を繰り返してきましたが、武運むなしく下克上の波に飲まれてしまいます」 美濃を平定後、道三は隠居の道を選んだため家督を息子・義龍に引き継いだ。 だが本心では、側室から生まれた義龍に家督を継がせることに乗り気ではなかったようだ。 隠居後も影響力を持つ道三は、通説では溺愛する正妻の子・孫四郎と喜平次に再び家督を引き継がせるため義龍降ろしを画策する。 そこで勃発するのが「長良川の戦い」である。 「主君を毒殺するなどして成り上がった道三に加勢する者はほとんどいませんでした。 反対に長良川の戦いは、土岐氏の残党にとって絶好の敵討ちのチャンス。 資料として残っている義龍の軍勢リストには、光秀も名を連ねています」(明智氏) さっそく通説をひっくり返す形となったわけだが、さらに明智氏は有名な肖像画にも異を唱えた。 【2】本徳寺所蔵の「明智光秀像」は本人ではない 「現在のところ唯一の肖像画と言われているものですが、実はそこに書かれている『輝雲道琇禅定門肖像賛』に『光』『秀』の文字が入っているだけという、歴史的エビデンスには乏しい代物。 所蔵している本徳寺が『光秀の肖像画』だと主張しているだけなのです」(明智氏) 言われて見ると、どこか戦国武将らしからぬ、か細い印象も。 「光秀も戦乱の時代を生きた武将の一人。 本当は武骨でたくましい姿だったに違いありません。 そのイメージに合致するのは、ズバリ渡辺謙さんです」(明智氏) 長谷川のイメージは、やや期待外れということか。

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