志村家の墓。 志村けん

志村けんの実家は東村山に住所?自宅は三鷹市牟礼で父親・母親、兄弟は?

志村家の墓

「なんか早いような、遅いようなという感じですね。 まだ、けんが亡くなったっていう感じがしないんですよ。 今日で1カ月半くらい経ちますが、まだね。 亡くなった実感がない。 テレビの追悼番組なんかで再放送を見ると、余計にね……」 新型コロナウイルスによる肺炎で3月29日に亡くなった志村けん(享年70)。 日本中に激震が走った国民的コメディアンの死から1カ月半が経った。 その後もコロナとの闘いが続くなか、志村の実兄・志村知之氏(73)が納骨を前に現在の胸の内を「文春オンライン」に語った。 そして、5月1日にはNHK連続テレビ小説「エール」に作曲界の重鎮として初登場。 2%を記録し、これは同ドラマ2位タイとなる高視聴率だった。 「NHKの『エール』にけんが出たけど、すごかったね。 コントのときとは違って貫禄があった。 出演していたのは1分か2分ほんのちょっとなんだけど、いい演技やってましたよ。 正月に会ったときも『今度、朝ドラに出演するんだよ』と、けんは嬉しそうに話していました」 兄の知之氏は、ドラマで見た在りし日の志村の姿を思い出しながら何度も頷いた。 5月16日には志村が亡くなって四十九日を迎える。 新型コロナウイルスへの感染防止の観点から生前の面会も叶わず、親族は棺で眠る志村との対面だけでなく、火葬にも立ち会うことができなかった。 しかし、志村はまもなく、東村山市内にある両親と同じお墓に眠るという。 「今、けんは祭壇が作ってある自宅1階の床の間にいます。 四十九日法要は家族だけで静かに行いたいと思っています。 お墓については、けんは結婚していなかったものですから、親父とお袋とじいちゃん、ばあちゃんたちが眠る、先祖代々250年続いている志村家のお墓に納骨します。 ただ、遺品の整理なんかは全然……。 コロナのこともあるし、まだなにもできない。 けんが飼っていた愛犬だけは、知り合いの方がけんの代わりに引き取って世話してくれるようで、感謝しています」 モニター越しの「最後の表情」 志村が亡くなった直後には、西武新宿線東村山駅前に献花台が置かれ、多くのファンが希代の喜劇役者の死を悼んだ。 そして、東村山の実家にも、今も全国のファンから感謝の声が届いているという。 「全国の小さい子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまで人気があったんだなぁと改めて思います。 すごい弟だった。 でも、やっぱり早いよね……亡くなるのが。 本人は、コロナで死んだということがわかっていないと思うんですよ。 入院してこんな短い期間で亡くなると、言葉がありませんよね。 まだ今も『けんはいつ帰ってくるのかな?』っていう気持ちです」 改めて、志村が息を引き取るまでの13日間を振り返ると、志村が倦怠感を覚えたのは3月17日。 その後、自宅療養中だった19日に発熱や呼吸困難の症状が現れたため、20日に医師の判断で港区の病院に搬送され緊急入院となった。 その病院で重度の肺炎と診断され、23日には新型コロナウイルス検査で陽性と判明。 24日に転院してICU(集中治療室)で人工心肺装置による治療が行われていたが、29日に帰らぬ人になった。 知之氏は、最後に見た弟の顔が忘れられないという。 「入院してからは先生と細かい話はできなかったし、28日に病院へ行ったけど本人と面会はできなくて、モニター越しに鼻に管を入れたけんの顔を少し見ただけ。 それが最後です。 その翌日に死んでしまった。 意識がなくて、本当に寝ている感じでした」 「どんな薬でも、きっと間に合わなかったでしょう」 この1カ月半の間に、タレントの石田純一やフリーアナウンサーの赤江珠緒などが新型コロナウイルスに感染し、肺炎と診断されている。 しかし、2人とも新型コロナウイルスに効果があるとされる「アビガン」が投与され、一命を取り留めた。 また、厚労省は5月7日に抗ウイルス薬である「レムデシビル」を新型コロナウイルス感染症の治療薬として正式承認した。 こうした新しい治療薬について、兄の知之氏は次のように語った。 「いま、いろんな薬のニュースが流れてますけど、けんは入院してから短い期間に人工呼吸器を付けて、最後には人工心肺装置まで装着した。 でも、すぐに終わってしまった。 だから、どんな薬でもきっと間に合わなかったでしょう。 今となっては、そう納得せざるを得ないです」 知之氏は、亡き弟・志村けんへ最後の言葉を送った。 「けんと会うのは1年に1、2回でした。 忙しくてなかなか会えなかったから、正月に帰省したとき、けんの舞台を観に行ったときに、けんと会うのがとても楽しみでした。 これからは天国でもゆっくりね。 お酒は飲めなくても親父やお袋と会って、ゆっくりいろいろな話をしてほしい。 ほんとうに私の弟にしては出来過ぎな人でした」 (「文春オンライン」特集班/Webオリジナル(特集班)).

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「本人はコロナで死んだとわかっていないと思う」志村けん実兄が四十九日を前に告白《東村山市内に納骨へ》

志村家の墓

室町時代創建の東京・東村山市にある古刹。 その一角に、ひときわ大きな墓がひっそりとたたずんでいる。 きれいに掃き清められ、花立てには彩りにあふれた真新しい花が供えられている。 線香の燃え跡が残り、周囲にはまだ香りが漂っていた。 その傍ら、先祖代々の戒名が記された墓誌に、先日、新たな戒名が刻まれた。 「瑞心院喜山健徳居士」 ここには、3月29日に新型コロナによる肺炎で急逝した、さん(享年70)が眠っている。 最愛の母・和子さん(享年96)と共に。 訃報から2か月余り。 突然の別れとなった長兄の知之さん(73才)は、「まだ亡くなった実感がない」としながらも、「納骨が終わってホッとした」と複雑な胸の内を口にする。 「四十九日の前に、家族のみで納骨しました。 新しく建てたのではなく、先祖代々250年続くお墓です。 けんは妻も子供もいなかったので、両親や、じいちゃんばあちゃんたちと一緒にゆっくりしてもらえればと思ってね」 先祖代々の墓は、長男が受け継ぐケースが多い。 志村さんのように3人兄弟の末っ子で妻子がなく、突然の死を迎えた場合、墓問題は迷走することも少なくない。 ましてや、志村さんは遺言も残していないとされている。 葬送・終活ソーシャルワーカーの吉川美津子さんが言う。 「先祖代々のお墓に、長男しか入れないという決まりはありません。 そのお墓を管理している祭祀継承者が了解すれば、入ることができます。 志村さんの場合はお兄さまや親族との関係が良好だったので、揉め事もなく、スムーズに入ることができたのでしょう」 生前の志村さんは多忙の合間を縫って、正月には母・和子さんと知之さん一家が暮らす実家を訪れている。 結びつきが強かった兄弟らしく、葬儀や納骨などは兄らが取り仕切ったという。 葬儀で使われた志村さんの遺影も、知之さんが住む実家に戻っている。 その遺影の話題になると知之さんの表情が緩み、懐かしそうにこんなエピソードを教えてくれた。 「遺影にした写真は10年くらい前のもので、鶴瓶さん(笑福亭鶴瓶・68才)と一緒に撮った一枚なんです。 母親が、鶴瓶さんとけんのテレビ番組に出演したことがあるんですけど、その撮影の合間に撮った写真なんです。 出来上がった写真を見て、いい笑顔だなって思ってね。 ほかにも写真はたくさんあるんですけど、この鶴瓶さんと写ってる写真がいちばんいい。 あのけんの表情が、ずっと頭に残っていたんですよ」(知之さん) 志村さんと鶴瓶は50年来のつきあいで、1998年からは年に1度、正月の特別番組で共演している。 プライベートでも仲がよく、鶴瓶は志村さんの母親とも親交を深めていた。 その間柄は、晩年の志村さんに大きな影響を与えている。 志村さんは今年、NHKの連続テレビ小説『エール』への出演や、映画『キネマの神様』の初主演など、70才を機に俳優業に力を入れていた。 それでも鶴瓶さんは、志村さんの俳優姿を見たいと口にしていたんです。 面と向かっては言いませんが、そのやりとりが、志村さんの中にずっと残っていた。 となると、遺産の行方も気になってしまう。 「けんが飼っていた2匹の愛犬は、有難いことに知り合いが引き取って世話をしてくれています。 決まったのはこれくらい。 三鷹にあるけんの家にはもう誰もいませんが、今後あの家をどうするか、遺品をどうするのか、遺産はどれくらいあったのか、まだまだ話し合いもできていない状況です」(知之さん) 志村さんの死後の手続きは、まだ始まったばかりのようだ。

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<田端駅南口と不動坂> 「学校へは少し近くなった その上前より余程閑静だ 唯高い所なので風あてが少しひどい 其代り夕がたは二階へ上ると霧の中に駒込台の燈火が一つづつともるのが見える ・・・ ただ厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くつて路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ そこで雨のふるときには一寸学校がやすみたくなる やすむとノートがたまる此頃はそれに少しよわってゐる」、 と田端のことを友人の恒藤恭への手紙に書いています。 当時は田端駅裏口 現在の南口 から通っていた為、駅からすぐに急な坂道があり坂を登り切ると反対に狭い下り坂(与楽寺坂)になります。 与楽寺坂の途中を右に曲がった突き当たりが自宅でした。 右に曲がって自宅へ行く途中を左に曲がるとです。 天然自笑軒や下村薫医師宅への近道になります。 昔の面影がある小さな駅舎です。 現在は田端駅北口がメインの入口で、北口正面にはがあります。 <芥川龍之介自宅跡> 拝啓今般左記に転居致侯間御通知申上候敬具 田端停車場上白梅園向ふ横町 北豊島郡滝野川町宇田端四百三十五番地 大正三年十月 芥川 道 草 芥川 龍之介 は田端に移った時に芥川龍之介が出した移転通知です。 (芥川龍之介全集より) 芥川龍之介が内藤新宿から田端に移ったのは大正3年10月末のことです。 宮崎直次郎という道草の一中節の相弟子が田端に天然自笑軒という会席料理屋を出していて、その紹介でこの田端に移ってきています。 近藤富枝の「田端文志村」によると 「田端435番地は、田端駅から歩いて6、7分、370坪ほどの三角形の地所で、山の上のために風当りが少々強いのが難であった。 この土地に階下4間、他に納戸・湯殿・台所。 階上に2間の家を新築した。 なお、新原つるの話によると、芥川道草は読み書き、そろばんが達者で、田端にうつってからも依然芝新銭座の耕牧舎に通い、やはり銀行関係の業務をすべてまかせられていて、それは震災で耕牧舎の店が焼けるまで続いていたという。 」とあります。 借地だった為、昭和20年4月13日の空襲で焼けたあと芥川家で購入できず現在は3軒に分割されています。 写真の左側の数十メートル続いています塀は当時そのままだそうです。 戦災で焼けなかった台所へ通じていたは、3軒に分割された一軒でまだ残されています。 <天然自笑軒跡> 芥川道草の一中節の友人、宮崎直次郎が明治41年に出した割烹料理屋が天然自笑軒で、芥川龍之介も良く利用していたようです。 『もともと素人の好きではじめた仕事だから、器にも、座敷の掛けものにも、庭のたたずまいにも、趣味をふりかざして大いに凝った。 料理人は新井という、会席料理なら日本一の腕という人をさがしてきて任せる。 客室は六つ、予約以外の客はとらず、料理は七品で一人前五円、これが並の料金だった。 やがて総理大臣若槻礼次郎、渋沢栄一などという、ときの顕官たちのひいきを受けるようになり、自笑軒の名は、有名になった。 直次郎の娘で、芥川龍之介の義弟に当る新原得二(父は新原敏三、母はふくやふきの妹に当るふゆ)に嫁いだつるの話によると、「おわんに、お向に、口とりに、焼物に、煮ものに、おつぼ、小づけ、それにお口洗い、さいごにお抹茶をお出しいたしました。 いったいに味がうすく、畳もちょんぼりでございました」というから、茶人むきの上品な献立だったと思われる。 』、 と近藤富枝の「田端文志村」に書かれています。 当時は有名な料理屋さんだったみたいです。 今も庭が大きなお宅で昔の趣をそのまま残しています。 写真左側が芥川龍之介の掛かりつけの下島勲医師旧宅跡で、当時を忍ばせる跡は今はなにも残っていません。 <芥川龍之介のお墓 慈眼寺 > 自殺した昭和2年7月23日夜半から24日早朝の芥川家の様子を近藤富枝の「田端文志村」から引用しますと、 『・・・芥川の家で、彼は伯母ふきの枕もとへやってきて、「これを明日の朝に下島先生に渡してください」と言って、 「自嘲 水沸や鼻の先だけ暮れ残る」 龍之介 という自句を書いた短冊を渡し、一時半ごろ寝室にひきあげた。 そのあとねまきに着がえ、ふとんの中で聖書を広げた。 ニ十四日未明に雨が降り出した。 下島勲はその音を夢うつつにききながら、心地よい涼しさに眠りこんでいた。 と玄関で聞きなれた芥川の伯母の声がする。 妻のはまが出ている。 「変だ」とか「呼んでも答えがない」などという断片が耳に入る。 下島はギョッとして床の上に起き直った。 芥川の家へいく道はぬかり、あわてる下島の足を滑らせ、何度も転びそうになった。 「すぐ一緒にきて下さい」 小穴の下宿新昌閣の部屋の外で、芥川の甥着巻義敏の声がする。 小穴はとび出した。 「ほんとにやったのか」「どうもそうらしいんです」 小穴が、義足をつけ芥川家へかけつけると、龍之介の枕頭に下島がいた。 二本目の注射をすませ、彼は注射器を片づけているところで、「とうとうやってしまいましたなア」 と小穴に声をかけた。 』、 と、危急な様子が良く書かれています。 お墓のある慈眼寺は、元々は日蓮宗で立野山慈眼寺と称し、元和元年(1615)に深川六間堀(現在の新大橋3-8付近)に寺を建立したことに始まります。 元禄6年(1693)に深川六間堀から猿江2丁目に移り、明治45年(1912)豊島区巣鴨(現在地)に再移転しています(その際、山号を正寿山と改めた)。 慈眼寺を訪ねるには巣鴨の駅から行くのですが、細い道と一方通行が多くて車での訪問は難しいと思います。 染井霊園をすぎて「振袖火事」で有名な本妙寺の裏手に慈眼寺はあります。 芥川龍之介の墓石は本人の遺言により愛用の座布団の同じ形と寸法で作られています。 右側が芥川家のお墓で、左側が芥川龍之介が愛用の座布団と同じ形をしたお墓です。 田端周辺地図.

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