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足立 いま る

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 驚くべき作家である。 そのことは『やちまた』以前に『虹滅記』(こうめつき)を読んだときに感じていた。 作家本人の祖父とその周辺事情を綴って、縦横無尽でありながら脈絡の脈絡を決して逃さない書きっぷりに、ほとほと舌を巻いた。 文章から受ける印象でいえば一種の名人芸とも職人芸ともいえるのだが、そういう芸当なら世の中にはけっこうあって、そういうことよりきっと、異様な逸材を一族語りとしての多様な文意をもって構成するという、その手立ての妙が群を抜いていたといったほうがいい。 足立巻一の祖父は漢学者の足立敬亭である。 吃音であったらしい。 その子が足立莚川(こせん)で、作家の父親にあたる。 祖父と父とはいささか数奇な人生をおくりながらも、二人して世に知られざる稠密な『鎖国時代の長崎』を延々と書き継ぐのだが、そのほかにもたくさんの遺稿をのこした。 『虹滅記』は散逸していた遺稿を隈なく捜しあて、それらを何年にもわたって読みこみ、さらに一族が各地で交流した人物たちの旅路を綴って、その祖父の一族の実像をつねに意外な糸口から、何通りも描写してみせるのだ。 なるほどこのように人物クロニクルを組み上げていく書き方があるのかと、感嘆したものだ。 日本エッセイストクラブ賞(1982)をとったのも宜なる哉。 評伝文学の傑作中の傑作といっていい。 なぜ、今日、これが忘れ去られているのかわからないほどなのだ。 だったら今夜はこの『虹滅記』をこそとりあげてもよかったのだが、ぼくはそのあとに『やちまた』を読んで、これまた本居春庭をここまで執拗に描いた作品をやはり捨ておけないと思ったのである。 足立は『やちまた』を先に脱稿上梓して、『虹滅記』のほうはそのあと時間をかけて書いた。 けれどもぼくは『やちまた』が本屋に並んでいたときは、この作家のことをまったく知らなかった。 それで順序が逆になって読むことになってしまったのだが、実は『やちまた』はそれを小説とよぶのなら、出来ばえはそんなによくない。 筋書きも登場人物もわかりにくい。 これが正直な感想だ。 受賞作というなら『やちまた』も芸術選奨の文部大臣賞(1975)を授与されているから、そのころは結構な評判だったわけだったろうが、読んでいて小説としては驚かなかった。 煌めきも少ない。 むしろ、追いつめられていくような重みに拉(ひし)がれるといった読中感だった。 しかしながら、なんといっても春庭にこだわったものとして出色であり、かつ、このように一人の歴史上の人物とかかわった主人公(足立巻一本人)の心情が執拗に絡まるように描ける編集方法が出現したという意味では、やはり見逃せなく、そこで今夜はこちらをぜひとも紹介しておきたかったのである。 が、うまく紹介できるとは思えない。 とりあえずはまず、本居春庭(もとおり・はるにわ)のことである。 国学や宣長に関心がない者にはまったくこのような名前すら聞いたことがないだろうけれど、春庭が本居宣長()の長男として生まれたのは、宝暦13年(1763)だった。 幼名は健蔵、のちに健亭とし、さらに春庭を名のった。 文政11年(1828)に亡くなるまで、ほぼ伊勢松坂にいた。 春庭は幼少期より、父の宣長から国学のイロハや歌学の道を学んでいた。 そのため父の著作を書写したことも数多く、その後は『古事記伝』をはじめ、版下も書いた。 ところが寛政3年(1791)のころにひどい眼病を患って、32歳には失明してしまった。 けれども春庭の研究熱心はそれでもまったく衰えず、妹の美濃や妻の壱岐の助けを借りながらも進捗を途絶えることがなく、ついに文化3年(1806)には日本の古語の動詞活用に関する画期的な研究をまとめた。 それが『詞八衢』(ことばのやちまた)なのである。 春庭はつづいて『詞通路』(ことばのかよいじ)も書いた。 以下、本書は『詞の八衢』『詞の通路』と送り仮名をおくっているので、そう表記するが、いずれも動詞の活用問題や自動詞と他動詞の分別に切り込んだものだった。 本書は、その『詞の八衢』に著者の足立がどのようにめぐりあい、どのようにそこに溺れていったかという顛末を、微に入り細を穿って綴ったものだ。 だからタイトルも『やちまた』なのである。 しかし、なぜ足立がこのことに分け入ったかということを見るには、春庭の『詞の八衢』のどこが画期的かということを知らなければならない。 それには、徳川期の国語の研究史と国学史を多少は知らなければ、何も見えてはこない。 やや専門的な話になるが、それを説明したからといって、実は本書の説明にはならない。 まあ、それはしょうがない。 そういう風変わりな本なのだ。 いわゆる「国学」の出発は万葉集研究と日本語研究にある。 992夜にもざっとしたことを書いておいたけれど、結論からいえば、この二つをつなげたのはと契沖(けいちゅう)の二人だった。 光圀が『万葉集』には日本人の古い習慣や考え方があると思って、その研究を古典解釈で評判の下河辺長流(しもこうべ・ながる)に頼んだ。 長流はちょっと変わっていて、自分が乗らないと相手が誰であっても仕事をすすめない。 それでこの研究が中断状態になったため、光圀は長流の教え子だった契沖にその継続を依頼した。 契沖は『万葉集』すべての歌に注釈をつけ、それを『万葉代匠記』として結実させた。 師匠に代わって書いたという意味のタイトルである。 契沖は、一方で『古今集』『伊勢物語』『百人一首』なども研究していて、なかでも日本語の音韻と仮名づかいの解明に熱中していた。 それが『和字正濫鈔』になるのだが(この著作についてはあとでふれる)、ここに国学が万葉研究と国語研究を両輪にスタートすることになったのである。 ついで京都の伏見稲荷に荷田春麿(かだ・あずままろ)が登場して、『万葉集』とともに『日本書紀』と中世神道を研究した。 春麿は将軍吉宗に招かれ江戸に行く。 その途中に浜松に立ち寄り、そこで姪が嫁いでいる浜松諏訪神社の杉浦国頭(くず・くにあきら)に会う。 浜松には賀茂真淵がいた。 真淵は国頭から国学の洗礼をうけ、さらに紹介状をもらって江戸に赴いた。 すでに春麿は亡く、甥の荷田在麿(ありまろ)が田安宗武に仕えていたので、真淵はそこに参画しようとしたのだが、宗武は宗武で、在麿に頼んで書かせた『国歌八論』がどうにも気にいらず、二人のあいだに論争対立が生じ、宗武は自分で『国歌八論余言』を綴って真淵に示した。 このとき、992夜にも指摘しておいたように、真淵は宗武の所論におおむね賛同しつつも、決定的なところで別の主張をした。 宗武が「理」(ことわり)をもって説いているのに対して、むしろ「理」では解けないものがあると判断したのだ。 日本のフルコトには「ことわり」(言割り)では説明のつかない「わりなきねがい」(割りなき念)があるとした。 「割れないもの」があると言ったのだ。 これがその後の国学の方向を劇的に変えたのである。 ここから宣長・春庭へは一直線になる。 真淵には、五意考とよばれる『国意考』『文意考』『歌意考』『書意考』『語意考』という著書があった。 また、『万葉考』『冠辞考』『祝詞考』があった。 『万葉考』は契沖を受け継ぐもの、ほかの二つは枕詞(まくらことば)や祝詞(のりと)についての研究だった。 これらは文学論でもあって、かつ国語学的な著作だった。 真淵は江戸にいたから、村田春海や加藤千蔭らの関東勢力が多く門人となった。 伊勢松阪にいる宣長のような地方にいる者は、やむなく手紙を交わして真淵の教えを乞うた。 こうして宣長は真淵の「わりなきねがい」に接することになるのだが、そのあたりの事情をとばしていうと、やがて宝暦13年5月の「松阪の一夜」をまたいで宣長の『源氏物語』研究の本格化と、そして『古事記』研究の着手が始まった。 実は「松阪の一夜」の宝暦13年が、春庭の生まれた年だったのである。 ここでやっと春庭が登場する。 国学や国語学にとって最も重要な文献は、『万葉集』を筆頭とした和歌集の数々と、『古事記』『日本書紀』などの歴史語りと、そして『源氏物語』である。 いずれもすでに契沖が注目していたのだが、源氏の研究も契沖が先鞭をつけていた。 儒教的解釈をいっさいしりぞけた『源註拾遺』である。 これが真淵をへて宣長に継承されたとみるとよい。 宣長は宝暦8年から自宅で源氏講義をする。 そのときすでに『安波礼弁』(あはれのべん)を書き、それを5年後に『紫文要領』(しもんようりょう)に拡張し、さらに改稿して『源氏物語玉の小櫛』を書きあげる。 日本の物語の本来が「もののあはれ」にあるという見方がここに確立した。 「割れないもの」、それが「もののあはれ」なのである。 宣長は『石上私淑言』(いそのかみのささめごと)では、この「もののあはれ」の感動をあらわしたものが和歌そのものなのだ、というふうにも達した。 ざっとふりかえれば、こういうふうに契沖・春麿・真淵・宣長をへて国学は進捗してきたのだが、ここにもうひとつの研究が大きく浮上してきた。 それは仮名遣いをめぐる研究というものだ。 仮名遣いというのは「テニヲハ」の問題から、「顔」はカオなのかカホなのかカヲなのかという訓字の問題までふくむ(古典にもとづけばカホが正解)。 中世すでに、そうした仮名遣いが混乱していた。 そこでそのころ、著者不明の『仮名文字遣』という一書が出現して、藤原定家が自分の歌集『拾遺愚草』の清書のときに、源親行が「を・お・え・ゑ・へ・い・ゐ・ひ」の8文字の遣い方を統一したというふうになった。 また、源親行の孫の行阿が、これに「ほ・は・わ・む・う・ふ」を加えて、それが通り相場になった。 というふうにいったんは落着した。 しかし、これらはかなり杜撰なものだった。 そんな程度の仮名遣いの規則だったのである。 これを文献に当たっていちいち訂正し、組み立てようとしたのが契沖の『和字正濫鈔』だったのである。 それまで日本語の仮名遣いは中国語の四声に縛られていた。 『仮名文字遣』にもその影響がある。 そこで契沖はさまざまな文献にあたって仮名表記をしらべあげ、「濫(みだ)れたるを正す」ものとして『和字正濫鈔』をまとめた。 一言でいえば、古代文献の表記に戻るべきだと主張したのだ。 古代回帰である。 これで「家」は「いゑ」ではなくて「いへ」、「遅」は「をそし」ではなくて「おそし」というふうになっていった。 契沖の提案には反対も出た。 橘成員(なりかず)は『倭字古今通例全書』を、青木鷺水は『万葉仮名遣』を書いて、古典ばかりに依拠することを批判した。 契沖は反論したが、決着はつかない。 さらに貝原益軒の『和字解』、服部吟照の『仮名遣問答抄』、真淵の門人の一人だった楫取魚彦(かとりなびこ)の『古言梯』(こげんてい)、村田春海の『仮字大意抄』などが刊行され、江戸中期には、しだいに仮名遣いを正確にしていくことが日本のフルコトを正確に読めることにつながるという風潮に、なってきた。 ここに出現したのが宣長の『字音仮名用格』(じおんかなづかい)と『漢字三音考』と、そして春庭の『詞の八衢』や『詞の通路』なのである。 そもそも日本語には、漢字を訓読みするか音読みするかという問題がつきまとっている。 その音読みにもいろいろあった。 「生」はセイ・ショウ・キが音読みで、イキル・ナマ・ウマレルが訓読みである。 これらの何をどのように使うかは、文脈で判断する。 これが日本文化の多様性というものだ。 しかしそのため、さまざまな混乱もおこった。 読むときは文脈で判断するにしても、その文脈をつくるほうの書き手は表記を正確にしておかなければならない。 適確に選択する必要がある。 たとえば蝶々を「てふてふ」と綴る。 では、「ちょう」と読める漢字はみんな「てふ」と綴るかといえば、そうではない。 鳥は「てう」となる。 「てふ」=蝶・貼、「てう」=兆・鳥・朝、「ちゃう」=長・町・聴、「ちょう」=重・澄などに分かれるのだ。 これらを正確に分類しようとしたのが宣長の『字音仮名用格』や『漢字三音考』だった。 さあ、こうなってくると仮名遣いといっても、そこは日本語の、すなわち国語の根幹にかかわる表記や文法や、さらには考え方の問題になる。 だいたい日本語はどのような発音母型をもっているかということも問題になる。 そこで「いろは」や「五十音図」の工夫もされるようになるのだが、このあたりのことについては、すでに馬渕和の『五十音図の話』にあらかた紹介しておいたので、省くとして、ともかくはこうした「五十音」の発見と創成が日本語の研究史を貫通する大道になっていったのである。 宣長の『字音仮名用格』にも、五十音図がのっている。 「お」なのか「を」なのかということは、「お」がア行に、「を」がワ行に属するという見方がないと、最終決着がつかないのだ。 宣長以外にも研究者が次々にあらわれた。 の『脚結(あゆひ)抄』といった、日本語の根本文法を問う研究も出てきた。 富士谷成章は、日本語の言葉のすべてを、「挿頭」(かざし=接頭語・代名詞)、「装」(よそい=用言)、「脚結」(あゆひ=助動詞)、「名」(な=名詞)に分けたのだ。 「装」はさらに事(動詞)、状(形容詞)、在状(形容動詞)に分けた。 たいへん興味深い。 かつてぼくは成章の息子の御杖のほうから富士谷学に入ったものだった。 富士谷の『脚結抄』は安永2年(1773)だが、宣長はその2年前の明和8年(1771)に『てにをは紐鏡』を書いて、係り結びの法則についての研究をまとめた。 これはのちに『詞玉緒』(ことばのたまのお)とも発展したもので、今日の係り結びの法則の大要を確立した。 今日の大野晋の大著『係り結びの研究』につながるものだ。 さらに宣長は文法書ともいうべき『玉霰』(たまあられ)を著して、フルコトを研究する者はことごとく文法をマスターするべきだとも強調したのである。 かくして春庭は、父の宣長のこうした国学・国語学のすべてを身に引き取っていくことになる。 『詞の八衢』とは、言葉の活用は八衢に及びうるという意味だった。 次に、本書の著者の足立巻一(けんいち)のことである。 この人のことを紹介しなくては、なぜ『やちまた』をとりあげたかがわからない。 この人はもともと作家ではなかった。 「新大阪」というかなりユニークな夕刊新聞の記者だった。 この新聞はぼくも帝塚山学院大学のセンセーをしていたときには、いつも駅の売店で買っていた新聞で、たいへんおもしろかったのだが、10年ほど前に廃刊した。 足立よりも10歳年下の司馬遼太郎()が京大担当の記者をしていたころ、足立はその「新大阪」の京都担当だった。 だから京大の記者クラブにはよく顔を出した。 足立は京大を取材しながら、猪木正道、桑原武夫()、鶴見俊輔()、多田道太郎、加藤秀俊、上野照らと知遇をえたようで、司馬にとっては、とくに鶴見の「思想の科学」の賛同者として名を馳せていたという。 足立は大阪の児童詩の雑誌「きりん」を興した一人でもあった。 その経緯は、もともと「新大阪」が大阪堂島の毎日新聞の社屋の一隅を借りていて、そのころ毎日の学芸副部長に井上靖()がいたことにまつわる。 井上が子供に詩を書かせるための雑誌を発案し、それが「きりん」になって、その実質編集を足立が取り仕切ったのである。 足立は東京の出身だが、学校は伊勢の神宮皇学館なのである。 だから神宮皇学館のことを知らなければならない。 この学校は明治15年に設立された国学研究のための学校で、同じ年に東京大学に古典講習科、のちの国学院の母体となった皇典講究所が設立されている。 もともと伊勢の神宮の地には宇治の林崎文庫と山田の豊宮崎文庫があって、神宮神職は長らくここを教学の場として選んできた。 やがて維新以降、神宮にも改革の波が押し寄せ、旧礼典故を学び伝える学校が必要となり、林崎文庫の地に建てられたのが神宮皇学館である。 創立50周年の昭和7年に、現在の倉田山に移転し、そのとき本科に神道科が設けられ、神道・国漢・歴史の3科になった。 昭和15年からは神宮皇学館大学になっている。 初代学長が山田孝雄である。 足立はその神宮皇学館に学んだのだ。 そこに盲目の語学者がいた。 本書では白江教授とよばれている人で、足立はその白江教授の2学期冒頭の授業に魅入られた。 『やちまた』の冒頭には、次のようにある。 その盲目の語学者がわたくしに巣くってしまったのは、丘の松林のなかの、神殿のように床の高い古風な教室においてであった。 二学期がはじまったばかりで日射しは暑かったけれど、松風がざわざわ鳴っていた。 白江教授の文法学概論の時間であった。 教授は三十歳なかばであったろうか、目も声も物腰も女形のようで、顔はノートに伏せたままで講義をつづけていた。 (中略)それでいて、黒板に書く白墨の文字は、大きく力が漲って粘着している。 黒板には「本居春庭」「詞の八衢」「詞の通路」という文字が、三行に書かれていた。 足立は教授の語る春庭にたちまち嵌まっていった。 落ちていったといったほうがいいだろうか。 最初は春庭の生涯のことだ。 春庭が失明したため、宣長の心痛がひとかたでなく、自分で京・大坂の名医に連れていったのに経過がおもわしくなかったこと、そこで春庭を鍼医にすることにして上京させたこと、その春庭が修行を積んで松阪に戻ったのは35歳で、鍼灸を開業して従妹にあたる壱岐と結婚、けれども39歳のときに父の宣長が没したこと、しかしすでに春庭の父に対する敬意と学習は並々ならぬものに達していて、とりわけ語学研究を継承しようとしていたこと、一方、本居家では宣長の弟子の稲懸太平(いながけ・おおひら)を養子に迎えて跡取りとし、太平はしばらく紀州家に仕えたこと、春庭は和歌もかなり上手で父より勝っていたことなど、足立はまずは春庭のそういう事績を白江教授の静かな口ぶりから全身に染みこませていったのである。 ついで、『詞の八衢』や『詞の通路』に言葉の活用があきらかにされていて、四段、一段、中二段、下二段の4種については春庭がその活用をはじめて考察したこと、ただし中二段は上二段のことで、それについては桑名の黒沢翁満の『言霊のしるべ』が指摘したこと、しかし春庭は日本語にはこれらの活用のほかにも活用があって、すでにそれを「変格」と名付けていたことなど、足立は神宮皇学館で、一人の盲目の学者が日本語の細部にわたっておびただしい例証を用いてその学叢に分け入っていく様子を、手にとるように感じていった。 教授が、「ふしぎですねえ、語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようです」と言ったことも気になった。 教授はそのとき、偏屈者の例として富士谷成章、上田秋成()、谷川士清(ことすが)、鈴木朖(あきら)、義門、富樫広蔭などの名をあげ、「山田孝雄(よしお)博士も独学の人ですからねえ」と言ったのだ。 なかで鈴木朖のこともひっかかった。 明和1年に尾張の枇杷町に生まれて中年期に宣長の弟子となり、「離屋」(はなれや)と号してやはり語学史上に重要な位置を占めたというのだが、ひどい近眼であったとともに、かなりの変人で、家の玄関には「菓子より砂糖、砂糖より鰹節、鰹節より金」と書いていたという。 いったい人間が言葉のもつ何かの蠢きにたいして異常な情熱をもつということは、どういうことなのか。 人間はなぜ言葉のはたらきに、こんなにも探究心を燃やすのか。 そして、日本人はなぜ日本語が好きになっていくものなのか。 足立はしだいにそのことに囚われていく。 これらの話には、白江教授のことがそうだろうが、いくぶんのフィクションがまじっているにちがいない。 が、だいたいはドキュメンタルになっている。 足立が神宮皇学館の学生として国学や国語学を学びながら、しだいに春庭の探検に乗り出していくさまが、折からの昭和前期の軍靴の音とともにみっちり描かれるのだ。 それらを通して、近世および近代の国語学の全貌とその研究者たちの実像がさまざまな角度からあきらかになっていくというふうになっている。 足立は春庭に出会うまでは、辻潤、武林無想庵、宮島資夫などのアナーキーな著作や、また老荘思想に耽っていた青年である。 神宮皇学館に入ってからも、下宿の本棚には、津久井龍雄『日本主義運動の理論と実践』、権藤成卿(93夜)『君民共治論』、河野省三『我国体と日本精神』などを並べていた。 それが春庭に出会って、だんだん変貌していく。 本書はその「めざめ」の全プロセスを綴ったものなのだ。 以上で、ともかくも『やちまた』がどのような構成になっているのかはなんとなく見当がついたと思うが、実際に読んでいくとあまりに国語研究の細部の歴史に詳しくて、その概観や感想をのべるのはとうていムリだということがわかる。 たとえば明治39年に『詞の八衢』が完成して100年を迎えたとき、東京帝国大学の言語学会で記念講演会がひらかれ、その発言要旨が「国学院雑誌」に「本居春庭翁記年号」として特集されるのだが、足立がそれを文庫から借り出して読んでいく場面がある。 それだけでもとても詳しいのだ。 だいたいそこで発言しているのが、新村出・保科孝一・藤岡勝二・岡田正美・金沢庄三郎・八杉貞利・大槻文彦・上田万年・三矢重松といった当時の第一線の言語学者や国語学者なのである。 その全員が春庭について語っているのだから、これを読み解き、マッピングするだけでも大変なのだが、足立はそれを隈なく小説に入れこんだのだ。 たとえば、藤岡勝二は春庭の業績が完成した文化3年はヨーロッパの言語学が基礎がつくられた1806年と同時期だと言い、上田万年は「春庭翁が遺されたる重要なる問題」で、いまだ春庭の業績を凌駕する研究は出ていないと称賛した。 そういう文章を読んでいると、足立は「祈り」や「詩」を感じたと書いている。 しかしその上田博士ですら、春庭の語用論の源流がどこにあったのか、まだつかめない。 宣長の『御国詞活用抄』の学説を継承したのはまちがいがない。 しかしその研究砲歩は文雄(もんのう)の『磨光韻鏡』が影響したようにも思えるし、そうだとするとそこには太宰春台の唐韻論が影を落としているのかもしれない。 そういうことを上田博士の発言ひとつでも教えられるのだから、ほかの春庭論のいちいちを検証していくのはキリがないのだが、足立は結局、それを本書でなしとげていく。 桜井祐吉の『本居春庭翁略伝』と上田万年の『本居春庭伝』はことごとく書写してしまってもいる。 足立の関心は国語学にとどまっているのでもない。 さまざまな出来事や人物に描写を及ぼしている。 たとえば宣長の葬儀がどのようであったかということも、実に多くの資料を駆使して推理する。 宣長と春庭が『古事記伝』44巻の浄書をすべて終了したのは、宣長が死ぬ3年前の寛政10年9月13日だった。 そのあと宣長は『うひ山ぶみ』を起稿し、歌集『鈴屋集』などのいくつもの編集にとりかかり、死の前には和歌山に出掛けて源氏の講義をする。 帰りは吉野をまわって水分(みくまり)神社に参詣をした。 そして松阪の南の山室山に自分で墓所を定めると、春庭らに宛てて詳細きわまる『遺言之事』をしたためるのである。 念仏は無用だが、菩提寺の樹敬寺の住職が読経するのはいい。 柩の中の布団は綿は薄くていい。 死装束も粗末な木綿にしなさい。 藁をたくさん入れて死骸が動かないようにしなさい。 柩の箱は杉の六分板をざっと粗削りして、山室山の妙楽寺に葬りなさい。 そんなことをことこまかに記しているのだ。 いや、葬列の組み方や提灯の掛け方や葬儀の次第まで指示している。 なかに、遺体はこっそり山室山の妙楽寺に送っておいて、樹敬寺での送葬には空っぽの棺のままでいいという指示がある。 足立は、その指示に関心を示したのだ。 やっぱり宣長も偏屈なのだ。 しかし、なぜそんなふうなのか。 ことほどさように、足立宣長・春庭を中心にその周辺の多くの事柄を探求するのである。 松阪の歴史も書いてあるし、宣長の旧宅や鈴屋の変遷もほとんど調べ尽くしてある。 書かなかったことなんてないのではないかという徹底だ。 むろん春庭が失明にいたって、どのように各地の名医を尋ね、そしてあきらめて仕事に打ち込むことにしたのかということについては、まったく遺漏がない。 ぼくは参った。 こんな驚くべきものが書かれていたとは、なんということだろうと感服せざるをえなかった。 しかもそれを、たんに『やちまた』などと名付けて(こんなわかりくいタイトルにして)、平気でいるのにも打ちのめされた。 これは『虹滅記』をさしおいても紹介しなくてはと思ったのだ。 時代は大東亜戦争の前夜と渦中である。 舞台は松阪だ。 なんともいえない空気が『やちまた』を覆っているのだ。 この読中感も異様だった。 だから実のところは、本書の紹介がうまくいくはずなんてなかったのだ。 だいたい言葉の語用にこれほど執心しているなんて、ぼくも編集工学を標榜したとはいえ、ここまでの執着を示せたことはなかったのだ。 おまけに、話は戦時中ではおわらない。 敗戦後の日本で足立がふたたび、みたび松阪を訪れて(その後は何度も)、さらに春庭をめぐる国語学の探検に乗り出していくのである。 何人もの本居家関係の血縁者を各地に訪ねてもいる。 学生時代の読み違えの訂正にも挑んでいる。 まったく想像を絶した一冊なのだ。 これはおそらく闘いなのである。 鎮魂なのである。 また現代の祝詞(のりと)なのだ。 しかし、その壮絶な執念がどこから湧き出た真水なのであるかは、足立巻一が書くべきことではなく、本居春庭とともにわれわれが感得するべきものというべきだろう。 足立は本書を、こう結んでいる。 頭のなかで、靄が晴れてゆくのを感じた。 論文『詞の八衢の成立』は、まもなく書き上げることができるだろう。 が、それには妙に気分が浮き立たず、そんなことはもうどうでもいいような気がしてきた。 わたしの春庭への興味がその学説にはなくて、人生、人の運命にあったことは、はじめから気がついてはいたけれど、いまはそのことを自分でも韜晦のしようがなくなっているのを知ったのである。 生後まもなく父とは死別した。 略歴は上記した以上のことをぼくは知らないが、それを含めて『虹滅記』(朝日文芸文庫)が足立を語っている。 神宮皇学館には二度受験して失敗し、三度目に合格した。 だから思い入れもひとしおであったのだろう。 1938年に皇学館を卒業したのちは、高校教師になってすぐに戦地に召集され、中国の華北戦線をさまよっている。 「新大阪」では学芸部長や社会部長にもなっているのだが、おそらくはこの体験も足立の「文章の目」を育くんだのであろう。 他の著書に『立川文庫の英雄たち』(文和書房)、『夕暮れに苺を植えて』(新潮社)、『夕刊流星号』(新潮社)、『石の星座』『人の世やちまた』(編集工房ノア)などがあるが、ぼくはまだ読んでいない。 1985年没。

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燃やすごみの出し方|足立区

足立 いま る

足立今昔1960年代の足立区 足立今昔<1> 1960<昭和30年>年代の足立区と2001年現在の足立区 今でこそ足立区だって立派な都会ですが、いまから40年前の足立区は、千住など一部の地域を 離れると、これが東京なの?という田舎の風景が存在していた。 東京オリンピック(1964年=昭和39年)ごろを境に急速に発展してくるわけだが、 ここでは、我が家に残る昭和30年代の風景を紹介しようと思う。 昭和30年代には、千住でタクシーに乗り荒川を渡ることを川向こうに行くと言い運転手が いやがったということだが、それだけ人家のない寂しいところに行くわけで 行きはお客がいても帰りはカラで帰らなければならないため嫌がる理由も納得できてしまう。 1960年代の足立区 ちょっと解説 現在の同地点から撮った写真 お化け煙突 家のほうからは3本に見えた 現在は、お化け煙突を含め 煙突の姿が見えなくなった 我が家(中央)です 右の我が家は、左の写真と 同じ場所ですが、左の写真 を撮った場所は畑がマンショ になってしまいましたので、 同じ位置からは撮れず、マン ションの3階から撮っていま す。 東武バス 花畑車庫 (写真の左) 手前は綾瀬川 綾瀬川を渡る省線 (と呼んでいた) 地上の高さだった常磐線も 今は、高架になった 環七のできる前。 遠くの建物 は加平の変電所 現在の同じ場所からは写真 が撮れないので東島根町歩 道橋から撮影。 昔の面影は全くみられない。 匠橋 今はなき嘉兵衛橋。 現在の 環七加平橋の100mほど 下流にあった。 現在、橋が ないため綾瀬川で行き止 まりとなった道のせいで 開発から遅れ今も寂しい。 昔の写真の左端にある瓦 屋根の家は、駐在所だった が今も一部が残っている。 わが母校 手前左=栗島小学校 右奥の白い建物は、 東島根中学校 現在の同一地点からは、 家々に囲まれすぐそばの 栗島小学校ですら見えない。 綾瀬新橋と今は原っぱだけ が残る鉄道機器会社(中央 の建物)現在の同一地点の 映像からは、綾瀬川の水面 が高くなったのか、橋が地盤 沈下したのかわからないが 堤防の高さより道路(橋)の 方が低くなっていることが わかる。 千住新橋北詰交番と 国道4号線。 現在交番はなく なり、上に首都高速中央環状 線が走る。 弥生町付近の4号線 当時は13間道路と みんな呼んでいた。 交通量もさることながら 道路沿いにビルやファミレス が、立ち並ぶ。 梅島陸橋。 現在の梅島陸橋 の前身ではなく、東武線との 立体交差のための陸橋だっ た。 現在は、東武線の方が、 4号線の上を通っているので 陸橋はなくなった。 足立体育館(中央) 現在の足立区役所付近。 体育館に変わって14階建て の足立区役所が建つ。 周りの畑は今はもう見られな い。 加平にあった長屋門 現在の写真を撮ろうと 思っていたら2000年 12月に常盤新線の工事 に伴い撤去されてしまった。 千住新橋。 北千住方向に今年オープンし た中央図書館のひときわ高い ビルが目につく。 * 昔の写真が小さく見づらいことと現在が2001年とだいぶ古くなってしまったので近々最新版をアップする予定です。

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【足立美術館】アクセス・営業時間・料金情報

足立 いま る

その他:要栄養士資格。 勤務成績により1年間勤務の後、正規登用有り。 詳しい内容は下記の連絡先までお願いします。 01現在 0歳児 1歳児 2歳児 3歳児 4歳児 5歳児 1号認定 0名 7名 5名 3名 2・3号認定 3名 17名 19名 24名 22名 21名 0歳児・1歳児・5歳児の入所状況に余裕があります。 入所を希望される方は一度園見学にいらしてください。 これからお仕事を探される方、育休明けでお仕事に復帰される方、 他の園に入園したものの転園を考えている方、1号入所を考えている方etc... どのような理由でも構いません。 お気軽にお問い合わせください。 予約制となっていますので空き状況をご確認の上、ご来園ください。 ご予約は下記の連絡先までお願いいたします。 TEL:0463-82-6226 Mail:imaizumi. hoikuen gmail. com.

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