アポロ 名前。 何故アポロ計画なの

その名は「アルテミス」

アポロ 名前

アポロ(: Apollo )• のアポローンに相当。 を参照。 - 米国ニューヨークを本拠とする、大手。 金融危機以降、世界最大規模のファンドを運用する。 正式名称は。 - 地球の公転軌道と交差する動きをする小惑星の一群。 - アポロ群に属する小惑星。 - 月の裏側にある巨大な。 - の月探査計画。 は人類初の月面着陸。 - のシングル。 テレビアニメ「」オープニングテーマ。 - のシングル。 - 日本のメーカーが販売するピアノブランド名。 Apollo - が開発するソフトウェア、の旧名称。 - (旧・)が販売する菓子の名称。 - ソフトウェアの開発・販売を行う日本の企業。 - 日本のロックバンド、のデビュー曲。 アポロ - の及び石油のブランド名称。 アポロ - の矢羽式(腕木式)の商品名。 を参照。 - の、前にあるや商業施設。 - アメリカのコンピュータ会社、およびその製品の名前。 - の漫画作品。 - ドイツの• が使用する。 - アメリカ合衆国のの。 1882年優勝。 あぽろ - 日本の、。 主にの実況動画をアップロードしている。 - の選手。 - の。 - の。 元東洋• - ケータイ小説家。 - の()。 アポロ - タロット占い師。 - 日本の musician、。 キャラクター• アポロ・クリード - シリーズの登場人物。 アポロ - ゲーム『』に登場するキャラクター。 アポロ - 『』の登場人物。 を参照。 アポロ - 『』の主人公。 - SFドラマ『』に登場する超光速宇宙戦艦• イギリス海軍の艦艇• - 1891年進水のアポロ級防護巡洋艦。 第一次世界大戦時は機雷敷設艦として活動。 1920年解体。 1934年進水のリアンダー級軽巡洋艦。 1939年にオーストラリア海軍所属となりと改名。 - 1943年進水のアブディール級機雷敷設艦。 1962年解体。 - 1970年進水のリアンダー級フリゲート。 1988年にパキスタンへ売却。 関連項目 [ ]• このページは です。 一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。 お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。 を見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。

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アポロン神って、どんな神様?

アポロ 名前

CSM: Columbia• LM: Eagle• 月面上: 任務開始 打ち上げ日 1969年7月16日13:32:00 UTC 1969-07-16T13:32:00Z SA-506 任務終了 回収担当 着陸日 1969年7月24日16時50分35秒 UTC 1969-7-24T16:50:35Z 着陸地点 北太平洋 軌道特性 54. 5海里 100. 9 km 66. 1海里 122. 4 km 1. 25度 2時間 元期 1969年7月19日21:44 UTC 月オービター 宇宙船搭載構成物 軌道挿入 1969年7月19日17:21:50 UTC 軌道脱出 1969年7月22日04:55:42 UTC 軌道周回数 30周 月着陸船 宇宙船搭載構成物 着陸 1969年7月20日20:18:04 UTC 帰還 1969年7月21日17:54 UTC 着陸地点 標本採集量 47. 51ポンド 21. 55 kg 船外活動回数 1回 船外活動時間 2時間31分40秒 月着陸船のドッキング(捕捉) ドッキング(捕捉)日 1969年7月16日16:56:03 UTC 分離日 1969年7月20日17:44:00 UTC 月着陸船上昇段のドッキング(捕捉) ドッキング(捕捉)日 1969年7月21日21:35:00 UTC 分離日 1969年7月21日23:41:31 UTC ミッション徽章 左から:、、 目次• 概略 [ ] アポロ11号は2人の人間を世界で最初ににさせたであった。 船長と月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=)に「イーグル」号を月に着陸させた。 アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。 二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47. 5ポンド(21. 5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。 2人が月面にいる間、司令船操縦士はひとり月周回軌道上で「コロンビア」号を飛行させた。 アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。 アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC) ににあるから型ロケットで打ち上げられ、NASAのの5番目の有人ミッションとなった。 は次の3つの部分(モジュール)から構成される。 3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている(LM)である。 アポロ宇宙船の技術的詳細については「」を参照 アポロ11号はサターンVの第三段の推力でに乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、に入った。 アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、に軟着陸した。 2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。 「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。 3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に ()した。 アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。 アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。 アポロ11号は実質的にを終わらせ、1961年に故が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した。 背景 [ ] 1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手の(ソ連)との最中にあった。 1957年10月4日、ソ連は世界初のとなるを打ち上げた。 この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。 ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである。 これにより、突如としてが起こり、の端緒が開かれた。 ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国の大統領は(NASA)を創設し、人をに乗せることを目指す に着手した。 しかし、1961年4月12日にソ連の(宇宙飛行士)、が世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となった ことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった。 ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にが約15分間のの旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。 シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任の大統領から祝いの電話を受けた。 ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。 それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。 ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた。 当時、ソ連は米国よりも優れたを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。 たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。 ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した。 1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関してで次のように演説した。 私は、このが終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。 これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。 そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。 我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。 我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。 我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。 しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません。 我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。 と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。 — 第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ、1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より 人間を月に着陸させるための取り組みには、すでに(Project Apollo)という名前がつけられていた。 ()方式と ()の両方にかかわるは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。 宇宙空間におけるとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合うのことである。 1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。 その結果、はるかに小さいロケット と3つのモジュールから成るとでアポロ計画は進められることになった。 この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した。 アポロ計画に要求される技術および技巧はで開発されたものである。 アポロ計画は、1967年1月27日にが火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された。 1968年10月にが地球周回軌道上で司令船の評価を行い 、同年12月にがそれを月周回軌道上で試験した。 1969年3月にが地球軌道上で月着陸船の調子を試し 、同年5月にが月軌道上で予行演習を実施した。 こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った。 ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた。 それでもソ連は米国に打ち勝とうとしてを飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること()を試みた。 アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はを打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。 しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、に激突した。 そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された。 アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。 イングランドにあるの電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された。 人員 [ ] 正規搭乗員 [ ] 宇宙飛行士 船長 最後にして2回目の宇宙飛行 司令船操縦士 最後にして2回目の宇宙飛行 月着陸船操縦士 最後にして2回目の宇宙飛行 当初は、船長にを、司令船操縦士(CMP)にを、月着陸船操縦士(LMP)にを、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された。 ラヴェルとオルドリンは以前、の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。 月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。 通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた。 ところが、うち1人が変更されることになった。 アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だったが両脚に故障を抱え始めたためである。 医師からはに問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった。 そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。 その間、が月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた。 搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、に次いで これが2度目のことだった。 以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年のまで訪れることはなかった。 一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だったはアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。 アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。 アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルはの船長を務めた)。 アポロ11号の正規搭乗員は、の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。 代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。 とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した。 オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち("amiable strangers") 」だったと記している。 ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた。 予備搭乗員 [ ] 宇宙飛行士 船長 司令船操縦士 月着陸船操縦士 予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。 このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった。 ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される ()との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。 その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、 ()を地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。 ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちにの正規搭乗員として配属されることになった。 地上支援員 [ ] マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。 地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。 また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した。 アポロ11号では、、、が地上支援員を構成していた。 宇宙船通信担当官 [ ] アポロ11号の徽章 アポロ11号の ()はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。 ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国のであるを象徴に選んだ。 シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表す ()を配置してはどうかと提案した。 そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた。 また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。 この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。 アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。 アームストロングが "eleven" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 "Apollo 11" とアラビア数字表記になった。 のイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された。 ところが、その図案は却下された。 有人宇宙船センター長の ()は、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった。 いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした。 1971年にが発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された。 アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さなにも、この徽章の図案が使用された。 コールサイン [ ] アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「 (Charlie Brown)」および「 (Snoopy)」と名付けたこと があって、広報担当の ()は、当時でアポロ計画室の室長を務めていた ()に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。 NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン (Snowcone)」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック (Haystack)」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた。 アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル (Eagle)」(「」の意)と命名された。 シアーの提案で、司令船は「コロンビア (Columbia)」と命名された。 その由来はの1865年発表の小説『』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「」にもちなんでいる。 また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」はに関連していたと述べている。 記念品 [ ] アポロ11号と共に宇宙を飛行した銀の () アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた。 重さにして0. 5ポンド(0. 23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK) がアポロ11号に持ち込まれた。 ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、が初めて空を飛んだ1903年のの左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ 、そして当初がアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた ()だった。 この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した。 着陸候補地の選定 [ ] アポロ11号が着陸できる見込みのある地点を示した月面図。 地点2が選ばれた。 NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。 それらはの5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびにで得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった。 地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった。 宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。 さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。 科学的な価値は考慮に入れられなかった。 地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。 当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった。 結局、5つの地点が候補地として検討された。 地点1と地点2はに、地点3はに、地点4と地点5はにあった。 最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた。 比較的にクレーターの少ない、滑らかな場所であること。 進入路について、広い丘、高い崖または深いクレーターが原因となって、着陸用レーダーを混乱させ、計器の数値を読み誤らせるおそれのないこと。 最小限の量の推進剤で到達可能であること。 打ち上げ時の秒読みの遅れを許容できること。 自由帰還軌道(月に向かう進路上で問題が発生したとしても、エンジンの噴射を一切することなく、そのまま月の周囲に沿って惰性飛行して安全に地球に帰還する軌道)を取れること。 着陸進入時に良好な視界を保てること。 つまり、太陽が常に月着陸船の後方7度から20度の間の方向にあること。 着陸する領域において一般斜面が2度未満の傾斜であること。 このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった。 宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった。 ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。 1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した。 最初の一歩の決定 [ ] アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった。 スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた。 退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた。 船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた。 記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、 ()副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。 当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。 オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。 部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。 1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された。 オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。 なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。 搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。 この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。 オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた。 スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた。 メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した。 ()が2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。 彼らは、最初に月面を歩く人物はのように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。 そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった。 発射準備 [ ] からへと搬出される、宇宙船アポロ11号を搭載したサターンV型ロケット SA-506 月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日にに到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した。 LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。 LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、 ()(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。 司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった。 司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日に ()からに移された。 サターンV AS-506の第三段は1月18日に到着し、続いて第二段が2月6日に、第一段が2月20日に、 ()が2月27日に到着した。 まだアポロ10号が月へ向かっている最中であった5月20日の1230(12時30分)、組み上がった重さ5,443トン 5,357 LT; 6,000 ST のサターンV型ロケットがの上に載せられ、の39A発射台に向けてロケット組立棟を出発した。 カウントダウンのテストは6月26日に開始され、7月2日に終了した。 7月15日の夜、発射施設が投光照明に照らされ、クローラー・トランスポーターが ()を駐機場まで運んで戻した。 発射当日の早朝には、第二段S-IIと第三段S-IVBの各燃料タンクがで満たされた。 燃料の注入は発射の3時間前までに完了した。 発射運用はATOLLと呼ばれるプログラミング言語で書かれた43のプログラムで一部が自動化されていた。 搭乗員は0400(4時00分)すぎにスレイトンに起こされ、シャワーを浴び、髭を剃り、スレイトンおよび予備搭乗員と一緒にNASAの宇宙飛行前の伝統的な朝食となっている ()を食べた。 そして、宇宙服を着用し、純酸素の呼吸を始めた。 0630(6時30分)に搭乗員は第39発射施設に向かった。 発射時刻の約3時間10分前にヘイズは「コロンビア」の船内に入り、6時54分に技術者とともにアームストロングが左の乗組員用の寝椅子につくのを手助けした。 5分後にコリンズが加わり、自分の所定の位置である右の乗組員用の寝椅子についた。 最後にオルドリンが乗船し、中央の寝椅子についた。 ヘイズは発射の約2時間10分前に宇宙船から降りた。 飛行士の搭乗を手伝ったクルー(クローズアウトクルー)がハッチを密閉すると、船室はパージ(圧縮空気を排気)され、与圧された。 クローズアウトクルーは発射の約1時間前に発射施設を離れた。 発射の3分20秒前からはカウントダウンが自動化された。 450人以上の人員が ()内の制御盤の前に陣取っていた。 ミッション [ ] 発射と月軌道までの飛行 [ ] 1969年7月16日午前9時32分(米国東部夏時間)、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンの3名の宇宙飛行士を乗せたアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センターの39A発射台から飛び立つサターンV 推定で100万人の観衆が発射場の近辺の幹線道路や海岸からアポロ11号の打ち上げを見ていた。 観衆の中には、の大将、4名の、19名の ()、40名の ()、60名の、200名の合衆国議会議員などのお偉方もいた。 は前大統領および同夫人とともに打ち上げの様子を眺めた。 現地には約3,500人の報道関係者が集まった。 そのうちのおよそ3分の2はアメリカ国内から、残りはその他の55の国々から来ていた。 打ち上げは33か国でテレビ中継され、アメリカ国内だけでも視聴者は推定で2,500万人に上った。 さらに世界中で数百万の人々がラジオ放送を聴いていた。 大統領は、NASAの連絡担当官だったアポロ宇宙飛行士のとともに、の執務室から打ち上げの様子を見守った。 1969年7月16日13:32:00 UTC(午前9時32分00秒 )、 AS-506はアポロ11号を搭載して、のから発射された。 発射の12分後には、高度98. 9海里(183. 2キロ)から100. 4海里(185. 9キロ)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。 地球を一周半したあと、第三段エンジンS-IVBを点火 、16:22:13(UTC)に(Trans-lunar injection、TLI)し、宇宙船は月へと向かう軌道に乗せられた。 それから約30分後、左側の操縦席についたコリンズ司令船操縦士の操作で、 ()と呼ばれる一連の動作を実行した。 すなわち、使い切った第三段ロケットS-IVBから司令・機械船(CSM)を切り離し 、船の向きを反転させて、第三段に取りつけられた状態の月着陸船(LM)とし、ロケットから着陸船を取り出した。 その後、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行した。 これは第三段ロケットがアポロ宇宙船や地球や月に衝突するのを回避するために取られた措置であった。 月の周りを通過することで生じたにより、第三段S-IVBはに入った。 7月19日17:21:50(UTC)にアポロ11号は月の裏側を通過しての推進エンジンを点火し、に入った。 続いて、月を30周するうち、飛行士たちは ()クレーターから南西に約12マイル(19キロ)の辺りに位置する南部の着陸地点の過ぎゆく景色を目にした。 この着陸地点はある程度あらかじめ選定されていたのだが、それは無人探査機とによる先行調査や、月周回衛星が撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や(EVA)を行うのに大きな支障はないだろうと判断されたためであった。 着陸予定地点はサーベイヤー5号の着陸地点から南東に25キロほど、レインジャー8号の衝突地点から68キロの辺りにあった。 月への降下 [ ] 着陸船「イーグル」から撮影された月周回軌道上の司令船「コロンビア」 7月20日12:52:00(UTC)にアームストロングとオルドリンは着陸船「イーグル」に乗り込み、月への降下に向けた最終準備に取りかかった。 17:44:00に「イーグル」は司令船「コロンビア」から切り離された。 「コロンビア」に1人残ったコリンズは、機体をゆっくりと爪先回転(ピルエット)させる着陸船「イーグル」に損傷がないこと、ならびに着陸装置が正常に展開されたことを確認した。 アームストロングは "The Eagle has wings! " (「イーグル」には翼がある!)と叫んだ。 降下を開始してしばらくすると、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが2、3秒早いことに気づき、射程領域(ダウンレンジ)がやや長いようだと地上に報告した。 つまり、このままでは着陸目標よりも西に数マイル先の地点に着陸してしまうことを示していた。 「イーグル」はあまりにも速く飛びすぎていたのである。 その原因は高い ()にあって宇宙船の軌道が変化したのではないかと考えられた。 飛行主任のジーン・クランツは、ドッキングトンネル内の余分な空気圧が原因ではないかと推論した。 あるいは、機体の損傷チェック時に行われた「イーグル」の爪先回転飛行が原因となった可能性も考えられた。 降下のためのエンジン噴射に入る5分前、月面から高度6,000フィート(1,800メートル)で 、(LM guidance computer、LGC)が予期しない警報 "1201" と "1202" を幾度か発し 、飛行士の注意を逸らせた。 そのとき、ミッション管制センター内にいたコンピュータ技師の ()は、誘導官(Guidance Officer)の ()にそのまま降下を続けても安全であることを告げ、飛行士たちにも中継して伝えられた。 これらの警報は "executive overflows" (実行オーバーフロー)を示しており、誘導コンピュータが過負荷状態にあって 要求されたすべてのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた。 でアポロ飛行コンピュータのプログラミング責任者(Director of Apollo Flight Computer Programming)を務めたは、当時を思い出して次のように語った。 アポロ11号のその問題に関してコンピュータを責めることは、火災を発見して消防に通報する人を責めるようなものです。 実際、コンピュータはエラー状態を認識する以上のことをするようにプログラムされていました。 ソフトウェアには回復プログラム一式が組み込まれていたのです。 ソフトウェアの動作としては、この場合、優先度の低いタスクを除外して、より重要なものを再構築することでした。 コンピュータは、もう少しのところで(着陸の)中止を強制したというよりも、むしろ中止を阻止したといえます。 もしもコンピュータがこの問題を認識できずに回復動作をとらなかったら、アポロ11号の月への着陸が上手くいったかどうか、疑わしいと思います。 ミッション中には、司令船とのランデブー用のレーダーのスイッチが誤った位置にあり、月着陸船のコンピュータにランデブー用レーダーと着陸用レーダーの両方から送られてきたデータを同時に処理させようとしたことが原因だと診断された。 ソフトウェア技師のドン・アイルズは、2005年の誘導制御会議(Guidance and Control Conference)で発表した論文の中で、この問題は以前で最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計上の欠陥に原因があると結論づけた。 (緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブー用レーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後にするように見えることがある。 ランデブー用レーダーがインボランタリカウンタを更新すると、余分な疑似により、コンピュータは警告を発する。 着陸 [ ] アポロ11号の着陸地点(左)とウエスト・クレーター(右)の相対的位置 アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が直径300フィート(91メートル)ほどもあるクレーター のすぐ北と東の巨岩がいくつも転がっている領域にあるのが見えたため、アームストロングは操縦を半自動に切り替えた。 アームストロングはその岩石原の手前に着陸すればそこから地質試料を採取しに行けるかもしれないと考えたが、宇宙船の水平方向速度が速すぎたためできなかった。 降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングに航法データを読み上げ続けた。 月面からの高度107フィート(33メートル)まで降下したとき、アームストロングは推進剤の供給が徐々に減少してきていることを知り、最初の着陸候補地点に着陸することに決めた。 アームストロングは開けた月面の一画を見つけ、機動的に宇宙船をそちらへ向かわせた。 だんだんと近づいて行くと、高度250フィート(76メートル)のところで、その新しく決めた着陸地点にクレーターがあることを発見した。 アームストロングはクレーターを視界にはっきりととらえながら、別の一画の平地を見つけた。 高度100フィート(30メートル)まで来て、推進剤の量は残りわずか90秒分まで減っていた。 さらに、着陸船のエンジンによって巻き上げられた月の砂塵が、宇宙船の動きを決定するアームストロングの判断力を鈍らせた。 もうもうと立ち込める砂塵の中から突き出たいくつもの大きな岩に焦点を絞ることで、アームストロングは降下中の宇宙船の速度を判断することができた。 着陸の直前、「イーグル」の脚部から吊り下がっていた、長さ67インチ(170センチ)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。 それを知ったオルドリンは「着地灯、点灯!」と声に出して確認した。 技師たちは、着陸時にエンジンを噴射させたまま月面に接近しすぎると排気ガスの圧力(背圧)でエンジンが吹き飛ぶかもしれないと危惧していたため、アームストロングはただちにエンジンを切ることになっていたが、忘れてしまった。 3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングはエンジンを切った。 オルドリンは即座に「OK、エンジン停止。 ACA解放」と言葉を発し、それを受けてアームストロングは「ACA解放了解。 自動」と復唱した。 続けてオルドリンは「モード制御、両方とも自動。 下降段エンジンの指令重複、オフ。 エンジンアーム、オフ。 413に接続」と確認した。 1969年7月20日、月面に着陸。 ACAとは、(attitude control assembly)のことで、具体的には月着陸船の操縦桿のことである。 その出力は着陸船の誘導コンピュータ(LGC)に伝えられ、(reaction control system、RCS)にエンジン噴射の命令を出す。 「解放」とは、中央のポジションから動かされていた操縦桿が(車の方向指示器のように)バネの力で元の中央のポジションに戻されたことを意味する。 LGCのアドレス413は、月着陸船が着陸したことを示す変数を含んでいた。 「イーグル」は7月20日、日曜日の20:17:40(UTC)に25秒分の燃料を残して着陸した。 アポロ11号は後継のミッションよりも残りの燃料が少ない状態で着陸し、飛行士たちは早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。 これはのちに、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き()、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。 そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった。 アームストロングは、オルドリンが「エンジンアームはオフ」と言って、着陸後のチェックリストをつける作業が一通り完了したのを確認して、CAPCOMのチャールズ・デュークに "Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed. " (「ヒューストン、こちら。 鷲は舞い降りた」) と言葉を発した。 アームストロングがコールサインを「イーグル」から予行演習にはなかった「静かの基地(Tranquility Base)」に変更したことで、着陸を完遂して成功したことが強調されて聴取者たちに伝えられた。 それを聞いたデュークは、ミッション管制センターにいた人たちの安堵の気持ちを表し、 "Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot. " (「了解、トゥワン……トゥランキリティ(「静か」の意)。 月面にいる君たちの声、よく聞こえるよ。 君らのおかげでたくさんの奴らが真っ青になりそうだった。 ため息をついている。 どうもありがとう」)と、一瞬言い淀みながらも応答した。 こちらは月着陸船操縦士です。 この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います。 そのあと彼は、私的にを行った。 この当時NASAは、 ()に反対していた無神論者の ()と係争中で、オヘアはNASAに対し、宇宙飛行士は宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだと要求していた。 それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。 オルドリンはテキサス州 ()にあるの長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフが用意していた。 ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日にもっとも近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行っている。 この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士は5時間の睡眠時間で着陸のあとに続く作業を行うことが求められていたが、眠れないだろうと思った2人は早くに船外活動の準備を始めることを選択した。 月面での活動 [ ] オルドリンが撮影したアームストロングの写真。 月面滞在中はほとんどアームストロングがカメラを持っていたので、月面上の彼自身の姿が写ったものとしては、数少ない写真の一つ。 船外活動の準備は20日23:43に始まった。 準備は2時間で済むはずのところ、3時間半と想定よりも長くかかった。 地球上での訓練中には、必要とされるものはすべて前もってきちんと並べられていたが、月では、チェックリスト、食料の入った小包、用具のほかにも多くのものが船室内にあった。 アームストロングとオルドリンの外に出る準備が整うと、「イーグル」は減圧された。 02:39:33にハッチが開いた。 初め、アームストロングは ()(PLSS)を身に着けたままハッチを通り抜けようとする際にいくぶん苦労を要した。 アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りするときに最高値を記録することがよくあった。 02:51にアームストロングは月面へと降り始めた。 胸の位置にある遠隔操作ユニット(RCU)のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。 9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置格納アセンブリ(Modular Equipment Stowage Assembly、MESA:器具収納部)を展開してテレビカメラを起動した。 アポロ11号では、放送用のテレビジョン規格と互換性のないが使用されたため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたが、その画質は著しく低減されることとなった。 テレビジョン信号はアメリカので受信されていたが、オーストラリアの近郊にある ()が受信した信号のほうがて鮮明だった。 数分後、通信の中継基地は、より感度が良好なオーストラリアのに切り替えられた。 幾多の技術的困難と天候不順があったにもかかわらず、史上初の月面での船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人の人々に向けて放送された。 この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、 ()は、NASAの日常業務で磁気テープを再利用しているうちに誤って破損されてしまったようである。 「」も参照 アームストロングは "That's one small step for a man" (「男にとっては小さな一歩」)と言うつもりでいたが、通信音声では "a" という単語は聞き取りにくかったこともあって、当初、単語 "a" は生放送を視聴していた人の大多数には伝わっていなかった。 のちにこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは "for a man" と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含められていた。 ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。 別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とし、地球につないだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。 より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電 のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている。 月面に足を踏み入れてからおよそ7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。 これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動(緊急採集 )だった。 土壌サンプルの採取が完了して12分後 、アームストロングはMESAからテレビカメラを取り外し、月面のパノラマ映像を撮影してから、三脚の上にカメラを載せた。 テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、それが螺旋状に曲がりくねったところに足を引っかけてつまづくおそれがあった。 さらに、製カメラを手に持ったり、アームストロングの宇宙服( ())にかけたりして、月面の写真撮影が遂行された。 追ってオルドリンがアームストロングに続いて月面に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で "magnificent desolation" (荘厳なる荒涼)と表現した。 アームストロングは、地球の6分の1しかないの中を移動するのは「ひょっとしたら地上での模擬訓練よりもよほど簡単かもしれない……歩き回るのにまったく何の問題もない」と述べた。 そこにオルドリンも加わって、両足で踏み切るカンガルー跳びなど、さまざまな歩き方を試した。 すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。 ただし、移動する際は常に6、7歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。 また、太陽の照っているところから「イーグル」の影に入ったときには、宇宙服の中の温度はまったく変化がなかったが、ヘルメットの内部は日光で温められていたため、影に入ると冷たく感じられたとオルドリンは報告した。 MESAは安定した作業環境を提供することができず、また「イーグル」の影に隠れていたため、作業はいくぶん遅れることになった。 2人が作業しているうちに月面を歩いたことで、灰色の砂埃が巻き上げられ、宇宙服の外皮を汚してしまった。 月面に立てた星条旗に敬礼するオルドリン 2人はを含む ()を月面上のテレビカメラにはっきりと写るところに立てた。 オルドリンはこのときを思い出して「私が月面でしなければならなかったすべての仕事のうち、もっとも順調に運びたかったことは国旗の掲揚でした」と語った。 ところが、繰り出し式の伸縮する棒が月面に刺す際に縮んでしまうことに悪戦苦闘し、旗竿は固い月の表面に2インチ(5センチ)ほどしか押しつけられなかった。 オルドリンはテレビの視聴者の目の前で旗が倒れてしまいやしないかと心配しながらも、旗に向かってウエストポイント(陸軍士官学校)式の敬礼を行った。 そして、オルドリンが星条旗とアームストロングを被写体にした写真を撮るはずだった次の瞬間に、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。 のちにニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた中でももっとも歴史的な通話」と呼んだ。 ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは通話を手短に済ませるよう大統領を説得した。 ニクソン: やあ、ニール、バズ。 私はホワイトハウスの執務室から電話で君たちに話しかけています。 そして、これはきっとこれまでにかけられた中でもっとも歴史的な通話になることでしょう。 君たちの成し遂げたことがどれほど私たち皆の誇りに思うことか、言葉では言い表せないほどです。 すべてのアメリカ人にとって、今日は生涯でもっとも誇るべき日となることでしょう。 そして、世界中の人々もアメリカ国民とともに、これが何と素晴らしい偉業であることかを認めるだろうと私は確信しています。 君たちが成し遂げたことで、天空は人間世界の一部となりました。 そして、君たちが静かの海から私たちに呼びかけてくれたことで、私たちは地球に平和と静寂をもたらす努力をさらに強くしなくてはならないと奮い立たされます。 全人類史の中でかけがえのないこの一瞬に、この地球上のすべての人々は真に一体となります。 ひとつには、君たちが成し遂げたことに対する誇り、そしてひとつには、君たちが無事地球に帰還するようにとの祈りであります。 アームストロング: ありがとうございます、大統領閣下。 合衆国のみならず、平和を愛するすべての国の人々、そして興味や好奇心、未来への展望を持つ人々を代表して、私たちがここにいることは誠に光栄かつ名誉なことです。 今日ここにいられることを光栄に存じます。 月のの特性を調べる実験の一環で付けられたオルドリンの靴跡 二人の飛行士は、を観測する受動型地震計実験装置(PSEP)と用の(LRRR)を含む、(EASEP)を展開した。 その際、オルドリンが2本の ()を集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート(60メートル)歩いて、 ()の周縁部でスナップ写真を撮った。 アームストロングはを使用してコアサンプル採取用のチューブを打った。 アポロ11号でハンマーが使われたのはこのときだけだったが、6インチ(15センチ)よりも深く貫通させることはできなかった。 2人はスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。 月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、2人は割り当てられていた34分間の活動時間の中ごろで、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。 荷崩れしないように、オルドリンは採集した岩石を入れた箱に6キログラム(13ポンド)の土をシャベルですくって入れた。 採集された地質試料にはとの2種類の岩石が含まれていたことがわかった。 また、採集した岩石試料からは、新種の鉱物として、、 ()の3種が発見された。 このうち、アーマルコライト(Armalcolite)はアームストロング(Arm)、オルドリン(al)、コリンズ(col)の3名の宇宙飛行士の名にちなんでいる。 これらの鉱物はすべて、のちに地球上でも見つかっている。 ミッション管制センターは暗号的な言葉を使用して、アームストロングに代謝率が高めであることを警告し、作業のペースを落とすように伝えた。 彼は時間切れになるまで月面を素早く移動しては次から次へと任務をこなしていた。 月面を歩行している間は、2人の飛行士の代謝率はおおむね予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した。 2010年のインタビューで、アームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。 その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった。 月からの上昇 [ ] 予定されていた船外活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に「イーグル」に戻った。 採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21. 55キログラム(47. 5ポンド)に上り、月装備運搬装置(Lunar Equipment Conveyor、LEC)と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。 この方法は効率的でないことが証明されたため、後継のミッションでは機材や試料は手で持って船に荷揚げするようになった。 アームストロングは宇宙服の袖のポケットに入っている記念品の袋を月面に残すのを忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは月面に袋を放り投げた。 それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。 船内の生命維持システムに移ったあと、月周回軌道まで帰るための「イーグル」上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、空のハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てて、21日05:01にハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面で初めての睡眠についた。 受動型地震計実験装置(写真中央)の隣に立つオルドリン(同左)と「イーグル」(同右奥) ニクソン大統領のスピーチライターだった ()は、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げる In Event of Moon Disaster (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた。 その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンのだったに渡されたメモが発端だった。 そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況を想定して、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた。 その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ」と、聖職者が ()になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ねる」手はずだった。 用意された原稿の最後の一行では、が第一次世界大戦期に詠んだ詩『 ()』にそれとなく言及している。 オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させるのスイッチを誤って壊してしまった。 このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。 幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった。 21時間半以上を月面で過ごした2人は、科学観測機器のほか、1967年1月に訓練中の火災事故で犠牲になった3名の飛行士(、、)を追悼してのミッションパッチを、また古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカの入った記念袋を、そして地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを月面に残してきた。 ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領からの ()や世界73か国の指導者たちから寄せられたメッセージが収録されていたほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、およびの名前の一覧も記録されていた。 着陸地点と写真の撮影場所を示した地図 およそ7時間の睡眠ののち、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。 2時間半後の21日17:54:00(UTC)に2人は「イーグル」の上昇段エンジンを点火して月を離陸し、コリンズが搭乗している月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した。 月面離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面に残された下降段から25フィート(8メートル)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。 オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し、「上昇を始めたとき、私はコンピュータの操作に集中し、ニールはを注視していたが、私は旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した。 そのため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から離れた位置に立てられることになった。 月軌道上の「コロンビア」 [ ] 単独で月を周回する飛行を続けていた間、コリンズはまったく寂しさを感じることはなかった。 「以来、そのような孤独を知る者はいない」といわれているが 、コリンズはそれを使命の一部だと強く感じていた。 コリンズは自叙伝の中で、「この冒険は3人の男で構成されたものであり、3番手の私も、ほかの2人のいずれかと同様になくてはならないものなのだと思う」と記している。 月を周回する「コロンビア」が月の裏側を飛行して、地球との無線連絡ができない48分間の間にコリンズが感じたのは、不安でも孤独でもなく、むしろ「意識、予感、満足、自信、歓喜に近い感覚」であったと綴っている。 コリンズの最初の任務のひとつに、月面上の月着陸船の位置を特定することがあった。 どこを探せばよいかの見当をつけるために、ミッション管制センターはコリンズに月着陸船は目標地点から4マイル(6. 4キロ)ほど離れた辺りに着陸したようだと無線で伝えた。 コリンズは着陸地点と思しき辺りの上空を通過するたびに月着陸船を見つけようとしたが、不可能だった。 初めて月の裏側を飛んだとき、コリンズはによって生成された余分な水を捨てたり、アームストロングとオルドリンの帰りを迎えるために船室を整理整頓するなど、船内の環境整備活動を行った。 3周目の周回で月の裏側に入る直前に、ミッション管制センターはコリンズに冷却液の温度に問題があると知らせた。 冷却しすぎるようなことがあれば、「コロンビア」の部品が凍結してしまうかもしれなかった。 ミッション管制センターは、手動制御に切り替えたうえで、環境制御システム故障時の手順17(Environmental Control System Malfunction Procedure 17)を実施するよう、コリンズに助言した。 ところが、コリンズはその代わりとして、問題を引き起こしているシステムのスイッチを自動から手動に入れて、また自動に戻し、冷却剤の温度を注視しながらも、日課となっていた通常の管理保全作業を続行した。 「コロンビア」が再び月の表側に出たときには、問題は解決したと報告することができた。 それから次の2、3周は、月の裏側で過ごす時間が「ほっとする」("relaxing")時間だったとコリンズは記している。 アームストロングとオルドリンがすべての船外活動を終えてからは、コリンズは来たるべきランデブーに備えて睡眠休憩をとることができた。 「コロンビア」が「イーグル」を迎え入れる飛行計画に応じて、コリンズは一定の不測の事態に備えて「コロンビア」を「イーグル」のところまで降下させられるような準備ができていた。 帰還 [ ] 司令船「コロンビア」に接近してくる「イーグル」の上昇段 7月21日21:24(UTC)に「イーグル」は「コロンビア」とランデブーし、21:35に2機はドッキングした。 「イーグル」の上昇段は23:41に月周回軌道に投棄された。 の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、のちに出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」("uncertain location")に衝突したのだろうと記されている。 7月22日04:56(UTC)にアポロ11号は機械船の推進エンジンを2分半噴射して 月周回軌道を離れ 、同日05:30(UTC)に月の裏側で地球帰還軌道に乗り () 、地球への帰路に就いた。 7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした。 最初にコリンズが、 この飛行に対して責任を担ってきたのは、まず第一に、この取り組みに先立つ科学の歴史とそれを築き上げてきた偉人たち、次いで、自らの意思を通じてこれを成し遂げたいという願いを表明したアメリカ国民、そして、国民の意思に従い、それを履行した四代にわたる政権と連邦議会、さらに、我々の宇宙船やサターンロケット、司令船「コロンビア」、月着陸船「イーグル」、そして月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服と生命維持装置、 ()などを作り上げた政府機関や企業のチームなどです。 我々は、この宇宙船を設計し、建造し、試験し、飛行させるために心血を注ぎ、持てる限りの能力を発揮してくれたすべてのアメリカ人に対し、特別の感謝を捧げたく存じます。 我々は今夜、それらの方々に対して特別の感謝の言葉を申し上げるとともに、今夜この放送を見聞きしている人々に神の祝福があらんことを祈ります。 アポロ11号より、おやすみなさい。 と締めくくった。 地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。 定期的な修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは不可能だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースには10歳になる息子グレッグがいて、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。 お手柄のグレッグはのちにアームストロングから感謝された。 着水と検疫 [ ] 洋上に浮かぶコロンビア号と飛行士たちの下船を助ける海軍のダイバーら 6月5日、 ()大佐指揮下のが、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦のに代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。 当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州にあった。 7月5日にに到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とする ()数機、 ()アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。 空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。 訓練用の ()(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた。 7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域( 付近 )に向けて真珠湾を出港した。 ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、 ()、からなる大統領一行は、でまで飛び、そこで艦上のに乗り込んだ。 大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。 ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機でから飛来していた最高司令官の大将との ()からあいさつを受けた。 当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた。 その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。 視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。 もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。 ブランドリは、要保全許可 (required security clearance)を有していた真珠湾のの司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。 彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、 ()少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した。 これにより、新たな回収海域が指定され 、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった。 回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。 異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。 従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。 この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。 搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた。 飛行士たちは最初のプログラムの指令で6. 7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機が発進した。 うち2機のE-1は "air boss"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。 2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。 3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した。 16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の ()が開いたのをヘリコプターが確認した。 7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点( )に着水した。 ()時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された。 上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に ()を取りつけた。 別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた。 地球に帰還した後、のために隔離施設に収容されるアポロ11号の搭乗員と、彼らを訪問するニクソン大統領 ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。 月面からを持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。 宇宙飛行士たちは製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵をを使って拭き取られた。 宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。 ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。 除染物質を積んだボートは故意に沈められた。 ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは ()(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9. 1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の期間が開始されることになった。 この措置は、後続のアポロ12号との2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった。 ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた。 ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4. 5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、 ()に載せてMQFの隣まで運び込んだ。 そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。 ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFはに載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。 7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは(Lunar Receiving Laboratory)に到着した。 一方、「コロンビア」は不活性化のためにに運ばれ、火工品類が安全に処理された。 その後、に運ばれ、そこからでヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した。 7月16日にNASAが発布した一連の規定 、 ()に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。 しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた。 1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官 ()とMQFプロジェクト技師 ()) 、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。 宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった。 祝賀 [ ] ニューヨーク市での祝賀パレードの様子 8月13日、ニューヨークとシカゴで、推計600万人の見物客を脇に見ながら、紙吹雪の舞う中、名誉ある盛大な祝賀パレードが挙行され、3人は歓迎と祝福を受けた。 同日の晩にはロサンゼルスの ()で、合衆国議会議員、44州の知事、、83か国の大使らが出席して、今回の飛行を記念する公式晩餐会 ()が開かれた。 その席上で、ニクソン大統領とアグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えてが授与された。 1969年9月16日、3人の飛行士はの開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの片方をに、もう片方をに贈呈した。 アポロ11号によって月に持ち込まれたは、アメリカ領サモアの首都にある ()に展示されている。 この祝賀行事は38日間に及ぶ世界周遊の旅の始まりであった。 この旅行中に3人の宇宙飛行士は22か国を歴訪 し、多くの国々の指導者たちを表敬訪問した。 旅は9月29日から11月5日まで続いた。 多くの国では、人類史上初のの栄誉を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした。 遺産 [ ] 文化的意義 [ ] 人間が月面を歩き、安全に地球に帰還したことで、その8年前に設定されたケネディの目標は達成された。 アポロ11号が着陸したとき、ミッション管制センターではケネディの演説が画面に映し出され、"TASK ACCOMPLISHED, July 1969"(「1969年7月、任務達成」)の文字が表示された。 アポロ11号の成功によってアメリカ合衆国がほかの国々よりも技術的に優位にあることが証明された。 アポロ11号の成功をもって、アメリカは宇宙開発競争に勝利したのである。 それにともなって、英語には新しいフレーズが浸透した。 アポロ11号にかけて "If they can send a man to the Moon, why can't they... " (「もしも彼らが人を月に送ることができるなら、なぜ彼らは... できないのか」転じて「人類に人を月に送り込む英知があるのなら、どんな問題だって解決できるさ」の意)という文句がよく使われる言い習わしとなった。 アームストロングが月面で発した名言も、数え切れないほど多くのパロディを派生させた。 任務を達成したことが盛大に祝われた一方で、公民権を剥奪されたアメリカの人々はこれをアメリカの格差の象徴と見ていた。 それはアポロ11号の打ち上げ前日にケネディ宇宙センターの外側で抗議する人たちがいたことに裏付けられた。 ただし、だからといって彼らがそのことに畏敬の念を抱いていないわけではなかった。 抗議の行進を主導した ()はアポロ11号のあまりに壮観な打ち上げに魅了され、抗議活動で何を言おうとしていたかを忘れてしまった。 アポロ計画に費やす金があるなら、どうしてそれを地球上の人間の世話をするために使わないのかと思った市民らは、人種的および金銭的な不平等に不満を募らせた。 ()による "Whitey on the Moon" (「白んぼは月に行く」 の意)と題された詩は、宇宙開発競争で際立たせられた ()を物語っている。 この詩の歌い出しは次のようなものであった。 世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われている。 アポロ11号は世界中の関心を集めたが、後続のアポロ・ミッションは国民の関心をつかむことはなかった。 このことは複雑さの変化で説明できそうである。 人間を月に着陸させることは理解しやすい目標であったのに対し、月質学(月の地質学)は平均的な人にとってあまりにも抽象的すぎたのであった。 また、ケネディの掲げた人類を月に着陸させる目標がすでに達成されてしまったこともその一因となった。 目的が明確に定義されていたことはアポロ計画がその目標を達成する助けとなったが、目標が達成されたあととなっては、月飛行ミッションを継続する正当な理由を説明することが難しくなった。 ほとんどのアメリカ人が宇宙探査で国家的目標を達成したことに誇りを持っていたころ、1960年代後半に一度だけ実施された(世論調査)では、アメリカ人の大多数が宇宙開発を「あまりしない」よりも「もっとする」ことを支持していたことが示された。 しかし、1973年になるころには、59パーセントの人々が宇宙探査にかける費用を削減すべきだと回答するまでになった。 米国とソ連がの時代に入ると、宇宙開発競争は終わりを迎え、冷戦の緊張も緩和されていった。 このころはちょうどが始まった時期でもあり、支出を削減するよう政府に圧力がかけられた。 宇宙計画が経費節減から救われたのは、それが何か偉大なことを成し遂げた数少ない政府の事業のひとつだったためである。 抜本的に削減すれば、の副局長だったに「我々にとっての絶好の時期が遅れている」とのメッセージを送ることになるかもしれないとして警戒された。 アポロ11号ミッションのあと、ソ連の当局者らは人間を月に着陸させるのは危険で不必要なことだったと発言した。 当時ソ連は無人探査機を使って月の試料を回収しようとしていた。 ただし、ソ連は公には月着陸競争の存在を否定しており、そのような試みがなかったことを示していた。 ソ連の科学者 ()は1969年7月に「我々は大規模な衛星システムの開発にすべてを注力しているところだ」と語った。 月に人間を送り込もうとしていたが、技術的困難のために実現しなかったとソ連が明らかにしたのは1989年のことだった。 ソ連の一般の人々の反応は複雑なものであった。 ソ連政府が(アポロ11号の)月面着陸に関する情報の公開を制限したことも人々の反応に影響を及ぼした。 ソ連の民衆の一部はアポロの月面着陸に何ら関心を示さず、別の一部にはそのことに怒りを覚える者もいた。 宇宙船 [ ] の Milestones of Flight 展示ホールに展示されたコロンビア号 地球に帰還した司令船「コロンビア」はアメリカの49州の州都と首都およびアラスカ州で巡回展示された。 その後、1971年にに移管され、ワシントンD. にある(National Air and Space Museum、NASM)で展示された。 「コロンビア」が展示された場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入口正面にある中央のMilestones of Flight展示ホールで、メインホールにはほかに、、、、、・など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている。 2017年に「コロンビア」はバージニア州シャンティリーにある ()のメアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫(NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar)に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催される Destination Moon: The Apollo 11 Mission(目的地・月:アポロ11号の使命)と題した巡回展に向けて準備が進められた。 この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日までにて、2018年4月14日から同年9月3日まで ()にて、2018年9月29日から2019年2月18日までの ()にて、2019年3月16日から同年9月2日までの ()にて、それぞれ開催される。 アームストロングとオルドリンの宇宙服は40年間、同博物館内のApollo to the Moonコーナーに展示されていた が、2018年12月3日をもって同展示コーナーは永久に閉鎖され、それに代わる新しい展示コーナーが2022年にオープンする予定である。 アームストロングの宇宙服は2019年7月にアポロ11号が50周年を迎えるのに合わせて特別展示されることが企画されている。 隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーのに近いスミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターの別館にあり、月着陸船の試験機とともに展示されている。 に展示されているアポロ11号の移動式隔離施設(2009年) 月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。 2009年、(Lunar Reconnaissance Orbiter、LRO)が、歴代のアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船の下降段、科学観測機器、宇宙飛行士の足跡などを見分けられるほど十分に高い解像度で、初めて画像化することに成功した。 上昇段の遺物は、投棄されて月に衝突したあと、月の表面の不明な場所にあると推定されている。 場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄されたあとに追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いたあとでは宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる。 2012年3月、の創業者から資金提供を受けた専門家チームによって、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたサターンVの段からの場所が突き止められ、実際に先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で5基のエンジンが発見された。 そして、5基のうち2基の部品が引き揚げられた。 2013年7月、そのうちの1基のエンジンの錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した。 アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段は、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている。 月の石 [ ] アポロの月の石のおもな保管場所は、テキサス州のジョンソン宇宙センター内の ()にある。 安全に保管するために、ニューメキシコ州近郊の ()にも、より小規模なコレクションが収蔵されている。 月の石のほとんどは湿気ないように窒素の中に保存されている。 取り扱う際は直接手で触れないように、特殊な用具が使われる。 世界中の100以上の研究実験室がこの試料に関する研究を実施しており、毎年およそ500点の試料が用意され、研究者に発送されている。 1969年11月にニクソンは、135か国とアメリカ合衆国の50州および属領、ならびに国際連合に贈呈する ()を約250点作るよう、NASAに依頼した。 各展示品にはアポロ11号が持ち帰った月の塵が含まれていた。 米粒程度の大きさの粒子は月の土の4つの小片で、重さは約50ミリグラムあり、と同じくらいの大きさの透明なアクリル製のバッジに覆われていた。 このアクリル製のバッジによって月の塵の粒子は拡大されて見えるようになっている。 アポロ11号の月試料展示品は1970年にニクソンより親善の品として贈呈された。 受動的地震実験(Passive Seismic Experiment、PSE)の実験装置は、1969年8月25日に地上局からの指令アップリンクが使えなくなるまで運用された。 ダウンリンクは1969年12月14日に途絶えた。 2018年時点で、(Lunar Laser Ranging experiment)は運用が続けられている。 40周年記念行事 [ ] メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫で修理中の「コロンビア」 2009年7月15日には、同誌の写真家だった ()がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した。 2009年7月16日から24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した。 さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている。 2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された。 ()は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送するウェブサイトを立ち上げた。 2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスで大統領と面会した。 オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子どもたちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路につきたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた。 2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞であるがこの3名の宇宙飛行士に授与された。 この法案は、フロリダ州選出の上院議員と、同じくフロリダ州選出の下院議員 ()に支持されたものだった。 イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の意義に反応して次のように答えた。 詳細は「」を参照 アポロ11号の月面着陸は人類史にとって輝かしい成果を残したが、その一方で、これがねつ造であったとする主張がある。 このを信じる者は世界中に数多く存在しており、ねつ造であったと実証を試みるウェブサイトも数多くある。 彼らが唱える主張は以下の通りである。 アポロ11号の月面着陸は嘘であり、その様子とされるやは、ので撮影された。 にはアポロのような途方もない計画を成功させる技術的ノウハウはなかった。 だったらで焼かれて死んでいるはずなので、月面に着陸していたとしてもそれは人間ではなかった。 月面着陸にはが関与しており、宇宙飛行士らが発見したのと共に隠ぺいされた。 月面での活動の様子とされる写真やビデオ映像におかしな点がいくつもある。 これらの主張は、によってされており、誤りであることが明らかになっている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロや、などでも行われているため、今回は異例の措置となった。 うち3つ(宇宙飛行士1人につき1つ)が打ち上げ前に「コロンビア」に、2つが「イーグル」に積み込まれた。 後に ()と命名された。 空電とは、雷などの大気中の放電によって生じる電磁波で、ラジオなどの受信機の雑音の原因となる。 機密情報の取扱許可• 旅程《ワシントンD. /米国(9月29日)—メキシコシティ/メキシコ(9月29日-30日)—ボゴタ/コロンビア(9月30日-10月1日)—ブラジリア/ブラジル(10月1日)—ブエノスアイレス/アルゼンチン(10月1日-2日)—リオデジャネイロ/ブラジル(10月2日-4日)—ラス・パルマス/カナリア諸島(10月4日-6日)—マドリード/スペイン(10月6日-8日)—パリ/フランス(10月8日-9日)—アムステルダム/オランダ(10月9日)—ブリュッセル/ベルギー(10月9日-10日)—オスロ/ノルウェー(10月10日-12日)—ケルンとボンとベルリン/西ドイツ(10月12日-14日)—ロンドン/英国(10月14日-15日)—ローマ/イタリア(10月15日-18日)—ベオグラード/ユーゴスラビア(10月18日-20日)—アンカラ/トルコ(10月20日-22日)—キンシャサ/ザイール(10月22日-24日)—テヘラン/イラン(10月24日-26日)—ボンベイ/インド(10月26日-27日)—ダッカ/東パキスタン(10月27日-28日)—バンコク/タイ(10月28日-31日)—パース/オーストラリア(10月31日)—シドニー/オーストラリア(10月31日-11月2日)—アガナ/グアム(11月2日-3日)—ソウル/韓国(11月3日-4日)—東京/日本(11月4日-5日)—アラスカ州アンカレッジ・エルメンドルフ空軍基地/米国(11月5日)…(それから間隔を空けて)…オタワとモントリオール/カナダ(12月2日-3日)》• 「白んぼ」とは黒人が白人を指して呼ぶ蔑称(差別用語)。 下記に記す主張はアポロ計画陰謀論のごく一部であり、下記以外にも無数にある。 詳しくは当該記事を参照。 出典 [ ]• The Apollo Program. Smithsonian National Air and Space Museum. 2013年8月29日時点のよりアーカイブ。 2013年9月7日閲覧。 106. 109. Apollo 11 Lunar Surface Journal. NASA 1995年. 2013年6月13日閲覧。 Williams, David R. 2003年12月11日. US National Space Science Data Center. 2013年9月7日閲覧。 107. , pp. 72—77. Apollo 11 Lunar Surface Journal. NASA 1995年. 2013年6月13日閲覧。 Stenger, Richard 2001年5月25日. CNN. の2010年6月6日時点におけるアーカイブ。 2018年12月30日閲覧。 134. , pp. 13—15. , p. , p. 134. , pp. 101—106. , pp. 332—333. , p. 342. , p. 121. , pp. 112—117. NASA 1961年5月25日. 2018年9月16日閲覧。 , p. NASA Langley Research Center Office of Public Affairs. NASA 1992年12月. 2018年12月26日閲覧。 , pp. 85—86. , pp. 48—49. , pp. 181—182, 205—208. , pp. 214—218. , pp. 265—272. , pp. 274—284. , pp. 292—300. , pp. 303—312. Lindroos, Marcus. MIT OpenCourseWare. 2011年10月4日閲覧。 , p. 347. Brown, Jonathan 2009年7月3日. 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アポロ計画

アポロ 名前

概要 [ ] 下の 米ソのさなかの1961年5月、は、1960年代中に人間をに到達させるとの声明を発表した。 1969年7月20日、およびがで月面に着陸したことにより、その公約は実現される。 アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画は終了した。 アポロ計画は、NASAによる、に続く三度目の計画であり、そこで使用されたやは、後のやで使用された。 そのため、これらの後続計画も、しばしばアポロ計画の一環であると見なされている。 アポロ計画では、人間を月に送り、安全に帰還させるという当初の目的を達成するにあたり、途中で二つの大きな事故があった。 一つは、における予行演習中の発射台上での火災事故で、、、の3名の飛行士が死亡している。 もう一つは、において、月に向かう軌道上でのタンクが爆発した事故である。 これにより月面着陸は断念せざるを得なくなったが、乗組員たちは地上の管制官や技術者たちの援助と、そして何よりも彼ら自身の優れた能力により、無事に地球に帰還することができた。 で人間は初めて地球以外の天体の周囲を周回し、は現在までのところ、人類が他の天体の上に降り立った最後の事例となっている。 アポロ計画は、や有人宇宙船の開発にともなう関連技術の発展に拍車をかけ、特にや遠隔、などの分野において大きく貢献した。 またいくつもの部分から構成された複雑な機器の信頼性を検査するために、的な手段を用いる手法を開拓するなど、多くのの分野の発展にも繋がった。 有人宇宙飛行のために必要不可欠な構成物であった事物や機器は、、技術、電子工学の表章として今も残されている。 計画で使用された多くの事物や遺物が、をはじめとする世界各地の様々な場所で展示されている。 背景 [ ] アポロ計画は、1960年初頭政権下において、の後継のプロジェクトとして着想された。 マーキュリー宇宙船は、一人の飛行士を乗せてを周回させることしかできなかったものの、アポロ宇宙船では三人の飛行士を乗せ月を周回し、さらに月面に着陸することが目標とされた。 計画名は当時の ()が、の太陽神にちなんで名づけたものである。 後に彼は「まるで自分の子供に命名するような気持ちで名づけた」と語っている。 しかし、NASAが立案を開始した時点では予算の見通しは立っておらず、特にアイゼンハワー大統領の有人宇宙飛行に対する態度もあいまいなものであった。 1961年1月20日、ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国第35代大統領に選出された。 選挙期間中、ケネディは宇宙開発や防衛の分野においてアメリカをに優越たらしめることを公約としていた。 宇宙開発を国家の威信の象徴とし、(当時の米ソ間に想定されていたの技術および配備状況の格差)について警鐘をならすとともに、アメリカをこれに勝利させることを約束した。 しかし、この言葉とは裏腹に、大統領に選出された後もケネディはアポロ計画について直ちに決定を下すことはなかった。 彼は宇宙開発技術の詳細についてよく知らず、また有人月面着陸に必要とされる莫大な予算に対し二の足を踏んでいたのである。 NASAの長官が13パーセントの予算増額を要求した際、ケネディはNASAの大型ロケットの開発促進は支持したものの、より大きなレベルでの決断は先延ばしにしていた。 1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士が、で史上初の有人宇宙飛行を成功した。 これを目の当たりにしたアメリカ国民はソ連とのにおいて立ち後れているという不安を増大させた。 ガガーリンの飛行の翌日に開かれた ()では、アメリカがソ連に確実に追いつくことを目的とした緊急プログラムの支持を多数の議員が表明した。 しかし、ここでもケネディは慎重な反応を示しソ連に対するアメリカの対応については明確にすることはなかった。 4月20日にはケネディはに覚書を送り、アメリカの宇宙開発の現状と、NASAに追いつく可能性を与えられる計画について検討するよう指示した。 ジョンソンは翌日の返答で、「我々はいまだ、合衆国を世界の先頭に立たせるためのいかなる最大限の努力も果たしていないし、成果も出してはいない」との見解を示し、また有人月着陸の実現は近くはない将来であり、だからこそアメリカが世界で初めて達成できる可能性があると結論づけた。 1961年5月25日の上下院合同議会で、月着陸計画の決定を発表するケネディ大統領 1961年5月25日、ケネディはでの演説で、アポロ計画の支援を表明した。 「 まず私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国民が取り組むべきと確信しています。 この期間のこの宇宙プロジェクト以上に、より強い印象を人類に残すものは存在せず、長きにわたる宇宙探査史においてより重要となるものも存在しないことでしょう。 そして、このプロジェクト以上に完遂に困難を伴い費用を要するものもないでしょう。 First, I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth. No single space project in this period will be more impressive to mankind, or more important in the long-range exploration of space; and none will be so difficult or expensive to accomplish. 」 ケネディがこの演説をした時点では、アメリカは、そのわずか一ヶ月前に一人の飛行士を宇宙に送ったばかりであり、しかもそれは、のように単に上昇して下降してくるにすぎず、地球を周回するに乗ったものではなかった。 NASAの関係者の中にさえ、ケネディのこの公約の実現性を疑う者がいた。 1969年の終わりまでに人間を月面に着陸させるというケネディの挑戦に応えるためには、平時にはいかなる国も実現したことのない規模の技術面での躍進的な進歩と、巨額の予算(250億ドル)とが必要とされた。 アポロ計画は、ピーク時には40万人の従業員を雇用しており、アポロ計画をサポートしていたのは2万以上の企業や大学に及んでいた。 ライス大学でアメリカの宇宙計画について演説するケネディ大統領。 1962年9月12日 「 我々が10年以内に月に行こうなどと決めたのは、それが容易だからではありません。 むしろ困難だからです。 この目標が、我々のもつ行動力や技術の最善といえるものを集結しそれがどれほどのものかを知るのに役立つこととなるからです。 その挑戦こそ、我々が受けて立つことを望み、先延ばしすることを望まないものだからです。 そして、これこそが、我々が勝ち取ろうと志すものであり、我々以外にとってもそうだからです。 We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard, because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills, because that challenge is one that we are willing to accept, one we are unwilling to postpone, and one which we intend to win, and the others, too. (宇宙開発の国家目標について、ライス大学でケネディが行った演説から) 」 月飛行方式の選択 [ ] ケネディがアポロ計画の到達点を明確に定義したことにより、技術者たちはこの設定された目標に対し、生命への危険やコスト、あるいは技術や飛行士の能力への要求を最小限に抑えるための飛行方式を決定する必要に迫られることになり、その結果以下の四つの案が検討された。 アポロ計画初期の段階での、直接降下および地球周回方式の宇宙船のイメージ(1961年)• 直接降下方式:単体の宇宙船で月に向かい、着陸して帰還するというもの。 この方式では、計画されただけで実現することのなかったのような、非常に強力なロケットが必要とされる。 地球周回ランデブー方式 Earth Orbit Rendezvous, EOR :複数のロケット(15基以上を必要とするという案もあった)で部品を打ち上げ、直接降下方式の宇宙船および地球周回軌道を脱出するための宇宙船を組み立てるというもの。 軌道上で各部分をさせた後は、宇宙船は単体として月面に着陸する。 月面ランデブー方式:二機の宇宙船を続けて打ち上げる方式。 燃料を搭載した無人の宇宙船が先に月面に到達し、その後人間を乗せた宇宙船が着陸する。 地球に帰還する前に、必要な燃料は無人船から供給される。 月周回ランデブー方式 Lunar Orbit Rendezvous, LOR :いくつかの単位から構成される宇宙船を、1基ので打ち上げるという方式。 着陸船が月面で活動している間、司令船は上に残り、その後活動を終えて離昇してきた着陸船と再びドッキングする。 他の方式と比較すると、LOR方式はそれほど大きな着陸船を必要とせず、そのため月面から帰還する宇宙船の重量(すなわち地球からの発射総重量)を最小限に抑えることができる。 1961年の初めまでは、NASA内部では直接降下方式が支持されていた。 多くの技術者たちにとっては、地球周回軌道上においてすらいまだ行なわれたことのないやドッキングを、月周回軌道上で実現させることへの不安が大きかった。 しかしながらのジョン・フーボルトなどの反論者たちは、LOR方式によって得られる大幅な重量削減という利点を強調した。 60年から61年にかけ、フーボルトはLORこそが最も確実で実践的な方式であると、各方面に訴えて回った。 NASA内部の階級を飛び越え、副長官のロバート・シーマンズのところにも一連の文書を送った。 フーボルトは、シーマンズが以前「(計画について)いろいろと雑音を発する者がいる」などと発言していたことを知っていたが、LOR方式を検討から外すべきではないと嘆願した。 そんな中で、シーマンズが1961年7月にゴロヴィン Golovin 委員会を立ち上げたことが、計画の方針を決定するひとつの転機となった。 この特別委員会にはアポロ計画で使用すべきロケットが推薦されることになっていたが、その判断をするためには、まず月着陸の方式を決定することが重要な要素であると考えられた。 委員会は当初、地球周回方式と月周回方式の混成案を推薦していたが、フーボルトらの陰の働きかけもあり、LOR方式の検討が、着陸方式の実現可能性を公表する際の重要な役割を果たすようになった。 1961年の終わりから1962年のはじめにかけ、内のNASA宇宙任務グループ(Space Task Group, 1958年に創設された、技術者たちの集団からなる有人宇宙飛行計画のNASA内部研究グループ)もLOR支持に意見を変えはじめ、マーシャル宇宙飛行センターの技術者たちもやがて月周回ランデブー方式のメリットを確信するようになり、彼らの方針転換は1962年7月に、博士によって非公式に発表された。 NASAがLOR方式採用を正式に表明したのは、同年11月のことであった。 これについて宇宙開発史研究家のジェームズ・ハンセンは、「もし1962年に頑迷なNASAがこのささやかな変更を受け入れなかったとしても、アメリカは月面に到達していただろうが、ケネディが公約した「1960年代中に月に到達させる」という目標はほぼ確実に達成されることはなかっただろう」と述べている。 ちなみにLOR方式への変更は、ずっと後になってが月軌道の途中で酸素タンクの爆発事故を発生させた時、吉と出ることとなった。 もしこの時、独自の生命維持装置を持つ月着陸船が存在していなければ、飛行士たちは確実に命を落としていたところであった。 宇宙船 [ ] 詳細は「」を参照 Command Module, CM は形をしており、三人の宇宙飛行士を月軌道に乗せ、また宇宙から帰還させ海上に着水するように設計されている。 CMに搭載されている主なものは、反動姿勢制御装置、ドッキング用トンネル、航法装置、などである。 CMの下部には、メイン・ロケットや姿勢制御用ロケットおよびその燃料、、通信用、水や酸素のタンクなどを搭載した Service Module, SM が接続されている。 アポロ・・では各種科学測定装置なども搭載されていた。 機械船は飛行中のほとんどの時間を司令船に接続された状態にあり、する直前に投棄される。 司令船底部には再突入時の激しい高温から機体および乗員を保護する耐熱シールドが貼られており、再突入時にはを展開して十分に速度を落とした後、安全に海洋上に着水する。 CSM開発の契約は宇宙工学者 ()をリーダーとする航空が獲得した。 同社とNASAの関係はアポロ計画の進行中、特に飛行士三人を犠牲にしたの火災事故が発生したことなどにより、緊張したものになった。 事故の原因は司令船内の電気配線のによるものであると断定されたが責任の所在は混沌としており、調査委員会は「司令船の設計・技術・品質管理において欠陥が存在した」と結論づけている。 月着陸船 [ ] 月面上の月着陸船 Lunar Module, LM は、月面への着陸と司令・機械船が待機する月周回軌道までの帰還のみを目的に設計されている。 地球のでは運用しないことが前提であるため、耐熱板は限定的なものであり、また徹底して軽量化が図られている。 定員は二名で、上昇段と下降段の二つの部分から構成されている。 下降段には、アポロ月面実験装置群やなどを搭載するスペースが設けられている。 開発契約は社が獲得し、トム・ケリーが計画全体を監督するが、着陸船は開発の遅れという個別のトラブルを抱えることとなる。 各種試験の遅延のためにアポロ計画全体の進行にも深刻な影響を与えはじめ、LMは「お荷物」 pacing item とさえ呼ばれることとなった。 このためNASAは、当初はで行われるはずだった有人試験飛行をに延期せざるを得なくなった。 ロケット [ ] フォン・ブラウン博士に率いられる技術者たちのチームがアポロ計画を立ち上げた当初、ロケットはどのようなものを使用すべきかという点については不透明であった。 このうち直接降下方式を採用するためには、計画中ののような巨大なを持つロケットが必要だった。 やがてNASAが月周回ランデブー方式の採用を決定したことにより、マーシャル宇宙飛行センターはおよびの開発へと向かうこととなった。 これらのロケットはノヴァと比較すれば小型であったが同時期の他のロケットより遥かに大型であり、特にサターンVは初打ち上げから40年以上が経過した2013年現在においても、実用化に至った最大のロケットの座を保持し続けている。 サターンV(サターン5型ロケット) [ ] アポロ6号で報道陣向けに公開されたサターンV図解(ペイロード含む) サターンVは、3段のロケットおよびその3段目最上部(ペイロードを含まない、サターンV単体としての最頂部)に搭載された自動飛行制御装置によって構成されている。 第1段は十字型に配置された5基のを搭載し、全体で約3,400のを発生する。 燃焼はわずか2分30秒で終了し、機体を時速約9,600km(秒速2. 68km)にまで加速する。 開発期間中、F-1はずっと燃焼の不具合に見舞われてきた。 エンジンへの燃料の供給がスムーズに行われなければ推力のゆらぎが発生し、やがてそれは大きな振動となってエンジン自体を破壊してしまう。 この問題は、燃焼中のエンジンの内部で小規模な爆発を発生させて燃焼のばらつきを相殺するなどの数多くの実験を行い、試行錯誤を積み重ねた結果、最終的には解決された。 第2段は5基のを搭載し、およそ6分間の燃焼で機体を時速約24,000km(秒速6. 84km)、高度185kmにまで到達させる。 その後は第3段が引き継ぎ、宇宙船を地球周回軌道に乗せる。 S-IVBにはJ-2エンジンが1基だけ搭載されていて、軌道上で再点火して月へと向かう軌道に乗る。 サターンIB(サターン1B型ロケット) [ ] 詳細は「」を参照 サターンIBは、初期のの発展型である。 第1段は8基のH-1ロケットエンジンを搭載し、第2段にはサターンVの第3段と同じS-IVBロケットが使用される。 第1段の推力は725トンしかないが、アポロ司令・機械船および月着陸船を地球周回軌道に乗せる能力を持っている。 サターンIBは各種の試験飛行およびスカイラブへの人員の搬送、そしてアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。 1973年にはS-IVBを改造したスカイラブが、サターンVによって打ち上げられた。 ミッション [ ] ミッションの種類 [ ] 1967年9月、の有人宇宙センターは月面着陸に向けた一連の飛行計画を発表した。 以下の A から G の七種のミッションは、それぞれ宇宙船の特定部分の性能や手順を確認するためのもので、次の段階に進むためには前段階の成功が必要であった。 A - (無人)司令・機械船 試験飛行• B - (無人)月着陸船 試験飛行• C - (有人)司令・機械船 飛行 そして地球帰還• D - (有人)司令・機械船および月着陸船 低高度地球周回軌道飛行 そして地球帰還• E - (有人)司令・機械船および月着陸船 遠地点7,400kmの飛行 そして地球帰還• F - (有人)司令・機械船および月着陸船 月周回飛行 そして地球帰還• G - (有人)月面着陸 そして地球帰還 後にはこれらに加え、短期間の滞在のうちに2度の月面船外活動を行うミッション H が追加され、さらに、より長い3日間月面に滞在し、を使用して3度の船外活動を行うミッション J がこれに続くこととなった。 ミッション J はからにおいて実施されたものの、続く18号から20号までは計画自体がキャンセルされた。 またこれに先立ち、機械船に科学測定装置を搭載し、軌道滞在中に各種観測を行うミッション I も計画されていたが、18号以降のフライトがキャンセルされたことにより J 案に吸収され、15号から17号において実行された。 無人ミッション [ ] アポロ計画のための準備は、有人飛行が行われる以前に始まっていた。 の試験発射は1961年10月に始まり、1964年9月まで続けられた。 このうちの3回の飛行では、模擬の司令・機械船を搭載していた。 また1963年と1965年には、宇宙船のの発射実験がにおいて行われた。 公式に「アポロ」の名が冠されているものの中で、無人試験飛行が行われたのは、、のみである。 はサターンVの初の試験飛行で、1967年11月9日に行われた。 これはジョージ・ミューラーが提唱した「全段一斉試験方式」を例証するものであった。 それまでは開発中のの発射試験をする場合は、各段を別々に行うのが通例だったが、サターンVでは初めて全段を一度にまとめて発射した。 実験はきわめて上首尾に終わった。 およそ6km離れた地点からその様子を中継していたのによると、あまりにも強烈な騒音と振動で天井のタイルがはがれ落ち、窓が激しく揺さぶられたため、窓ガラスが割れないように手で抑えながら中継を続けなければならなかったという。 この実験により、サターンの発射時には近辺にある構造物を振動から保護するための対策が必要であることが明らかになった。 これ以降は発射台に直接緩衝機構を設置するようになり、これによって騒音と振動は大幅に低減された。 アポロ計画最後の無人試験飛行は6号で、1968年4月4日に発射され、約10時間後の21:57:21 UTCに地球に帰還した。 有人ミッション [ ] アポロ11号で、月面に立てた星条旗のかたわらに立つバズ・オルドリン飛行士。 旗の上辺に梁があるが、これは大気のない月面上で旗を展開しておくためのものである 有人飛行は、すべて船長・司令船操縦士・月着陸船操縦士の三名によって行われた。 月面着陸をする際には、船長と着陸船操縦士のみが降下し、司令船操縦士はその間月周回軌道上で待機していた。 アポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月11日に発射されたであった。 計画の目的は、の死亡火災事故を受けて全面的に再設計された司令船を、地球周回軌道上で11日間にわたって試験することであった。 サターンIBロケットが人を乗せて打ち上げられるのも、またアメリカの宇宙開発において三人の飛行士が同時に宇宙に行くのも、この飛行が初めてであった。 1968年の夏頃には、この年に行われるアポロ8号の飛行には月着陸船の完成が間に合わないことが明らかになった。 そのためNASAは計画を変更し、8号を単なる地球周回軌道に乗せるのではなく、月に向かわせ、期間中に月を周回させることを決定した。 これは当時のアポロ宇宙船計画室マネージャーだったジョージ・ロウの発案によるもので、しばしば「この変更はソ連が有人ので月を周回しようとしていることに対抗したものである」と言われることがあるが、ソ連にそのような計画があったことをうかがわせる証拠は存在しない。 NASAはもちろんゾンドの飛行を知ってはいたが、ゾンド計画の時期とアポロ8号の決定に関するNASAの広範囲な記録は、必ずしも一致しない。 結局のところ8号の計画変更は、別に月飛行でソ連に先を越されることを恐れたからではなく、単に着陸船の開発の遅れに起因するものと見るのが妥当である。 1968年12月21日から69年5月18日にかけて、NASAはサターンVを使用して三度の有人飛行(、、)を行った。 それぞれの飛行はすべて三人の飛行士が乗り組み、後の二つは着陸船も搭載していたが、月面着陸を目標とするものではなかった。 続くで、人類は地球の歴史上初めて地球以外の天体の上に降り立ち、船長ニール・アームストロングは有名な以下の言葉を残した。 1972年12月13日、アポロ計画における最後の月面活動を行うハリソン・シュミット飛行士 また次のは成功したものの、では機械船の酸素タンクが爆発するという事故が発生した。 これにより月面着陸は中止せざるを得なくなったが、三人の飛行士は無事に地球に帰還することができた。 その後のからまでの飛行はすべて成功し、特に最後の三回では月面車を利用して広範囲に月面を探索する、のミッション J が実行された。 最後の17号は1972年12月7日に発射され、12月19日、無事地球に帰還した。 船長は2020年現在、最後に月を離れた人間である。 アポロ応用計画 [ ] アポロ計画の成功を受け、NASAおよびその関連企業はアポロのを利用した月飛行後の応用計画について、いくつかの案を検討した。 「アポロ拡張計画」(後に『アポロ応用計画』と改称された)と呼ばれたこの計画では、地球周回軌道を回る13種類の案が提示されていた。 そのうちの多くは、サターン・ロケットの月着陸船が搭載されていたスペースに、科学機器を乗せて打ち上げるというものであった。 これらのうち、実現されたのは(1973年5月-1974年2月)と(1975年7月)だけであった。 スカイラブの機体はサターンIBの第二段を改造して作られ、月着陸船をベースにした太陽望遠鏡が設置されていた。 本体は一部を改造されたサターンVによって軌道上に打ち上げられ、三名の乗組員はサターンIBに搭載された司令・機械船で地上とラブの間を往復した。 最後の飛行士が機体を離れたのは1974年2月8日のことで、スカイラブはその後1979年に、予定よりも早く大気圏に再突入して分解した。 アポロ計画に関わった物体としては、その時点においてこれが最も古いものであった。 アポロ・ソユーズテスト計画は、アポロの司令・機械船および今回のために特別に開発されたドッキング・モジュールが、地球周回軌道上でソ連の宇宙船とドッキングするというものであった。 計画は1975年7月15日から24日にかけて行われたが、ソ連はこの飛行の後もソユーズや宇宙ステーションなどを使って有人宇宙飛行を継続したのに対し、アメリカは1981年4月12日にが初飛行を行うまで、人間が宇宙に行くことは中断されていた。 計画の概要 [ ] 計画名 使用ロケット 乗組員 発射日 計画の目標 結果 ( アポロ1A) 無人 1966年 2月26日 弾道飛行 一部成功 - サターンIBを使用してアポロ司令・機械船を打ち上げた、初の弾道飛行。 機械船のロケットエンジンが予定よりも60秒長く噴射し、司令船の電気系統でトラブルが発生するなどの問題があった。 ( アポロ2号) 無人 1966年 7月5日 地球周回飛行 成功 - 燃料タンク内の挙動およびロケットの性能試験。 非公式に「アポロ2号」と呼ばれる。 ( アポロ3号) 無人 1966年 8月25日 弾道飛行 成功 - 司令船の大気圏再突入試験。 途中で制御不能に陥ったものの、計画自体は成功。 非公式に「アポロ3号」と呼ばれる。 ( アポロ1号) 発射中止 地球周回飛行 失敗 - 1967年1月27日、発射台上での訓練中に司令船の火災事故が発生し、3名の飛行士が命を失った。 「アポロ1号」と命名されたのは、事故の後のことだった。 しかし、これは実際にはアポロ宇宙船の四度目の飛行となる予定だった(またNASAもAS-204と呼ぶ予定であった)。 一方、1966年6月にNASAが承認し飛行士が身につけていた計画の標章にはすでに「アポロ1号」と記されていた。 無人 1967年 11月9日 地球周回飛行 成功 - (月着陸船を除いて)フル装備の状態で行われたサターンVの初飛行であり、司令船の大気圏再突入も成功した。 無人 1968年 1月22日 地球周回飛行 成功 - 月着陸船の初の試験飛行。 多数の試験が行われ、終了後着陸船は大気圏に再突入し消息を絶った。 使用されたロケットは、本来は3名の飛行士を犠牲にしたアポロ1号(AS-204)で使用される予定のものだった。 無人 1968年 4月4日 地球周回飛行 一部成功 - 軌道投入時に激しい振動が発生し、エンジンの数機が停止した。 司令船の大気圏再突入は成功したが、予定していた「最悪の状態」を想定した試験を行うことはできなかった。 ドン・アイセル ウォルター・カニンガム 1968年 10月11日 地球周回飛行 成功 - 11日間にわたり地球を周回し、司令船その他の性能試験を行う。 フランク・ボーマン 1968年 12月21日 月周回飛行 成功 - 史上初めて、人間が月を周回した飛行。 地球周回軌道を離れて外部の世界から人間が地球を見下ろしたのも、この飛行が初めてだった。 実験は成功したが、飛行士が睡眠障害に陥ったり軽い病気にかかるなどした。 ジェームズ・マクディヴィッド 1969年 3月3日 地球周回飛行 成功 - 10日間にわたり地球を周回し、月着陸船の性能試験および船外活動を行った。 1969年 5月18日 月周回飛行 成功 - 2度目の月周回飛行。 月周回軌道上で月着陸船の性能試験を行い、 月へ高度15. 6kmまで接近した。 1969年 7月16日 月面着陸 成功 - 史上初の有人月面着陸(最終降下局面では半自動にて手動介入)。 着陸地点の周辺を歩行により探査。 ピート・コンラッド リチャード・ゴードン アラン・ビーン 1969年 11月14日 月面着陸 成功 - 発射時に落雷が機体を直撃して船内が一時的に停電したが、無事打ち上げに成功。 1967年4月17日に着陸した無人探査機3号から、わずか200mの地点に着陸した。 フレッド・ヘイズ 1970年 4月11日 月面着陸 失敗(『成功した失敗』と評されることもある) - 月に向かう軌道の途中で機械船の酸素タンクが爆発し、月面着陸は断念せざるを得なくなった。 乗組員は一時的に着陸船に避難し、月を周回して地球に帰還した。 スチュワート・ルーズマ エドガー・ミッチェル 1971年 1月31日 月面着陸 成功 - 月周回軌道上で着陸船のコンピューターに問題が発生したが、着陸に成功。 初めて月面でカラー撮影を行い、また化学実験をした。 アルフレッド・ウォーデン 1971年 7月26日 月面着陸 成功 - 初の3日以上の長期月面滞在。 初めて月面車を使用し、27. 76kmにわたって広範な地質学的調査を行った。 ケン・マッティングリー チャールズ・デューク 1972年 4月16日 月面着陸 成功 - 機械船の姿勢制御装置に故障が発生したため、大事を取って月面滞在日数が1日短縮された。 計画の主要な目的は、月の高地を探索することであった。 ロナルド・エヴァンズ ハリソン・シュミット 1972年 12月7日 月面着陸 成功 - 最後の月面着陸。 地質学者を搭乗させた唯一の飛行。 無人 1973年 5月14日 地球周回飛行 成功 - 宇宙ステーションスカイラブの発射。 ピート・コンラッド ポール・ウェイツ ジョセフ・カーウィン 1973年 5月25日 長期宇宙滞在 成功 - アメリカ初の宇宙ステーション、スカイラブに28日間にわたって滞在。 アラン・ビーン ジャック・ルーズマ オーウェン・ギャリオット 1973年 7月28日 長期宇宙滞在 成功 - スカイラブに59日間にわたって滞在。 ジェラルド・カー ウィリアム・ポーグ エドワード・ギブソン 1973年 11月16日 長期宇宙滞在 成功 - スカイラブに84日間にわたって滞在。 トーマス・スタッフォード ヴァンス・ブランド ドナルド・スレイトン 1975年 7月15日 地球周回飛行 成功 - ソビエト連邦の宇宙船ソユーズ19号とランデブーとドッキングを行う。 しばしば「アポロ18号」と呼ばれることもある。 アポロ18号 アポロ19号 アポロ20号 キャンセル 未発射 月面着陸 キャンセル - 当初の計画では20号まで予定されていたものの、予算削減でキャンセルされる。 月面から持ち帰ったサンプル [ ] アポロ16号が採取した酸化。 地球上にある月由来の試料は、アポロ計画、ソ連の、および月から飛来したのみである。 将来の有人・無人のでは、より多くの採取が期待されている。 111 kg アポロ計画では総量で381. 7kgの岩石その他の物質が月面から持ち帰られ、そのほとんどは現在はヒューストンにある月資料研究所に保管されている。 によれば、月面で採集された岩石は地球上のものと比較して全体的にきわめて古い。 その範囲は約32億年前(の部分で採取された)から46億年前(高地で採取されたのサンプル)まで確認されている。 したがって、これらは現在の地球上ではほとんど失われてしまった誕生初期の試料であると見られている。 と呼ばれるこの石は、を豊富に含んだによってほとんどの部分を構成されているので、月面の高地の地殻のサンプルであると考えられている。 この中からは地球化学で と呼ばれる、地球上には存在しない物質が発見された。 KREEPや斜長岩などのサンプルは、月の外殻表面がかつてドロドロに溶けた状態(・オーシャン)であったという仮説の根拠となっている。 採取された岩石の大部分は衝突にさらされた痕跡を有していた。 たとえば多くのサンプルの表面には微少が衝突したことによる極小のが確認されている。 これは厚いの層に阻まれた地球上の岩石には見られないものである。 また多くのものには隕石が衝突した際に発生した高圧のにさらされた形跡が残されており、中には impact melt、すなわちクレーター周辺で衝撃により融解した物質から構成されたものもあった。 そして月面から持ち帰られたすべてのサンプルは、繰り返し衝突の衝撃に曝されることによる化が進行していた。 こうした月の岩石の分析結果は、月が誕生した原因を地球に火星程度の天体が衝突したことに求める「」の論旨と合致するものである。 コストおよびキャンセルされた計画 [ ] 1966年3月、NASAは議会に対しアポロ計画で人間を月に送るためにかかる費用は13年間で総額227億1800万ドルに達すると報告し、また実際それは1969年7月から1972年12月にかけて6度の月面着陸を成功させるという成果となって現れた。 NASAの歴史に関するを管理するスティーブ・ガーバーによれば、最終的にアポロ計画にかかった費用は1969年当時で200億ドルから254億ドル(2005年現在のに換算すると、およそ1350億ドル)になるという。 またアポロ宇宙船およびサターン・ロケットにかかった費用は2005年度換算で830億ドルで、このうち宇宙船が280億ドル(司令・機械船170億ドル、月着陸船110億ドル)、サターン・ロケット I・IB・V が460億ドルであった。 キャンセルされた計画 [ ] 当初の予定ではアポロ計画は20号まで行われるはずだったが、NASAの大幅な予算削減およびサターンVシリーズの後続生産が打ち切られたことにより、18・19・20号の飛行はキャンセルされ、それらの予算はスペース・シャトルの開発およびスカイラブ計画に回されることとなった。 残ったサターンVは、1機が1973年にスカイラブを打ち上げるために使用され、残りの2機はの、のマーシャル宇宙飛行センター、のミシャウド組立施設、のなどに分割して現在も展示されている。 科学的・工学的遺産 [ ] アポロ計画は、多くの技術分野を刺激した。 は、の開発共々、初期の研究の推進力となった(当時の大型コンピュータでは、まだ小型化の要求は低く、などではまだチップ上に集積したICを採用していない)。 またはこの計画によって初めて実用化され、(コンピュータ数値制御)による機械工作もアポロの構造部品製作に際して開拓された分野であった。 将来の有人宇宙探査計画に与えた影響 [ ] いくつかの国ではすでに有人月飛行が計画され、また月面基地の建設を目指す宇宙機関もある。 史上初の月面着陸を成功させたの船長は、しばしばマスコミから将来の宇宙開発の展望について質問されている。 2005年にはそうした質問に対して「様々な課題はあるかもしれないが、1961年のアポロ計画スタート時に我々が直面したほど困難で、かつ大量の問題にはならないのではないか」と応え、への有人飛行は1960年代の月面着陸よりは容易になるであろうとの見解を述べた。 コンステレーション計画 [ ] 2004年1月14日、大統領は演説の中で、2020年までに宇宙飛行士を月面に到達させることを含む新たな宇宙開発の展望の「」を発表した。 計画では、2010年に退役する現行のスペース・シャトルの後継として宇宙船があげられており、その空力的な形状はアポロの司令船にきわめて近い。 NASAの前長官マイケル・D・グリフィンは、オリオンを「増強版アポロ」 " Apollo on steroids" と表現し、雑誌『ニュー・サイエンティスト』は「オリオン計画はアポロ時代の技術に先祖返りした程度のもの、との批判がある」と伝えているが 、一方でオリオンの操縦席の計器板や熱遮蔽板などでは新技術が使用される予定だった。 コンステレーション計画のうちアポロ計画の設計に最も似通っていたのは、オリオンを軌道に乗せるために設計された の上段ロケットである。 このロケットのエンジンには、サターン・シリーズで使用されたを改良したの使用が計画されていた。 J-2Xを開発するにあたり、NASAの技術者らは博物館でアポロ時代の資料を研究し、また実際にアポロ計画に従事した技術者たちに意見を求めた。 コンステレーション計画の責任者ジェフ・ハンレイは、「月面への着陸およびそこからの離陸に関する技術的問題は、相当程度にわたってすでに解決されている。 これらはアポロ計画が我々に残してくれた遺産である」と述べた。 アポロと同様、オリオンは月周回ランデブー方式をとるが、月着陸船アルタイルはロケットによって別個に打ち上げられる予定だった。 このアレスVはスペース・シャトルやアポロ計画の技術を元にして開発される予定だったロケットである。 そしてスカイラブ計画で行われたように地球周回低軌道上でオリオンとドッキングする。 アポロ計画からの変化としては、オリオンではすべての飛行士が月面に降下し、軌道上には無人の宇宙船が待機するという点がある。 また探索する地域はアポロ計画ではもっぱら付近が中心だったのに対し、コンステレーション計画ではに重点が置かれ、アポロ計画では用いられなかった地球周回ランデブー方式も使用が検討されていた。 2010年、大統領によりコンステレーション計画は中止された。 文化的遺産 [ ] 世界的な注目 [ ] 1968年のクリスマス・イヴにアポロ8号が行った月面からのは、その時点までになされたの中で最も広範囲に伝えられたものであった。 またアポロ11号による人類初の月面着陸は、全世界人口の五分の一がテレビ中継を通じて見守ったと言われている。 日本でが1969年7月16日21:45 JST から75分間放送した「アポロ11号発射」は43. アポロ11号の放送データ復元計画 [ ] アポロ計画40周年の記念事業の一環として、NASAはアポロ11号の月面着陸時の放送データ復元を実施している。 11号の月面歩行の様子を撮影したオリジナルのは行方不明になっていたが、3年間にわたる徹底的な調査の結果、テープは一旦消去した上で他の衛星データの記録に使用されたため、元データは完全に消去されてしまったと結論された。 アポロ計画に続く時期、NASAでは磁気テープが不足したため、から大量のテープを持ち出して新しい衛星のデータを記録しており、テープの捜索にはNASAのテレビ担当者ディック・ナフツガー Dick Nafzger や月面カメラの設計をしたスタン・リーバー Stan Lebar なども加わったが、結局、アームストロングが月面に足を降ろした瞬間を記録した元テープは失われたと結論された。 一方、月面着陸の様子を撮影した特別仕様のと映像の規格の違いから、放送用に変換された映像がテープに記録されていたため、11号について現存する放映時のデータが23万ドルをかけて収集・編集されることとなった。 この復元作業はナフツガーおよび修復を専門とするロウリー・デジタル( )社が担当し、ノイズやカメラぶれなどを歴史性を損なわずに除去するなどの作業が2009年9月の完了を目指して実施される。 ロウリー・デジタル社が修復作業をしている映像は、やCBSニュースの保管庫、ジョンソン宇宙センター内で記録されたキネスコープ(kinescope、)映像などから収集されたものである。 復元される映像は一定のデジタル処理を施した映像であり、音声に関しては手を加えられない。 宇宙飛行士に与えた心理的影響 [ ] 月からの。 アポロが残した最も重要な遺産の一つは、地球が壊れやすい小さな惑星にすぎないという、陳腐とはなっても未だ普遍的とは言い難い認識である。 これは月面上から撮影された写真を通じて伝えられ、なかでも8号の飛行士が撮影した「」(「アースライズ」、左)と、17号の飛行士が撮影した「」と呼ばれるもの(右)が有名である。 これらの写真は、多くの人々にとってへの動機付けになったと指摘される。 脚注 [ ]• Charles Murray, Catherine Bly Cox 2004 英語. Apollo. South Mountain Books. Charles Murray, Catherine Bly Cox 2004 英語. Apollo. South Mountain Books. Michael R. Beschloss, "Kennedy and the Decision to Go to the Moon," in Roger D. Launius and Howard E McCurdy, eds. 1997 英語. Spaceflight and the Myth of Presidential Leadership. University of Illinois Press. Michael R. Beschloss, "Kennedy and the Decision to Go to the Moon," p. "Discussion of Soviet Man-in-Space Shot," Hearing before the Committee on Science and Astronautics, U. House of Representatives, 87th Congress, First Session, April 13, 1961. Sidey, Hugh 1963 英語. John F. Kennedy, President. Atheneum. 114• Kennedy to Johnson, April 20, 1961. Johnson to Kennedy, April 21, 1961. John F. Kennedy, , May 25, 1961• Charles Murray, Catherine Bly Cox 2004 英語. Apollo. South Mountain Books. 3 - 4. , NASA Langley Research Center. John F. Kennedy,• 初期には月周遊船 Lunar Excursion Module, LEM とも呼ばれていた。 Charles Murray, Catherine Bly Cox 2004 英語. Apollo. South Mountain Books. 240. アポロに比べて貨物や乗員が地表に近いスペース・シャトル計画では、大量の水を散布して音響を抑制する方式が採用され、現在のスペース・シャトルでも継続して使用されている。 James Papike, Grahm Ryder, and Charles Shearer 1998. Reviews in Mineralogy and Geochemistry 36: 5. 1—5. 234. Burrows, William E. 1999. This New Ocean: The Story of the First Space Age. Modern Library. 431. Burrows, William E. 1999. This New Ocean: The Story of the First Space Age. Modern Library. 429. National Public Radio, July 16, 2009. Yahoo news, July 16, 2009. 2007年3月17日. Politics Blog -- a reproduction of the film's transcript. 2007年7月29日閲覧。 参考文献 [ ]• アンドルー・チェイキン『人類、月に立つ』(原書名: A MAN ON THE MOON 、 関連項目 [ ]• (ソ連版有人月周回計画)• (ソ連版有人月面着陸計画)• (中国版有人月面着陸計画)• - トム・ハンクスが製作総指揮のアポロ計画をテーマにしたアメリカHBOのテレビドラマシリーズ• - アポロは月に行かなかった(ムーンホークス)、またはアポロは月で何者かに遭遇したと主張する一連の陰謀論• - アポロ計画に関わった計算機科学者で、印刷された誘導コンピュータソースコードの脇に立つ写真が有名 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (日本語)• (英語)• ペーパークラフト(U-DON'S FACTORY)•

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